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勇者と魔王、居酒屋始めました!  作者: あんずのかおり


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第五十ニ話 美沙の自覚

季節はすっかり気温が下がり始め、冬がゆっくりと足音を立てて近づいてきていた。


そんな肌寒さの中、ある店の前には二人分の影が並んでいる。

店先にできた列は静かに、しかし確実に前へ進み、やがて彼らの順番が訪れた。扉が開き、中から店員が顔を出す。


「二名でお待ちの、篠崎様」


その呼びかけに、すぐさま明るい声が返った。


「はーい!」


元気よく手を挙げたのは美沙だった。

そう、その列に並んでいたのは美沙とグレイの二人である。


冬の入口に差しかかるこの季節。

美沙は、今年流行のオーバーサイズ気味のニットに、くすみカラーのショート丈コートを羽織っていた。足元はロングスカートにブーツという組み合わせで、動きやすさと可愛らしさを両立させた今どきのコーディネートだ。首元には細めのマフラーを巻き、寒さ対策もしっかりと抜かりない。


一方のグレイは、上質なウール混のハイゲージニットに、センタープレスの入ったスラックスを合わせた落ち着いた装いだった。色味はチャコールグレーとダークネイビーで統一され、派手さはないが、どこか余裕を感じさせる佇まいを作り出している。

その上から羽織っているのは、今年人気のチェスタータイプのロングコート。身体のラインに自然に沿うシルエットで、無駄な装飾を省いたシンプルなデザインが、年相応の品格を引き立てていた。

全体としては“大人のきれいめカジュアル”といった印象で、落ち着きと清潔感が、彼の雰囲気とよく調和していた。


そして、冷たい空気の中、二人とも無意識に肩をすくめ、身を縮ませて列に並んでいたが――

それも、ようやく終わりを迎える。


「こちらへどうぞ。お席までご案内いたします」


「ようやく入れるね!」

「ああ……早くに並んだつもりだったが、随分と待たされたな」


そんな言葉を交わしながら、美沙とグレイは店員の後に続き、ほっと息をつきつつ店内へと足を踏み入れた。


今日、二人が訪れたのはデザートブッフェ専門店。

色とりどりのスイーツが並ぶことで評判の、今話題の店だった。


時間は昼前。

人気の高さを裏づけるように、開店前から行列ができており、順番が回ってくるまでには想像以上の時間を要した。


その分だけ、これから味わう甘い時間への期待も、自然と高まっていく。


――数日前。


えにし屋がまだ開店準備の最中だった時間帯。

グレイはカウンターのテーブルを丁寧に拭きながら、店内に流れていたテレビの音にふと意識を向けていた。


画面には、女性リポーターの姿。


『東京にあるこちらのお店、今話題沸騰中のデザートブッフェ専門店なんです! ケーキやフルーツはもちろん、ドーナツやチョコレートフォンデュなど、さまざまなスイーツが楽しめます』


カメラが店内を映し出し、テーブルいっぱいに並ぶ甘味の数々が紹介されていく。


『中でも注目なのが、こちら! 見てください、この種類の多さ。実はこれ、各国のスイーツなんです。そう、このお店では世界各国の伝統的なスイーツが味わえるということで、今とても人気なんですよ』


その様子を、グレイは珍しく真剣な眼差しで見つめていた。


「……スイーツ、か」


ぽつりと零れた呟きは、誰に向けられたものでもない。

その静かな独り言に、ふいに背後から声が掛かる。


「どうしたの、グレイさん?」


声を掛けたのは美沙だった。


「ああ……今、テレビでスイーツの店が紹介されていてな」


「スイーツの店?」


美沙も手を止め、テレビに目を向ける。画面には、色とりどりのケーキや菓子がずらりと並ぶ映像が映し出されていた。


「あー、これ? 最近流行ってるスイーツ専門店じゃん。……へぇ、グレイさんって甘いものに興味あるの?」


「そうだな……甘いものは好きだ。だが、いざ食べに行くとなると、どうしても男一人ではな……」


言葉を濁しつつ、少し困ったように視線を逸らすグレイ。


「あー、確かに。男性一人でこういう店に入るのは、ちょっと勇気いるかもね」


「ああ……」


「じゃあさ、この休みに私と一緒に行かない?」


「……美沙と、か?」


「うん。ほら、私が一緒なら周りから見てもカップルとか思われるかもしれないし、そんなに変じゃないでしょ? それなら、気兼ねなく入れるかなって」


「確かに、そうかもしれんが……本当にいいのか? 最近、色々な場所に付き合わせてしまっているだろう」


「うん、全然大丈夫だよ。気にしないで」


美沙は笑ってそう言う。


「グレイさんに、もっとこっちの世界のことを知ってほしいしさ」


グレイがこの世界に来てから、すでにそれなりの時間が経っている。

それでも、彼にはまだ知らないこと、訪れたことのない場所が数え切れないほどあった。


そんなグレイが「知ろう」と一歩踏み出すたび、案内役を買って出るのは、ほとんどいつも美沙だった。

街の仕組み、店の利用方法、施設の使い方――。

当たり前のように説明してくれる彼女には感謝しかない。


「……すまない。毎回付き合ってもらって、本当に助かっている」


グレイはそう言って、少しだけ姿勢を正す。


「だから、今回行く店は……俺に任せてくれ」


「え? い、いいよ! そんなに気を遣わなくても!」

思いがけない申し出に、美沙は思わず声を上げた。嬉しくないわけではない。けれど、今までグレイに付き合ってきた時間は、何かを“してもらう”ためのものではなかった。その気持ちが、素直に頷くことをためらわせる。


しかし、グレイは一歩も引かなかった。


「いや。いつも世話になっている美沙に、きちんと礼がしたいんだ」


まっすぐで誠実な眼差しに、美沙は言葉を失う。少し考え、やがて小さく息を吐いて――その想いを受け取ることに決めた。


「……う、うん。じゃあ……お言葉に甘えちゃおっかな」


そう答えると、美沙は照れ隠しのように微笑んだ。

二人の間に、ささやかながらも温かな空気が流れていた。


そう答えると、グレイはほっと息をついた。


「良かった。では、次の休みの日はよろしく頼む」


「オッケー! 任せといて!」


こうして美沙は、グレイと一緒にそのデザートブッフェの店を訪れることになったのだった。


案内された席に腰を下ろすと、張りつめていた空気が少しだけ緩む。


ほどなくして店員がやって来て、

食べ放題コースの内容や注意事項について、丁寧に説明を始めた。


甘い香りが漂う店内で、

美沙はこれから始まる時間に、ほんのわずかな期待を胸に抱いていた。


「――以上が本日のデザートブッフェの内容となります」


説明が終わるや否や、美沙がぱっと立ち上がった。


「よし! じゃ、早速取りに行こう!」


その張り切った声に、グレイも素直に頷く。


「ああ!」


二人は連れ立ってブッフェ台の前へ向かう。


「……こ、これはっ!?」


グレイは思わず声を上げ、その場で立ち尽くした。


目の前に広がるのは、色とりどりのケーキや焼き菓子、艶やかなフルーツの山。

見たこともないほどの種類と量に、まるで宝物を前にした子供のように目を見開いている。


「ほ、本当に……好きなだけ食べていいのか……!?」


半信半疑の問いかけに、美沙は胸を張って答えた。


「もちろん! さ、行こう!」


その一言でスイッチが入ったかのように、グレイは皿を手に取り、目についたスイーツを次々と載せていく。


「グ、グレイさん……そんなに食べられるの!?」


美沙は、あっという間に山盛りになった皿を見て思わず声を上げた。


「ああ、問題ない。デザートは別腹と言うからな!」


そう言って、皿いっぱいのスイーツを見つめるグレイの瞳は、きらきらと輝いている。


その様子にくすりと笑いながら、美沙もまた自分の皿に色とりどりのスイーツを取っていく。


やがて二人は席へ戻り――。


「それじゃ、食べよっか!」


「ああ!」


こうして、二人のスイーツタイムが始まった。


美沙はケーキを一口頬張りながら、そっとグレイの方へ視線を向ける。


(本当……グレイさんが甘いもの好きだなんて、意外だよね)


フォークを手に、真剣な表情でケーキを味わうグレイ。


(ふふ……なんか、可愛いなぁ……って、私、何言ってんの!?)


思わず頬が熱くなり、美沙は慌てて視線を逸らす。


(でも、グレイさんって……本当に紳士的だよね。偉ぶることもしないし、横柄な態度も取らないし……今どき日本に、こんな人いるのかな?)


再びちらりと視線を向ける。


(それに……顔だって……)


ケーキを頬張る横顔。整った顔立ちに、落ち着いた雰囲気。


(本当に整ってるよね。それに、あの瞳の色……グレーって、こんなに綺麗なんだ)


美沙がそうして見つめているのと同じように、周囲の女性たちの視線もまた、自然とグレイへと集まっていた。


「ちょ、何あの外人イケメン!?」

「モデルさんじゃない?」

「一緒にいる人、彼女かな?」

「声かけちゃおっかな〜」


ひそひそと囁かれる声に、美沙は思わず苦笑する。


(あはは……やっぱり、そうなるよね〜)


そんな美沙の様子を不思議に思ったのか、グレイが首を傾げて声を掛けた。


「どうかしたのか、美沙?」


「ううん、何でもないよ。ただ……グレイさんって、やっぱりすごいなーって思って」


「……?」


何のことか分からず、きょとんとした表情を浮かべるグレイ。


その様子に、美沙は思わず小さく笑ってしまうのだった。


その後も二人は何度かデザートのお代わりを重ね、甘い香りに包まれながらブッフェを心ゆくまで堪能した。

満足そうな表情を浮かべ、名残惜しさを胸に抱きつつ、やがて店を後にするのだった。


「ふぅ……お腹いっぱいだね」


満足そうに息をつく美沙に、グレイも深く頷く。


「ああ……実に満足だ」


甘いものに囲まれたひとときを思い返しながら、二人は肩を並べてゆっくりと歩き出した。

多くを語らずとも、不思議と気まずさはなく、穏やかな安心感が静かに二人を包み込んでいる。


その空気を壊さぬように――それでいて、もう一歩踏み出すかのように、美沙がそっと口を開いた。


「それで……これから、どうしよっか?」


不意に投げかけられた問いに、グレイは一瞬だけ歩みを緩めた。

わずかに視線を落とし、何かを考え込むような間を置いてから、静かに口を開く。


「……一つ、行ってみたい場所があるのだが」


その言葉に、美沙は思わず彼の横顔を見つめた。

だが、行き先の見当はまったくつかない。


異世界から来た彼にとって、この世界――日本、そして東京は、何もかもが新鮮だ。

昔からの知り合いであれば好みや行動パターンも分かるのだろうが、グレイはそうではない。


これまで美沙は、彼を連れてこの街のさまざまな場所を案内してきた。

商業施設、飲食店、娯楽施設――どれも美沙にとっては見慣れたものばかりだ。

けれどグレイにとっては、すべてが初めて触れる文化であり、そのたびに見せる驚きや戸惑いが、最初はただ新鮮で楽しかった。


だからこそ、案内役を買って出ていたのだ。


けれど、いつの頃からか――

「次はどんなことに興味を持つのだろう」

「何を知りたがっているのだろう」

そんなふうに、彼自身のことを考える時間が増えていた。


そして今。

彼の口から語られる“行きたい場所”を想像しながら、美沙の胸は自然と高鳴っていた。


「行きたいところ? どこ?」


問いかけに、グレイはすぐには答えなかった。歩みを止めると、静かに前方を指さす。


「ここだ」


その視線の先に掲げられた看板を見て、美沙は思わず瞬きをした。


「……バッティングセンター?」


そこにあったのは、屋内型のバッティングセンター。あまりにも予想外の答えに、美沙は目をぱちくりさせる。


「ああ。以前、テレビで特集しているのを見てな。少し気になっていた」


「へぇ……」

(やっぱり、全然予想できなかったな。まさかこのタイミングでバッティングセンターとは……。でも、本当にグレイさんといると飽きないや)


驚きはあったものの、その表情には自然と笑みが浮かんでいた。


グレイの視線はすでに看板に釘付けで、今にも中へ入りたそうな気配が伝わってくる。


「美沙は、来たことがあるのか?」


「うーん……さすがにバッティングセンターはないかなぁ」


肩をすくめて答える美沙に、グレイはわずかに口元を緩めた。


「なら、どうだろう。初めての者同士で、経験してみるというのは」


その言葉に、美沙の胸がふっと軽くなる。

野球には詳しくないし、これまで興味を持つこともなかった場所。けれど――“初めての者同士”という響きが、心にすっと馴染んだ。


二人で体験する、初めてのこと。

それだけで、きっと楽しい時間になる気がした。


「……うん」


少し間を置いてから、美沙は楽しそうに笑う。


「いいね、それ! やろう!」


そうして二人は肩を並べ、バッティングセンターの中へと足を踏み入れた。


中では、甲高い金属音と、ボールがミットに収まる乾いた衝撃音が絶え間なく響き、独特の熱気が空間を満たしている。

初めて訪れた場所に、美沙もグレイも思わず周囲を見回した。日常ではなかなか味わうことのない雰囲気に、自然と胸が高鳴る。


やがて美沙が受付カウンターに気づき、二人でそちらへ向かう。受付を済ませると、どちらも初利用だと分かっていたのだろう、店員が丁寧に機械の使い方を説明してくれた。説明を受けながら、ヘルメットとバットを手に取る。


「それでは、準備ができましたらどうぞ」


促されるまま、二人はそれぞれバッターボックスへと足を運ぶ。


初めての体験を前に、胸に抱くのは期待と、ほんの少しの緊張。

こうして、二人のバッティングセンター体験が、いよいよ始まろうとしていた。


バッターボックスに足を踏み入れたグレイは、初めて目にする光景に思わず胸が高鳴るのを感じていた。


自分の正面、はるか先に据え付けられた無機質な機械――ピッチャーマシン。

テレビで見たことはあるが、実物を見るのは初めてだ。


(あそこから、球が飛んでくるのか……)


視線を細め、次に目に入ったのは球速を設定する操作パネルだった。

店員に勧められた通り、初心者向けの速度に合わせる。


表示された数字は――70km/h。


「初心者の方でも打ちやすい速さですよ」


そう言われた言葉を思い出しながら、グレイは静かに頷いた。


準備は整った。

あとは、スタートボタンを押すだけ。


グレイは静かにロングコートを脱ぎ、脇へと掛ける。

ヘルメットを被り、バットを手に取った。


ずしりとした重みを確かめるように一度握り直し、グレイは構えに入った。


(確か……テレビでは、こうだったか)


思い出すのは、以前見た番組。

元プロ野球選手がゲストとして出演し、女性リポーターや芸能人にバッティングを教えていた。


――足は肩幅くらいに開き、少しだけ膝を曲げる。

――体は正面ではなく、やや横向き。

――バットは肩のあたりに軽く添え、力を入れすぎない。

――目線は、しっかり前を見る。


その一つ一つを思い出しながら、グレイは自然に形を作っていく。


無駄のない、静かな構え。


フォームを整え、深く息を吐くと――

グレイは、スタートボタンを押した。


ガシャン、という機械音。


次の瞬間、白い球が勢いよく射出される。


(――来た)


グレイの視線は、ただ一直線にボールを追う。


無駄な力は入れない。

腰をわずかにひねり、下半身から体を回す。


(ここだ!)


振り抜かれたバットが、乾いた快音を響かせた。


――カァンッ!


芯を捉えた感触が、手のひらにはっきりと残る。


ボールは一直線に飛び、ネット奥に掲げられた**「HOMERUN」**のパネルへ――

吸い込まれるように命中した。


同時に鳴り響く電子音と、派手な光の演出。


その光景を、隣のバッターボックスから美沙は呆然と見ていた。


「……す、すごーい!」


思わず漏れた声。


だが、驚きはそれで終わらなかった。


次の球。

その次の球。


グレイは一球ごとに落ち着いて構え、迷いなく振り抜く。


――カァン。

――カァン。

――カァン。


すべての打球が、正確にホームランパネルへと吸い込まれていく。


まるで、最初から打てることが分かっていたかのように。


「……」


美沙は言葉を失ったまま、その光景を見つめていたが――

はっと我に返る。


「そ、そうだ! 見てばっかりじゃなくて……」


慌ててバットを握り直す。


「わ、私も打たなくちゃ!」


そう言って、美沙もまた自分のバッターボックスでバットを振り始めるのであった。


「えいっ! やっ! はっ!」


気合の入った掛け声と共に、美沙は何度もバットを振る。

しかし、乾いた空振り音が響くだけで、ボールはネットへと素通りしていった。


「……全然、当たんない……」


肩を落としつつも、諦めずに再び構える。


――だが、結果は同じ。


「ぐぐ……悔しいぃぃ!」


思わず地団駄を踏みそうになるのを堪え、美沙はバットを握り直した。


「何が何でも……当ててやるんだからっ!」


そう宣言し、再び構えに入る。


一方その頃――

グレイのバッターボックスの周囲には、いつの間にか人だかりができていた。


「な、なぁ……ホームランって、あんなに簡単に出るもんなのか?」

「ストレートだけじゃなくて、コース変えても全部持ってってるんだけど……」

「今の球速、見たか? ……え、170km/h!?」

「ぷ、プロでも……あんなこと、できるのか……?」


最初は一打一打に歓声が上がっていたが、今ではあまりにも異常な光景に、ざわめきとどよめきが入り混じっていた。


だが――

当の本人であるグレイは、そんな周囲の視線や声などまるで気にも留めていない。


(なかなか……いい感じだ)


次の球を見据えながら、グレイは内心で満足げに思う。


(最初は、ただ球を打つだけの場所だと思っていたが……打てば打つほど、実に爽快だな。バッティングセンターというのは)


再び、快音。


――カァンッ!


打球はまたもや一直線にホームランゾーンへと突き刺さる。


だがその直後、グレイはふと視線を横へと向けた。


隣のバッターボックス。


そこには、何度振っても球に当たらず、必死に食らいつこうとしている美沙の姿があった。


力みすぎたフォーム。

視線が泳ぎ、タイミングも合っていない。


(……なるほど)


グレイは小さく息を整えながら、自然と次に取るべき行動を考えていた。


「当たんな〜い……!」


思わずそうこぼしながら、美沙はちらりと隣のバッターボックスの方を見る。


(うわ……す、すごい人だかり……!? まぁ……でも、そうなるよね。あんなにバンバン打って、ホームランしか出してないんだもん)


遠巻きに集まる人たちの視線、その中心にいるグレイ。


少しだけ苦笑しつつ、美沙は再びバットを構え直そうと――した、その時。


「美沙」


突然、背後から名前を呼ばれた。


「ひゃっ!?」


思わず肩を跳ねさせ、振り返る。


「グ、グレイさん!? ど、どうしたの?」


そこに立っていたのは、ヘルメットを外したグレイだった。


「隣から見ていたのだが……どうにも、美沙があまり打てていないようだったのでな。少し、気になって」


その一言で、さっと頬が熱くなる。


(うぅ……やっぱり見られてた……)


「あはは……そうなんだよね。全然バットに当たらなくてさ。

やっぱり、私にはちょっと難しかったかな……」


そう言って、照れ隠しのように笑うが、表情はどこか残念そうだった。


グレイはそんな美沙から目を逸らさず、真剣な表情でじっと観察する。


構え、視線、足の位置。

先ほどからの様子を、頭の中で静かに整理しているようだった。


「……うむ。なるほど」


そう小さく頷くと、グレイはバットを立て掛け、美沙の横へ歩み寄り、バッターボックス横の操作パネルに手を伸ばす。


ピッ。


機械音とともに、マシンの動きが一旦止まる。


「え……?」


「少し、時間をもらってもいいか?」


落ち着いた声でそう告げるグレイに、

美沙はきょとんとしたまま、思わず頷いていた。


「グ、グレイさん……?」


突然の行動に、美沙は戸惑いの声を漏らした。

何が起きているのか理解する前に、グレイは静かに彼女の背後へと回り込む。


「美沙、少しいいか?」


落ち着いた声が、すぐ後ろ――耳元から届く。


その距離に、美沙の心臓が大きく跳ねた。


「へ……? あ、え……?」


次の瞬間、グレイの手がそっと美沙の体に触れる。


肩の位置、肘の角度、腰の向き。

力任せではなく、必要な分だけを確かめるような動きだった。


「まず、足は……肩幅くらいに開いて――」


だが、美沙の耳にはほとんど入っていなかった。


(え……な、なにこれ……? え、今、私……グレイさんに触られて……? 顔、どんな顔してるの私!?)


思考がぐるぐると暴走し、頭の中が真っ白になる。


――その中で、遠くから聞こえるように、声だけが届いた。


「……さ……美沙……」


はっとした瞬間、すでにグレイは一歩離れ、彼女の背後に立っていた。


「美沙! ボールが来るぞ!」


その声に、寝ぼけたように反応する。


次の瞬間――

勢いよく放たれたボールが、目の前を通過した。


「ひゃっ――!」


驚きで体が硬直し、バランスを崩す。


後ろへ倒れそうになった、その瞬間。


がしっと、体を支える腕。


美沙は、背後から抱き止められる形でグレイに受け止められていた。


「美沙、大丈夫か!?」


耳元ではなく、今度はすぐ近くで聞こえる声。


美沙は顔を上げ、グレイを見る。


少しだけ眉を寄せた、心配そうな表情。

しかも――距離が、近い。


あまりにも。


「……あ……う……あ……」


言葉にならない声が、喉から零れる。


「怪我はないのか?」


その問いかけで、ようやく状況を理解する。


「あっ……ご、ごめんなさい! わ、私……!」


慌てて体を離す美沙。

頬は、火照ったように赤くなっていた。


「問題ない。それで、怪我は?」


変わらず冷静なグレイの声に、美沙も少しずつ落ち着きを取り戻す。


「うん……だ、大丈夫……」


そう答えながら、胸に手を当てる。


(……び、びっくりした……)


心臓はまだ、ばくばくと速く脈打っている。


(私が悪いんだよね……集中できてなくて……触られて、頭が真っ白になって……)


そう思おうとするが――


(……でも……)


ちらりと視線を向ける。


コートを脱いだグレイの体は、思った以上に鍛え上げられていて、少し触れられただけでも、その逞しさが布越しに伝わってきた。


(あの体は反則だよ〜!……あれ? 私、そんなにマッチョ好きだったっけ……?)


自分でも分からない思考に至り、

美沙は一気に恥ずかしさが込み上げてくる。


(あぁもう……訳わかんなくなってきた〜! 穴があったら入りたい……)


そんなことを思っているとは露知らず、

グレイは至って真面目な顔で、再びバットを指さしていた。


恥ずかしさを振り払うように、美沙は再びホームベースへと足を踏み入れた。


(……こうなったら、何が何でも打ってやる!)


もはや半分ヤケになっている自分を、美沙は自覚していた。


(私だってさ……この歳になるまで、それなりに恋愛経験もしてきたつもりなんだけど? それなのに、さっきの私、何? ピュアか? 中学生か? 少女漫画のテンプレみたいのに動揺して……! ていうか、グレイさんに対して何考えてる私は……!?)


思い出すだけで、耳まで熱くなる。


(……恥ずかしすぎる……)


だが、ここで引きずるわけにはいかない。


(落ち着け、私……! 何を焦ってるの! 私はここにバットを振りに来たの!)


深く息を吸い、ゆっくりと吐く。


(ふぅ……集中、集中……)


そう心の中で何度も言い聞かせ、美沙は小さく頷いた。


「……よし」


短くそう呟き、視線をピッチャーマシンへ向ける。

両足を定位置に置き、バットを握り直し、構えに入った。


その空気を感じ取ったのか、少し離れた場所で見ていたグレイは、静かに目を細める。


(……ほう)


再びマウンドに立つ美沙の背中から、先ほどとは違う気配を感じていた。


(これほどまでに真剣な表情をするとは……やはり、一緒に来てよかったな)


――だが、それは完全な勘違いだった。


確かに美沙は気迫を見せている。

だがその理由は「バッティングに全力を注ぎたい」からではない。


先ほどの羞恥と混乱を、

とにかく何かに集中して紛らわせたい――ただそれだけだった。


(もう、余計なこと考えない! 打つ! 振る! それだけ!)


そんな美沙の内心など知る由もなく、グレイは彼女の覚悟を頼もしく見守っている。


こうして――

互いに少しだけ噛み合わないまま。


それでも同じ空間で、同じ時間を共有しながら、二人のバッティングは再び再開されるのだった。


美沙はグレイから教わったフォームを思い出しながら、深く息を吸い、視線を真っ直ぐピッチャーマシンへと向ける。


「美沙、ボールをよく見るんだ。君なら、きっと打てる」


その落ち着いた声に背中を押されるように、美沙はバットを握る手に力を込めた。

先ほどまでの浮ついた空気はもうない。視線は迷わず前だけを捉えている。


(もう、あんな失態するわけにはいかないんだから)


機械音と共に、ボールが放たれる。

白球が一直線に迫ってくるのを、美沙は確かに見据えた。


(――ここっ!)


踏み込み、腰を回し、思い切りバットを振り抜く。


乾いた快音が響いた。


バットは確かにボールを捉え、白球は放物線を描いて高く舞い上がる。


「や……やった! 当たった! 見た、グレイさん!?」


思わず振り返り、満面の笑みを向ける美沙。


「ああ。見事なスイングだ」


その言葉に、嬉しさが一気に込み上げた。


「グレイさんのお陰だよ! ああ、打ててスッキリしたぁ……」


気づいた時には、美沙は勢いのままグレイに抱きついていた。


一瞬、時間が止まる。


(……あ)


ようやく自分が何をしていたのかを理解した、その瞬間。

思考は一気に真っ白になった。


次の瞬間、顔に熱が一気に駆け上がり、心臓が跳ねる。

我に返った彼女は、慌てるように身体を離した。


「ご、ごめんなさ……っ!」


後ずさった、その時だった。


足がもつれ、バランスを崩す。

よろけながら、美沙の身体はそのままホームベース方向へ倒れ込む。


――ガシャン。


運悪く、次のボールが射出される音。


初心者設定とはいえ、時速70キロの硬式球。

ヘルメット越しでも直撃すれば、ただでは済まない。


白球は一直線に、美沙の側頭部へ――。


その刹那。


「――ッ!」


グレイは迷わなかった。


立て掛けてあったバットを掴み、美沙を抱き寄せる。

そして、剣士として身体に染み付いた動きで、バットを横一文字に振り抜いた。


野球のスイングではない。

それは、間違いなく“斬撃”だった。


ボールは鋭い音を立てて弾かれ、一直線に飛ぶ。

次の瞬間、ホームランパネルに命中し、派手な電子音と演出が鳴り響いた。


同時に――

美沙のヘルメットが、床に転がり落ちる。


「大丈夫か、美沙!?」


グレイの声。


美沙は答えられなかった。

ただ、至近距離にいるグレイを見つめていた。


抱き寄せられたままの距離。

高鳴る鼓動。赤く染まる頬。

潤んだ瞳と、わずかに色気を帯びた唇。


周囲の喧騒が嘘のように消え、静寂が二人を包み込む。


――この瞬間。


美沙は、はっきりと自覚してしまった。


胸の奥でずっと曖昧だった想いの正体を。

それが――

自分がグレイのことを、好きなのだという感情だということを。



東京某所。

林立する高層ビル群の中、その一角に大手広告代理店の本社が入るビルがあった。


二十階。

ガラス張りのフロアに広がるのは、制作進行部のオフィス。

モニターの光とキーボードの音、絶え間ない電話の呼び出し音が交錯する、常に張り詰めた空間だ。


その一角で、一人の女性が自席の内線電話を握りしめていた。


ブラウンアッシュのウェーブがかった髪を後ろでまとめ、ポニーテールのように束ねた女性。


受話器越しの相手の声に、彼女は何度も小さく頷きながら、必死に言葉を選ぶ。


「……はい、申し訳ありません。ええ、こちらの確認不足です……。はい……必ず制作側に共有いたしますので……」


声は丁寧で柔らかいが、その裏に緊張が滲む。


「……はい。ご不便をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」


そう締めくくり、彼女は深く頭を下げるようにして、内線電話を切った。


ガチャリ、という無機質な音。


次の瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。


「……はぁ……」


抑えきれず漏れた小さな溜息。

デスクの上に肘をつき、ほんの一瞬だけ目を伏せる。


――今日だけで、これで何件目だろう。


そう心の中で呟きながら、彼女は背筋を伸ばし、再びモニターへと視線を戻した。


制作進行部。

トラブルも謝罪も、日常の一部。


それでも、止まっている時間はない。


彼女は、もう一度気持ちを切り替えるように深呼吸し、次の対応へと向き合っていくのだった。


木之本由香里、二十二歳。

今年の春、大手広告代理店に営業部配属として入社した新卒社員だった。


入社当初、彼女は“運が良かった”。

そう言ってしまえば、それまでの話だった。


当時の営業部長――早川英二。

彼は専務の息子という立場を盾に、社内では好き放題に振る舞うことで知られた人物だった。

パワーハラスメント、セクシュアルハラスメント。

それらを日常的に繰り返しながらも、誰もが真正面から逆らえなかった存在。


そんな早川に、由香里は気に入られた。


理由は単純だったのかもしれない。

派手なブロンドヘアに、濃いメイク。

どこか物怖じしない態度。

新人らしからぬ自己主張の強さ。


早川の庇護を得た由香里は、“守られている”という感覚に酔っていった。

そして、いつしか自分もまた、好き勝手に振る舞う側へと回っていったのだ。


その犠牲になった一人が――

当時、同じ営業部で働いていた美沙だった。


美沙は、由香里の教育係として指導員を任されていた。

だが、現実は指導どころではない。

早川からの理不尽な叱責と圧力。

由香里からの無遠慮な態度と、暗黙の同調。


日々、少しずつ。

確実に、美沙は追い詰められていった。


やがて会社が事態を把握し、内部調査が行われる。

その結果、早川英二には懲戒解雇という厳しい処分が下された。


由香里もまた、無傷では済まなかった。

解雇こそ免れたものの、営業部から外され、制作進行部への異動――

事実上の左遷だった。


一方、美沙は――

問題そのものは無事に解決したものの、この一件を通して、自分が本当に進みたい道を見つけていた。


多くを学び、得るものもあった。

だからこそ彼女は、立ち止まるのではなく、前へ進むことを選んだのだ。


結果、美沙はこの会社を去る、という決断を下した。


そして、由香里が行ってきた事は既に噂としては、制作進行部の人間にも知られていた。


だからこそ。

由香里がこの部署に来た当初、誰も彼女に近づこうとしなかった。

視線は冷たく、距離は遠い。

腫れ物に触れるような扱い。


どれほど反省しても、それは簡単には伝わらない。


異動前。

由香里は、自分を変えようとした。


派手だったブロンドの髪はアッシュグレイへ。

濃く作り込んでいたメイクは、ほとんど素顔に近いナチュラルなものに。

ゴテゴテだったネイルはすべて外し、爪は軽く磨く程度に抑えた。


それは誰かに言われたからではない。

自分がしてしまったことへの、精一杯の反省だった。


だが――

周囲にとって重要なのは「今どうか」ではなく、「何をしてきたか」。


過去は、簡単には消えない。


そんな中、制作進行部で由香里の指導員となった人物がいた。


伊花琴葉(いばなことは)――二十八歳。


彼女は、特別に優しいわけでも、親身なわけでもない。

あくまで“仕事として”由香里に向き合っているだけだ。


それでも。


誰からも避けられ、陰口を叩かれ、居場所を失いかけていた由香里にとって、仕事としてでも接してくれる存在は、あまりにも大きかった。


その余韻を振り払うように、由香里は先ほど受けた内線の内容を思い返す。

それを整理し直そうと、デスクのスケジュール表に視線を落とした、その時だった。


「木之本さん」


名前を呼ばれ、はっとして顔を上げる。


「頼んでおいたスケジュールの調整、上手くいきそう?」


声の方へ振り返ると、そこに立っていたのは、いかにも真面目そうな女性だった。

ダークブラウンの短めのセミロングヘアに、目元には銀縁のインテリ眼鏡。

その落ち着いた装いが、彼女の理知的な雰囲気を自然と際立たせている。


右の口元には、小さなほくろが一つ。

控えめながらも、それがかえって彼女の魅力を引き立てていた。


その人物こそ――

制作進行部で由香里の指導員を務める、伊花琴葉だった。


落ち着いた口調。

感情を表に出さない、いつもの伊花だ。


由香里は一瞬、言葉に詰まり、視線を泳がせる。


「……それが……」


喉の奥が、きゅっと詰まる。


「先ほど、制作側からクレームのご連絡がありまして……」


なるべく淡々と、事実だけを伝える。

だが、その声はどこか硬く、表情も冴えなかった。


「そう……」


伊花は短く相槌を打つだけで、眉一つ動かさない。


「分かったわ。後の調整は、私の方でやるから」


その言葉に、由香里の肩がわずかに強張る。


「木之本さんは、もう一度スケジュールを見直して。

 終わったら、確認するから私のところにスケジュール表を送って」


「……分かりました」


反射的に答えながら、由香里は胸の奥に小さな痛みを覚える。

また、迷惑をかけてしまった。

また、任せきりにしてしまった。


――そう思うたび、過去の出来事が脳裏をよぎる。


だが、伊花は責める様子も、呆れる様子も見せない。

ただ、仕事として必要な指示を出すだけだ。


その淡々さが、逆にありがたくもあり、少しだけ怖くもあった。


伊花は踵を返そうとして――

ふと、思い出したように足を止める。


「それと……」


由香里は、思わず背筋を伸ばす。


「木之本さん、今日の夜、空いてる?」


その予想外の一言に、由香里はきょとんと目を瞬かせた。


「……え?」


仕事の話だろうか。

それとも、何かミスの件で――?


頭の中で答えを探している間にも、心臓の鼓動が少し早まる。


思いがけないその問いに、由香里はまだ、言葉を見つけられずにいた。

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