第五十三話 美沙とグレイの距離感
東京のとある商店街。
その通りを、少し距離を空けて並んで歩く一組の男女がいた。
離れすぎず、かといって近すぎもしない。
周囲から見れば恋人ではないとすぐ分かる距離感で、ただどこにでもいる組み合わせ。
だが、視線を集めずにはいられない理由があった。
男性の方は、明らかに日本人ではない。
若くは見えないが、綺麗に整えられた短めの茶髪に、彫りの深い整った顔立ち。
グレーの瞳は日本人にはない色合いで、その存在感を一層際立たせている。
モデルや俳優だと言われても不思議ではない容姿で、若さとは違う落ち着いた魅力が滲み出ていた。
そして何より目を引くのは体格だった。
冬を前にしたこの季節、厚手の服を着込んでいるにもかかわらず、鍛え上げられた肉体であることが一目で分かる。
ただそこに立って歩いているだけで、周囲の空気を変えてしまう――そんな存在感を放っている。
一方、その隣を歩く女性は、男性よりもずっと若く、二十代であることがすぐに分かる。
整った顔立ちに、ブラウンに染められたセミロングの髪。
落ち着いた色合いの髪は彼女の雰囲気によく馴染み、柔らかさと芯の強さを同時に感じさせた。
今、この商店街を歩く二人は、否応なく人目を引く存在だった。
すれ違う人々は思わず視線を向け、商店街の顔見知りたちからは自然と声がかかる。
――その二人、美沙とグレイ。
バッティングセンターを後にし、居酒屋「えにし屋」へ戻る途中。
二人は、変わらない距離を保ったまま、商店街を歩いていた。
二人の間に、言葉はなかった。
けれどそれは、これまで何度も経験してきた、心地よい沈黙だった。
隣を歩く足音のリズムが揃っているだけで、不思議と落ち着く。
――そんな距離感だったはずなのに。
美沙は、そう思っていた。
思っていたはずだった。
けれど、今は違う。
胸の奥が、ざわついている。
心臓の音が、やけに近く、大きく聞こえた。
誤魔化すように、右手に持った大きなビニール袋をぶらぶらと振りながら歩く。
袋の表面には、さっきまでいたバッティングセンターの名前が大きく印刷されていて、
それがやけに目についてしまう。
胸のざわつき――その原因は、分かっている。
バッティングセンターでの、あの時間。
自分がグレイを好きだと、はっきり自覚してしまったからだ。
平然を装おうとするほど、視線は定まらず、歩幅も微妙に噛み合わなくなる。
その違和感は、美沙自身が一番よく分かっていた。
一方で、グレイもまた、その変化に気づいていた。
最初は気のせいだと思った。
だが、バッティングセンターを出てからの美沙は、明らかに様子が違う。
どこかよそよそしく、これまでにない距離を感じさせる。
理由は分からない。
思い当たることも、見当がつかなかった。
――だからこそ、このまま放っておくのは違う気がした。
かといって、軽々しく声をかけていいとも思えない。
それは、美沙を大切に思っているからこその躊躇だった。
不用意な言葉や行動で、彼女を傷つけたくはない。
だが、もし。
もし自分が原因で、今の状態を生んでいるのだとしたら――
それを見過ごすことだけは、できなかった。
グレイは小さく息を整え、意を決したように口を開く。
そして、隣を歩く美沙へと、静かに声をかけた。
「美沙、どうかしたのか?」
突然かけられた声に、美沙の肩が跳ねた。
「へぁ!? な、なな何!?」
あまりにも分かりやすい反応に、グレイは思わず瞬きをする。
先ほどから様子がおかしいとは思っていたが、ここまでとは。
「いや……さっきから、少し様子が違う気がしてな。
バッティングセンターを出てから、何かあったのか?」
声をかけた途端のこの動揺。
いつも明るく、芯のある女性として映っていた美沙の姿からは、あまりにかけ離れている。
(……これは、ただ事じゃないな)
グレイはそう感じ、表情を引き締める。
「な、なな何にもないよ?」
そう答えた美沙自身が、一番それを信じられていなかった。
いや、言えるはずがない。
――グレイを好きになった、なんて。
今この場で、本人を前に口にできるわけがなかった。
(落ち着け私! いい歳して何テンパってんの!?
初めての恋じゃないでしょ!)
必死に自分に言い聞かせる。
だが、落ち着こうとするほど心臓は暴れ、思考は空回りする。
完全に、沼だった。
それでも、何か言い訳をしなければならない。
グレイの顔を見れば分かる。
納得していない――そんな表情を、隠そうともしていないのだから。
当然だ。
さっきの返事は、自分でも分かるほど上ずっていた。
(と、とりあえず……無難なやつ……!)
美沙が絞り出した言葉は――
「えっと……久しぶりに運動したから。ちょっと、疲れただけで……」
胸の鼓動が跳ね上がるのを必死に押さえ込みながら、
美沙は平静を装って、そう言った。
(こ、これで……誤魔化せるかな……)
美沙がグレイを見る。その表情に、はっきりとした緊張が走っていた。
一方で、グレイは彼女の言葉を受けて、
「……そうか」
と、短く息を吐くように言った。
本当にそうなのか、と疑問がよぎらなかったわけではない。
だが、美沙本人がそう言う以上、それを否定する理由もなかった。
――とはいえ。
もしそれが事実なら、それはそれで問題だ。
バッティングセンターに行こうと言い出したのは、自分だった。
自分の我儘に付き合わせた結果、彼女に無理をさせていたのだとしたら。
配慮が足りなかったと責められても、仕方がない。
だからこそ、確かめなければならなかった。
そして、もし迷惑をかけていたのなら――謝るべきだ。
「もしかして……バッティングセンターは、負担になってしまったか?」
少し思い詰めた声音で、グレイはそう問いかける。
その言葉に、美沙は慌てて首を振った。
「う、ううん!? そんなことないよ!
すっごく楽しかったし! グレイさんに打ち方教えてもらって、ちゃんと打てるようになったのも嬉しくて!」
(言い訳、まずった……! これじゃ、グレイさんのせいみたいじゃん……! ……い、いや、別の意味では原因なんだけど……って違う! 今はそうじゃないでしょ! しっかりしろ、私!)
「……そうか。なら、いいんだが……」
美沙の言葉を聞き、グレイは小さく頷いた。
それでも胸の奥に残る、拭いきれない引っかかり。
――本当は、言い出しにくいだけではないのか。
そんな考えが浮かぶのも、無理はなかった。
だが、これ以上踏み込むのは違う。
そう判断し、グレイはそれ以上追及せず、視線を前に戻した。
再び、沈黙が落ちる。
それは、ただ隣を歩いているだけで安心できた、
――いつもの沈黙ではなかった。
言葉のない空白が、妙に重く、
胸の奥に、静かな息苦しさを残していた。
やがて二人の視界に、えにし屋の建物が入ってきた。
今日は休日のため、暖簾は上がっていない。
だが、見慣れた店の姿に気づいた瞬間――
「あ、お店だよ! やっと帰ってきたね!」
美沙が、沈んだ空気を振り払うように声を上げる。
どこか無理をして明るさを作っていることは、隠しきれていなかった。
「ああ……そうだな……」
応えたグレイの声は静かだったが、そこには微かな迷いが滲んでいた。
表には出さずとも、美沙の様子が気になって仕方がない――
そんな思いが、そのまま声に乗っているようだった。
美沙も、それに気づいていた。
この空気を作ってしまったのは自分だ。
もっと何事もなかったように振る舞えなかったのか、と後悔もしている。
けれど、頭で分かっていても、心が言うことをきかない。
恋というものは、本当に厄介だ。
だからこそ――このまま終わらせるわけにはいかなかった。
店の前まで来たところで、美沙は立ち止まる。
「グレイさん……」
わずかに震えた声。
それでも、その奥にははっきりとした意志があった。
グレイは足を止め、美沙の言葉に耳を傾ける。
「あのね……今日はありがとう。さっき、バッティングセンターで疲れちゃったって言ったけど……楽しかったのは本当」
真っ直ぐに、言葉を選ぶように続ける。
「グレイさんが真剣に教えてくれて、それでちゃんと打てるようになって……私、すごく楽しかった」
少し照れたように、美沙の頬が赤くなる。
「だからね……また二人で、いろんなところに行こう。
この世界には、まだまだ面白いものがいっぱいあるんだよ。
私は……もっと、グレイさんに教えたい」
真剣な眼差し。
その言葉に嘘がないことは、グレイにはすぐに分かった。
「……そうか」
一拍置いて、グレイは小さく微笑む。
「美沙。これからも、よろしく頼む」
「うん。まかせてよ!」
その返事とともに、先ほどまで二人の間に重く漂っていた沈黙は、もうなかった。
そして二人は、えにし屋の扉をくぐるのだった。




