第五十四話 さぁ、祝福をしましょう!
えにし屋のカウンター奥――厨房。
火にかけられた鍋の前で、セリシアは真剣な眼差しを注いでいた。
立ちのぼる湯気の向こうで、表情はいつになく集中している。
そのすぐ後ろには悠真。
見守るように立ちながら、ときおり静かに声をかける。
「火、少し弱めた方がいいかな」
「……わかったわ」
休みの日。
最近の二人は、こうして並んで料理をすることが増えていた。
鍋の中で小さく煮立つ音が、静かな厨房に溶けていく。
言葉は少なくとも、それだけで満ち足りた時間だった。
――そのとき。
店の扉が開く音が、店内に響いた。
「ただいまー」
「今戻った」
聞き慣れた声に、二人は同時に振り向く。
そこに立っていたのは、美沙とグレイだった。
「ああ、おかえり。二人とも」
悠真が柔らかく声をかける。
「おかえり。スイーツのビュッフェ、どうだった?」
セリシアもエプロンの裾を整えながら、静かに問いかけた。
厨房の熱気の中に、外の空気が混ざり込む。
賑やかな気配が、ゆるやかに広がっていった。
「うん、すごく良かったよ!」
即座に答えたのは美沙だった。
少し前までの戸惑いはどこにもなく、いつもの明るい声音だ。
「食べたことないスイーツがいっぱいあってさ、結局食べきれなかったー。それにね、グレイさんなんて、さらに山盛りに取って、すっごく美味しそうに食べてたんだから」
「グレイが?」
セリシアは思わず目を丸くする。
「うん!」
「……そう。グレイも、楽しんできたのね」
「ああ……スイーツビュッフェ……あれは、夢のような時間だった……」
一つ一つ思い返すように、噛みしめるような口調で答えるグレイ。
「でね、ビュッフェの後はバッティングセンターにも行って――見てよ、これ!」
美沙は手にしていた大きな袋をがさりと揺らし、中から大きなウサギのぬいぐるみを取り出す。
「えっ、なにそれ!?」
思わず声を上げたセリシアの視線は、ぬいぐるみに釘付けだ。
その様子は、どこか少し羨ましそうでもあった。
「これ、グレイさんがホームラン打って、もらったの!」
美沙はそう言って、今日二人で巡った場所を、楽しそうに語り始める。
そこに先ほどまでのぎこちなさはなく、完全に“いつもの美沙”だった。
その様子を、グレイは少し離れた場所から見ていた。
気づかれない程度に、ほっと息をつく。
「……それで、二人は何してるの? また料理の練習?」
美沙の視線は、調理中の鍋へと向けられる。
「うん。今、悠真から煮込み料理を教えてもらってるの」
鍋の様子を確かめながら答えるセリシアは、どこか楽しそうだった。
「本当に、セリちゃんって料理好きなんだね」
セリシアが鍋に向かう姿を眺めながら、美沙は素直にそう思った。
最初はホールの仕事が中心だった彼女が、今では自然に厨房に立っている。
その成長ぶりには、何度見ても驚かされる。
――気づけば、ちゃんと自分の居場所を見つけている。
(私も……やりたいこと、ちゃんと目指して頑張らなきゃだよね……)
そんなことを考えていた、その時。
二階から、パタパタと軽い足音が降ってきた。
現れたのは、もこもこのクマ耳がついたブラウンのルームウェア姿のフェリシアーナだった。
「悠真さーん。お腹空きましたー」
時刻は十五時過ぎ。
完全に“おやつ”を求めての来訪である。
その後ろから、いつもの巫女装束に身を包んだ玉藻が姿を見せる。
「姉様……先ほどから部屋でお菓子を食べていたではありませんか。あまり暴飲暴食を続けると、体に悪いですよ」
呆れたようにため息をつきつつ、玉藻は諭す。
「しょうがないじゃないですかー。お腹が空くのですから……成長期だからですかねー?」
悪びれもせず、フェリシアーナは胸を張った。
「成長期って……」
美沙は、じとっとした目を向ける。
「……成長期、か」
グレイもまた、どう反応するのが正解なのか分からない、
何とも言えない表情でフェリシアーナを見つめていた。
――成長期。
言葉の響きだけ聞けば、ずいぶんと都合がいい。
だが、実際のところ女神の体が成長するのかどうかは、かなり怪しい話だった。
そもそも、フェリシアーナの今の姿だって、
元は幼い姿から“今の年頃”に変えたものだ。
それを成長期と呼ぶには、無理がありすぎる。
その場にいる誰もが、同じことを思っていた。
「玉藻さんも、ちゃんとフェリシアーナさん止めてあげてくださいよー!生活が乱れまくってるから、駄女神って言われるんですよ……」
美沙がそう言うと、玉藻は困ったように苦笑する。
「それは……分かっているのですが……」
視線の先には、悠真にお菓子をねだるフェリシアーナの横顔。
あの表情を見ると、どうしても強く言えなくなってしまう。
本来なら止めるべきだ。
部屋でアニメやゲームに興じ、
お菓子とジュースを手放さない生活など、神として褒められたものではない。
――それでも。
楽しそうにしているフェリシアーナを見ると、
注意はできても、止めきることができない自分がいる。
玉藻は、そのことを自覚していた。
土地神としてこの地にいた頃から、玉藻は世話を焼くのが好きだった。
神社に集まる子供たちと遊び、面倒を見る。
そうして笑顔になる姿を見るのが、何より好きだった。
そのせいか、玉藻神社の狐の神は
「子供好きの神様」として知られるようになった。
それは、フェリシアーナに対しても同じだった。
姉様、と呼んではいるが、実際に血の繋がった姉妹ではない。
それでも、同じ神として――
そして、自分より少しだけ上にいる存在として。
フェリシアーナは、驚くほど近い存在に感じられた。
まるで、本当の姉のように。
そう思ってしまうからこそ、強く言えない。
結果として生まれたのが――“駄女神”という評価なのだが。
フェリシアーナが、そこから脱却できるのかどうか。
そればかりは、玉藻にも分からなかった。
「あれ? そういえば……」
今になって気づいた、という様子でフェリシアーナが首を傾げた。
「美沙さんとグレイさん、もう帰っていたのですね?」
(今さら気づくんだ……ほんと、自分の欲求に忠実だなこの女神……)
美沙は心の中で小さくため息をつく。
「あー……うん。今、帰ってきたところですけど……」
すると、フェリシアーナはにこりと微笑み、何の前触れもなく言った。
「おかえりなさい。どうでしたか? グレイさんとのデートは」
「……はい?」
思いがけない単語に、美沙の思考は一瞬で停止した。
頭の中が真っ白になるのが、自分でもはっきり分かる。
そんな美沙の反応を見て、フェリシアーナは少しだけ首を傾げる。
「あれ? 聞こえてませんでしたか?」
そして、悪びれもせず言い直す。
「ですから、グレイさんとのデートは楽しめましたか?」
――追撃。
悪気など一切感じられない、純度百パーセントの疑問。
それが逆に、美沙の逃げ道を完全に塞いでいた。
「え、えっと……その……」
言葉が喉につかえ、うまく出てこない。
一方で、当の本人であるグレイはというと、
「デート……?」
その単語自体に、首を傾げていた。
意味が分からない、というより――
そもそも“そういう認識”が最初から存在していない様子だった。
皮肉なことに。
この場で一番その言葉の意味を理解していたのは、
当事者である美沙とグレイではなく。
悠真とセリシア、そして玉藻――
少し離れた位置から二人を見ていた者たちだけだったのかもしれない。
「ちょっ……!? ちょっと!? デ、デートって……! ち、違いますよ! これはデートじゃなくて、街を案内してただけで!」
美沙は思いのほか全力で否定した。
声も動きも大きく、まるでその言葉を振り払うかのようだ。
それに続くように、グレイも否定の言葉を口にする。
ただしこちらは、いつもと変わらぬ落ち着いた口調だった。
「フェリシアーナ様。美沙の言う通りです。彼女は俺に付き合ってくれて、忙しい中この街を案内してくれていただけです」
その言葉に、美沙は「そうそう!」と言わんばかりに何度も頷く。
首がもげるのではないかと思うほどの勢いで、「デートじゃありません!」と全身で訴えていた。
「……そうなのですか?」
フェリシアーナは小首をかしげ、どこか納得しきれない表情を浮かべる。
「そうです。ですから、彼女が困るようなことは、あまり――」
グレイがそう締めくくろうとした、その時だった。
フェリシアーナは、彼の言葉を遮るように、あっさりと口を挟む。
「ですが、今日お二人が言っていたのは“デザートビュッフェ”ですよね?それに、帰りも少し遅かったようですし……他にも、どこかに寄られたのでは?」
普段は“駄女神”と揶揄される存在のくせに、こういう時に限って、妙に鋭い。
「……た、確かにデザートビュッフェの後、バッティングセンターには行きましたけど……。で、でも、それも案内の一環で……デートでは……」
グレイの声に、わずかな動揺が混じる。
自分の言っていることは、何一つ間違っていないはずだ。
それなのに、なぜか胸の奥に、説明のつかない違和感が残る。
――何が不安なのか。
その理由を、グレイ自身もまだ理解できていなかった。
「そ、そうです! バッティングセンターには寄りましたけど、それは……グレイさんが行ったことがないって言ったからで……!」
美沙は必死だった。
今日、ついさっき――自分がグレイに抱いている想いを、ようやく自覚したばかりなのだ。
そんな状況で、これを“デート”だなんて認めてしまったら、せっかく落ち着いた心が、また一気にぐちゃぐちゃになってしまう。
だから、絶対に認めるわけにはいかなかった。
「ですが……デザートビュッフェに行って、その後案内とは言え、バッティングセンターで遊んで、二人で帰ってきた……。これ、誰が聞いても“案内”じゃなくて“デート”ではありませんか?」
珍しく、フェリシアーナの言葉は正論だった。
まさにぐうの音も出ない――はず、なのだが。
(……まだ、最後の砦がある)
美沙の視線が、そっとグレイへ向く。
彼はきっと否定してくれる。
だって、本当に街を案内していただけなのだから。
――確かに。
自分の恋心を自覚してからは、無意識のうちに少しだけ“下心”が混じっていたかもしれない。
それでも、グレイは違う。
彼にとってこれは、ただの街案内。
そう思っているはずだと、美沙は信じていた。
「そ、そんなことないです……よ! ねぇ、グレイさんからも、何か言ってください!」
悲痛とも取れる美沙の声。
その視線を受けて、グレイは答えようと口を開く――が。
「ああ……。だが……確かに……」
言葉が、歯切れ悪く途切れる。
「……え?」
その瞬間、美沙は気づいた。
グレイの様子が、どこかおかしい。
眉間にわずかに皺を寄せ、何かを考え込むような、ひどく難しい表情。
(……なんで、そんな顔してるの?)
胸の奥に、不安がじわりと広がっていく。
「フェリシアーナ様の言う通り……これは……デートかもしれん……」
まさかの言葉だった。
「……え?」
美沙の思考が、完全に止まる。
最後の砦だと信じていたグレイからの、想定外の追撃。
「は……? え? ぐ、グレイさん……な、何言って……!?」
「案内をしてもらっていたのは間違いない。だが……過ごし方を考えると、デートと言われても仕方がないような……」
「ほら! やっぱりデートじゃないですか!」
なぜか胸を張るフェリシアーナ。
「フェリシアーナ姉様……。それ以上は……あまり仰ると、デリカシーがないと思われますよ……」
美沙の様子を見て、玉藻がやんわりと制止する。
「えー! 私だってデリカシーくらいありますよ!」
(どの口が言うのよ!)
美沙の心の中で叫びがこだまするが、当然届くはずもない。
「あの……グレイさん……フェリシアーナさんの言うことは、あまり真に受けない方が……」
必死に軌道修正しようとする美沙。
これは自分が関わる話なのだから、必死にもなる。
だが――
「いや……これは、大きな問題だ……!」
その一言に、美沙の肩がびくりと跳ねる。
何を言い出すつもりなのか、まるで予想がつかない。
ただでさえ厄介な空気だというのに、フェリシアーナの前で下手なことを言えば、事態がさらに拗れる予感しかしなかった。
「美沙……すまない……」
「……え?」
思いがけない謝罪に、美沙は目を瞬かせる。
謝られる覚えなど、まったくない。
戸惑いよりも先に浮かんだのは、ただの疑問だった。
「あ、えっと……グレイさん……?」
呼びかける声は、わずかに上ずる。
対するグレイは、いつになく真剣な表情で美沙を見つめていた。
その眼差しが、なぜだか怖い。
――一体、何を言うつもりなのか。
「君の限りある時間を、俺なんかに使わせてしまって……本当に、申し訳ない……!」
それが、グレイの謝罪の理由だった。
一緒に過ごした時間そのものに対しての、心からの謝罪。
案内とはいえ、実際には――
美沙は、自分のために時間を割いてくれていた。
グレイ自身、理解していた。
それでも、その優しさに甘えてしまった自分がいた。
そして、もう一つ。
どうしても無視できない事実がある。
――年齢だ。
自分と美沙とでは、一回り以上の差がある。
若くはない。
それは、グレイ自身が一番よく分かっていた。
まだ若い娘が、果たして自分に時間を費やしていいのだろうか。
本来なら、同年代の友人と笑い合い、
歳の近い男性と出会い、
若いうちにしかできないことに、時間を使うべきではないのか。
その大切な時間を、自分が奪ってしまっているのではないか――
そんな思いが、胸の奥に重くのしかかっていた。
だからこそ、出た言葉だった。
謝罪という形でしか、口にできなかった本音。
そしてフェリシアーナの言葉が、その想いを改めて浮き彫りにする。
グレイは、無意識のうちに目を伏せながら、自分自身に問い直していた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! そ、そんなこと言わないで……!」
グレイの言葉に、考えるより先に口が動いていた。
慌てて放たれた声は、自分でも驚くほど強く、切実だった。
――分かってしまったのだ。
グレイが、何を思ってその言葉を口にしたのか。
だからこそ、美沙は首を振る。
謝罪なんて、してほしくなかった。
それはまるで、
自分の気持ちそのものを否定されるようで――
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
グレイへの恋心を自覚してしまった“今”だからこそ、なおさらだった。
ただ一緒にいたかっただけ。
ただ、同じ時間を過ごしたかっただけ。
自分の時間を、グレイのために使いたいと思った。
それだけのことなのに。
それを「申し訳ない」と言われてしまうのは、
あまりにも、悲しすぎる。
だから――
美沙は、伝えたかった。
分かってほしかった。
その想いがあまりにも強く、気づけば言葉は、意識よりも先に溢れ出ていた。
「私は……私は、グレイさんと一緒にいるだけで――」
――その瞬間、はっと我に返る。
(……待って。今、私……何を言おうとした……?)
思考が、凍りついた。
胸の奥で形になりかけていた“本音”を、
理性が必死に押し留める。
そして――
その、言いかけた想いを。
駄女神フェリシアーナが、見逃すはずもなかった。
「ああ! 告白ですか!?」
間髪入れずに放たれたフェリシアーナの一言。
本当に――こういう時に限って、この女神は恐ろしいほど抜け目がない。
「えっ!? い、いや、違っ……!」
言葉にされた瞬間、美沙は自分が“何をしでかしかけていたのか”を、改めて思い知らされる。
胸の奥が、ひゅっと縮こまる。
違う。
今じゃない。
この場じゃないし、
こんな勢いだけで口にしていいことでもない。
気持ちの整理も、覚悟も、まだ何ひとつ整っていないのだ。
勢いは必要だ。でも――それは“今”ではない。
だから、美沙は必死に否定する。
「ち、違います! そ、そういうんじゃ……!」
だが――
その声が、フェリシアーナの耳に届くはずもなかった。
「いいですね! 愛の告白……!」
女神はすでに、完全に“その世界”に入っている。
「ああ、祝福しましょう! 世界は違えど――女神として、私はただ一つ!」
きらきらと瞳を輝かせ、まるで神聖な儀式でも執り行うかのように、美沙を見つめる。
「貴女のその尊き想いを、全力で尊重いたしましょう!」
その宣言は、あまりにも晴れやかで、あまりにも、場の空気を無視していた。
「いや、待って! ちょっと待とうか!?」
「いえ、今こそです! さぁ恐れないで美沙さん! 女神の名において、貴女の告白を祝福しましょう!」
「いや……あの……ちょっ……!」
美沙の声は、完全に届いていない。
「さぁ……さぁ!!」
――ぷつん。
「いい加減黙れ、駄女神ぃぃぃぃぃ!!」
顔を真っ赤にした美沙は、手に持っていたウサギのぬいぐるみを振りかぶり、そのまま全力でフェリシアーナの顔面へと叩き込んだ。
「ふぎゃっ!!」
乾いた音とともに、フェリシアーナの身体が後方へ吹き飛ぶ。
玉藻は、そのまま自分の所に吹っ飛んで来た女神を慣れた手つきでナイスキャッチ。
「ふきゅ〜……」と情けない声を上げながら力なく伸びる駄女神を見下ろし、
「……これは、姉様が悪いですわ……」
と、ぼそり。
極めて冷静に、そう言い放った。
その一連の騒動を眺めていた悠真とセリシアは、
もはや言葉もなく、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
その中で、セリシアはふと、嫌な想像をしてしまう。
――もし、フェリシアーナに
自分が悠真を好きだという気持ちを知られてしまったら。
美沙と同じような光景が、
いや、それ以上の騒動が起きるのではないか。
そう思った瞬間、背筋をぞわりとした感覚が走る。
(……だ、駄目だわ。これは……絶対に知られたらいけない気がする……!)
セリシアは心の中で、固く固く決意する。
この想いだけは、何があってもフェリシアーナには悟られてはならない、と。
だが――
悠真に向ける自分の視線、
声の調子、
無意識に距離を詰めてしまう仕草。
それらを客観的に見れば、すでに「手遅れなのではないか」と疑うには十分すぎるほどだった。
その事実に、当事者であるセリシア自身だけが気づいていない。
それこそが、せめてもの救いなのかもしれない。
一方で悠真は、顔を赤くして暴走した美沙を見ながら、
(……気の毒だなぁ……)
と、どこか他人事のように内心で同情していた。
そして、もう一人。
騒動の中心にいながら、誰よりも取り残されていた男がいる。
(……今のは……どういう意味だ?)
グレイは、誰も答えてくれない問いを胸に抱えたまま、ただ黙って考え続けていた。
その疑問が、いつか新たな波紋を生むことになるとも知らずに。




