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勇者と魔王、居酒屋始めました!  作者: あんずのかおり


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第五十五話 最初の一歩

とある居酒屋の、個室の座敷席。


障子越しに外の喧騒がわずかに伝わるが、

この空間だけは切り取られたように静かだった。


「お飲み物は、何になさいますか?」


注文を取りに来た男性店員に、

先に応えたのは、落ち着いた佇まいの女性――伊花琴葉だった。


銀縁のインテリ眼鏡をかけ、無駄のない所作でメニューから視線を上げる。


「私は生で。……貴女は?」


伊花の視線の先、テーブルを挟んで向かいに座るのは木之下由香里。


由香里は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせ、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべる。


「あ……えっと……私も、生で大丈夫です……」


慣れていないのが、声の調子からもはっきりと伝わった。


「かしこまりました。生を二つですね。他にご注文はございますか?」


「また、後でお願いします」


伊花がそう答えると、店員は一礼し、静かに個室を後にした。


残されたのは、小さな卓と、二人分のわずかな沈黙だった。


由香里は、そっと息を吐く。


仕事以外で伊花とまともに話したことは、ほとんどない。

交わす言葉といえば、業務連絡、報告、確認事項――それだけだ。

プライベートの話題など、一度もなかった。


だからこそ、こうして二人きりになった今、何をどう切り出せばいいのか分からない。


何より――

どうしてこうなったのか、その理由が見えない。


思い当たる節を探そうとすればするほど、余計な考えが浮かんでしまう。

何か注意されることがあるのか。

あるいは、評価の話か。


理由が分からないまま、軽率なことは言えない。


そんな思考が巡り、自然と背筋が伸びる。


沈黙は、実際にはほんのわずかな時間だったのかもしれない。

けれど由香里には、やけに長く、重く感じられた。


その張り詰めた空気を、先に破ったのは――伊花だった。


「はぁ〜……今日も疲れたぁ!」


大きなため息とともに、伊花は仰反るように体を伸ばした。

普段の彼女からは想像もつかない、気の抜けた姿だった。


思わず目を丸くしながら、由香里は恐る恐る口を開く。


「あの……伊花先輩……」


「ん? どうしたの?」


返ってきた声は驚くほど軽く、先程までの職場の緊張感など、微塵も感じさせない。


「いえ……その……これって……なんですか?」


由香里の胸の内には、今日一日ずっと渦巻いていた不安があった。


就業中、突然「今夜、時間空いてる?」と言われ、反射的に「はい」と答えてしまったものの、頭の中では最悪の想像ばかりが膨らんでいた。


(色々と思い当たる事が……。でも、やっぱり……あの件よね。スケジュール調整のミス……となると、やっぱり――説教、か……)


重たい沈黙のまま会社を出て、辿り着いたのは、どこにでもあるチェーンの居酒屋。

そして、今のこの状況だ。


「何って……?」


伊花は首を傾げ、拍子抜けするほどあっさりと言う。


「飲みに来たに決まってるでしょ」


「飲みに……ですか……? あの……今日の、私の仕事の話とかじゃ……」


「何それ」


即座に返される一言。


「仕事終わったのに、なんで仕事の話しなきゃいけないのよ」


「で、でも……今日、私のスケジュール調整のせいで……」


そう言いかけた、その時。


「お待たせしました! 生ビール二つと、本日のお通しの高野豆腐です!」


元気な声とともに、男性店員が卓に品を並べる。


「はぁ〜……やっと飲める〜!」


伊花はそう言うなり、迷いなくジョッキを掴んだ。


「……何してるの?」


「え?」


「ほら、乾杯」


「あ……はい……」


由香里は状況を理解しきれないまま、ジョッキを手に取る。

目の前のこの人は、本当に自分の知っている先輩なのだろうか――

そんな疑問すら浮かんでいた。


「乾杯〜!」


「……乾杯」


二つのグラスが触れ合い、

軽やかな音が、静かな個室に響いた。


伊花はジョッキを傾け、一気にビールを流し込んだ。

それとは対照的に、由香里は慎重に、ごくりと一口だけ喉を鳴らす。


豪快に飲み干す伊花を横目に見ながら――


「ぷはぁ……! やっぱり仕事終わりのビールは最高ね!」


「そ、そうですね……」


由香里はそう答えつつも、どこか落ち着かない様子だった。

仕事の話ではないと分かった。

けれど、ではなぜ自分が誘われたのか――

その理由だけが、まだ見えないままだ。


「本当はね、お気に入りの店に連れて行ってあげたかったんだけど……今日は定休日でさ」


「はぁ……」


さらりと告げられたその言葉に、由香里の胸の中の疑問は、むしろ膨らんでいく。


――お気に入りの店。

――“連れて行ってあげたかった”。


それほど親しい間柄だっただろうか。

そう思えば思うほど、理由が分からなくなる。


「あ、あの……」


由香里は意を決して口を開いた。


「何かしら? もう料理、決まった?」


返ってきたのは、まるで噛み合っていない返答。


「いえ……そうじゃなくて……」


一瞬、言葉に詰まりながらも、由香里は正直に続ける。


「どうして……私を飲みに誘ってくれたのか、その理由が分からなくて……」


由香里は視線を落とし、どこか気まずそうに言った。


それを聞いた伊花は、ぱちりと瞬きをする。

そして、一瞬きょとんとした顔で由香里を見つめた。


「理由って……ただ後輩を飲みに誘いたかっただけだけど?」


「……え?」


由香里の思考が、すとんと止まる。


「だから。仕事終わりに飲むとき、一人じゃ寂しいじゃない? それに、最近は貴女も私も忙しかったでしょ。今日やっとひと段落ついたから……一緒に一杯やりたくなったのよ」


あまりにも肩の力の抜けた理由だった。


「そ、それだけ……ですか?」


思わず確認するように問い返す。


「“それだけ”って……。それ以上に何があるの? これでも私、貴女の指導員よ? 頑張ってる後輩に、ご褒美として飲みに連れて行くくらい、普通でしょ?」


くすり、と伊花は笑う。


由香里は目を丸くしたまま、言葉を失った。


――本当に、それだけ?


あまりに当然すぎる答えに、胸の奥の緊張がふっと緩む。

けれど同時に、どこか腑に落ちない感覚も残っていた。


自分が考えすぎだったのか。


それとも伊花が、何かを隠しているのか。


由香里は、まだ完全には力を抜けずにいた。


「で、でも……私、今日スケジュール調整、ミスしてたのに……ご褒美だなんて……」


由香里は視線を伏せたまま、小さく言った。


その言葉に、今度は伊花のほうが目を丸くする。

まさか、そんなふうに受け取っていたとは思わなかった、という顔だ。


伊花は、由香里のどこか後ろめたそうな雰囲気には気づいていた。

けれどそれは、初めて先輩と飲みに来た緊張からだと思っていたのだ。


だからこそ、素直に驚く。


「なに、貴女、まだあんなこと気にしてたの!?」


「あ、あんなことって……」


軽く言われたその一言に、由香里の胸がちくりとする。

自分の中では、地味でも確かな失敗だったのだ。


「あのね」


伊花は少し身を乗り出す。


「貴女、まだ新人なのよ? 入社して半年しか経ってないし、部署だって、ほんの数ヶ月前までは別だったでしょう」


責める口調ではない。

むしろ、呆れと優しさが混ざった声だった。


そして、伊花は一拍置いて、少しだけ声の調子を落とす。


「そんな人に、最初から完璧を求めるわけないじゃない。失敗して当然よ。――むしろ、あそこまでやれた貴女を、私はちゃんと褒めてるんだから」


思いがけない言葉だった。

胸の奥を、ぎゅっと掴まれたような感覚に、由香里は言葉を失う。


「あ……その……ありがとう、ございます……」


絞り出すように、遠慮がちで、少しぎこちない声。

それでも、その一言には、確かに本音が滲んでいた。


「あはは、もう何よその態度。もう職場じゃないんだから、気楽にしなさいよ」


「い、いえ……でも……さすがに先輩の前ですし……」


「まぁ、分かるわ。いきなり先輩から“飲みに行こう”なんて言われたら、身構えるわよね。しかも失敗した直後だったら、なおさら」


そう言って、伊花はくすっと笑った。


「……私も、そうだったし」


「先輩が……ですか?」


「ええ。新人の頃は、失敗ばっかりよ。そのたびに先輩に飲みに連れて行かれて、散々小言も言われたわ」


グラスを傾けながら、懐かしむように言葉を続ける。


「そういえば……あの頃が、一番――」


そこから始まった伊花の失敗談を、由香里は黙って聞いていた。


正直、意外だった。

今の伊花の姿から、“失敗続きの新人時代”なんて、どうしても想像がつかない。


数ヶ月の付き合いとはいえ、由香里にとって伊花は

仕事ができて、判断も早く、頼れる先輩だった。


実際、制作進行部での評価も高い。

難しい案件を任されることも多く、次の出世候補の名前に挙がるほどだ。


――だからこそ。


問題を起こして左遷された自分の指導員が、彼女だったという事実が、胸に刺さるように理解できてしまう。


それでも。


だからこそ、聞かずにはいられなかった。

「あの、先輩……。褒めてくださるのは、嬉しいんですけど……私は、前の部署で……」


由香里が何か言いかけた、その瞬間。


「ストップ、ストップ」


伊花が軽く手を上げて遮った。


「え……?」


「その話はいいわよ。ちらっとは聞いてるけど――私には関係ない」


きっぱりとした声だった。


「私はただ、今の貴女を見て、褒めてるだけ。貴女が過去を気にしてるのは分かる。でも、それは貴女の問題であって、私の問題じゃないわ」


その言葉が、由香里の胸に重く落ちる。


冷たいわけではない。

けれど、甘くもない。


伊花にとって、それは“他部署で起きた出来事”に過ぎない。

自分が抱えている罪悪感ほどの重さは、そこにはない。


――でも。


それで、よかったのかもしれない。


変に同情されるよりも。

腫れ物のように扱われるよりも。


「今の貴女」を見ていると、はっきり言ってもらえる方が、ずっと救いだった。


だからといって、自分の過ちを忘れていいわけではない。

それは、自分の中で抱えていくものだ。


「……すみません」


小さく呟く。


「ほら、そんな顔しないの」


伊花はグラスを持ち上げる。


「飲みましょ。今日は仕事の反省会じゃなくて、労いなんだから」


「あ、はい……」


由香里は、ほんの少しだけ表情を緩めながら、グラスに手を伸ばした。


「あ、そうだ。食べ物も頼まなくちゃ。すみませーん」


再び注文のため、伊花が店員を呼ぶ。


その横顔を見つめながら、由香里はふと思った。


――この人は、ちゃんと見てくれている。


少しドライで、踏み込みすぎない。

けれど、周囲の噂や評価に流されず、

自分の目で見たものだけを基準にする人。


そんな伊花が、今の自分を評価してくれている。


それが、どれほど救いになるか。


一度失ってしまった信用は、簡単には戻らない。

過去は消えないし、噂もすぐには消えない。


それでも。


もし、伊花からの評価が“最初の一歩”なのだとしたら――

いつか、取り戻せる日が来るのかもしれない。


そして。


由香里が、いま最も信用を取り戻したい相手。


篠崎先輩――美沙は、

由香里が謝罪の言葉を口にする前に、会社を辞めてしまった。


だから、いまだに謝れないまま。


あの日、最後に交わしたLINEのやり取りが、ふと蘇る。


『またどこかで、ちゃんと話せる日が来たらいいね』


『……その日まで、ちゃんとやり直してみます』


あの約束の続きを、いつか現実にするために。


そして、ずっと胸に引っかかっている

あの一言を、きちんと伝えるために。


由香里は、前を向くしかない。


そして、こんな自分を飲みに誘ってくれた先輩。そんな先輩に、


「今日は…誘って頂いて…ありがとうございます」


それは素直な言葉だった。

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