第四十九話 一品
休みの「えにし屋」の店内。カウンター越しの厨房で、セリシアは一人、静かに鍋を見つめていた。
目の前のおでん鍋は仕切りがされ、色とりどりの具材が整然と並ぶ。しかし、その中には少し珍しいものも混じっていた。イカやエビ、アサリといった魚介類、ロールキャベツ、餅、白菜、砂ずり、アスパラベーコン、さらには小さなハンバーグまで――いつものおでんの顔ぶれとは少し違う。
セリシアはひとつずつ具材を取り、小皿に入れて味を確かめる。
「うーん…味が染み込みやすいものを中心に選んでみたんだけど…」
眉をひそめ、彼女は真剣に考え込む。
「砂ずりは食感はいいけど、やっぱり味が染みにくいわね…。ロールキャベツはよく味が染み込むし美味しいけど、無理におでんの具にする必要もないかも…。アスパラベーコンは…アスパラに出汁が染みて美味しいけど、煮崩れが心配ね…。ハンバーグは…うーん、美味しいけど、なんだかおでんとしては違う気がする…。他の具材もそれぞれ美味しいんだけど…何か、物足りないのよねぇ…」
鍋の中で静かに煮える具材たちを前に、セリシアは思案を続ける。美味しさはある。でも、それがおでんとしての「完成形」になるには、まだ何かが足りない――その答えを、彼女は探していた。
セリシアが、ここまでおでんの具材に頭を悩ませているのには、きちんとした理由があった。
それは、えにし屋でおでんを出すようになって間もない、ある日のこと。
営業の合間、ふとしたタイミングで、悠真が一つの提案を口にしたのだ。
「……私が?」
思いがけない言葉に、セリシアは思わず聞き返していた。
「うん。セリシアには、新しく追加するおでんの具材を一つ考えてほしいんだ」
それは、悠真が彼女に持ちかけた、思いのほか大きな役目だった。
新たに店で出すおでんの具材を――セリシア自身の発想で決めてほしい、という提案だったのである。
「悠真、どうしていきなりそんなことを?」
セリシアがそう問いかけたのも、無理はなかった。
確かに、悠真に料理を教わるようになってから、彼女は少しずつ、確実にできることを増やしてきた。
かつて――ラグノスの勇者として、剣を振るうことしか知らなかった少女。
そのセリシアが、偶然この世界へと辿り着き、そして“料理”という、まったく未知の分野と出会ったのだ。
最初は、この世界で生きていくため。
悠真の店で世話になる代わりに、ホールを手伝う日々だった。
けれど、いつしか彼女の視線は、自然と厨房に立つ悠真の背中を追うようになっていた。
興味の赴くままに包丁を握り、教わりながら、一つひとつ料理を覚えていく。
最初の頃は、材料を切ることすら思うようにできなかった。
それでも――初めて自分の手で作り上げた卵焼きの、あの感動だけは、今でもはっきりと胸に残っている。
練習を重ねるうちに、できることは少しずつ増えていった。
やがて、店に出す料理のほとんどの下拵えを任されるまでになり、開店準備中に厨房に立つ時間も増えていった。
そんな中で告げられたのが――
自分の考えた料理が、店に並ぶという話だった。
それは、セリシアにとって初めての経験。
驚きは確かにあったが、それ以上に胸を満たしたのは、挑戦してみたいという素直な気持ちだった。
――どんな料理なら、お客さんは喜んでくれるのだろう。
――どんな一品なら、「美味しい」と言ってもらえるのだろう。
考えれば考えるほど、思いは尽きない。
そして、この提案は――セリシアの背中を押すだけの、悠真なりの確かな考えがあってこそのものだった。
「セリシアは、もう料理の基本はしっかりできてるからね」
悠真はそう前置きしてから、穏やかな声で続けた。
「次のステップとして、自分で考えた料理を作れるかどうか。それが、これからのセリシアの課題かなって思ったんだ。とはいえ、いきなりまったく新しい料理を生み出すのは難しいからさ。まずは、今お店で出している料理の中から、セリシアなりにアレンジした一品を出せたらいいなって」
「……それで、おでんなの?」
「うん。おでんの出汁はもう決まってる。あとは、この出汁に合う食材を考えるだけなんだけど――ただ合えばいい、ってわけじゃない」
悠真の表情が、少しだけ引き締まる。
「家で食べる分ならそれでもいい。でも、このおでんは“お店の商品”として出すものだからね。お客さんが、あっと驚いて、また食べたいって思ってくれる一品じゃないと」
その言葉を聞いた瞬間、セリシアはその一品にかかる“重み”を実感した。
内容だけ聞けば簡単そうに思える。けれど、それはえにし屋の看板として出される料理なのだ。
「……わ、私に……できるのかな……?」
思わず漏れた不安の声に、悠真はすぐに首を横に振った。
「うん。今のセリシアなら、きっとできるよ。だから、肩の力を抜いて、ゆっくり考えて挑戦してほしいんだ。失敗してもいいからさ」
その言葉に、セリシアの胸がじんわりと温かくなる。
期待してくれていることが嬉しい反面、失敗したらどうしようという不安も、確かにあった。
けれど――
料理を覚える過程で、彼女は何度も失敗してきた。
それでも立ち止まらず、少しずつ前に進んできたのだ。
今さら、失敗を恐れて歩みを止める理由はない。
セリシアは、ぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「悠真……私、挑戦してみる!」
力強く言い切ったその言葉に、悠真は満足そうに頷く。
「よし、決まりだな。期限を設けるつもりはないけど――おでんは季節限定の料理だからね。なるべく早く出せれば、その分たくさんのお客さんに喜んでもらえる」
「ええ……悠真も驚くような一品、作ってみせるわ!」
こうして――
セリシアの、新たな挑戦が静かに始まったのだった。
そして今、おでん鍋の前で、セリシアは一人、腕を組んで唸っていた。
悠真にあの提案をされた日から、彼女は店の仕事の合間や、わずかな空き時間を見つけては、試せそうな食材を一つずつピックアップしてきた。
そして今日、休みの日。
これまで選び抜いてきた食材を、初めてまとめておでん鍋に入れ、味や相性を確かめていたのだ。
「うーん……できれば、自分で作ったものを入れたいんだけど……」
小さく呟きながら、セリシアは鍋の中を覗き込む。
「煮崩れの問題がどうしても出てくるのよね。だからって、出来合いのものをそのまま入れるのは……ちょっと面白みに欠けるし……」
深く息を吐く。
「……意外と、難しいわね……」
そんなふうに鍋の前で悩み続けるセリシアに、背後から気の抜けた声がかかった。
「折角の休みだというのに、随分と熱心じゃのう〜」
振り向くと、そこに立っていたのはルシアだった。
「ルシア……今、起きたの?」
セリシアが時計に目をやると、すでに時刻は十一時を回っている。
「ふぁ〜……昨日、遅くまで玉藻と飲んでおったからの」
そう言いながら、ルシアはカウンター席に腰を下ろすと、
そのままぐでーっと、体をテーブルに預けるようにして座った。
真剣に鍋と向き合うセリシアと、完全にオフモードの魔王。
えにし屋の休みの日らしい、静かで少し緩んだ時間が流れていた。
「もう、お昼前じゃない。最近、飲みすぎじゃない?
毎日二日酔いなんて、体を悪くするわよ」
セリシアの小言に、ルシアは気だるげに視線を上げる。
普段のルシアは、店が開いている間は客たちと酒を酌み交わし、そのまま盛り上がればふらりと二次会へ。
戻ってきたかと思えば、今度は別の客とまた飲み始める――そんな自由奔放な飲み方が常だった。
だが、ここ最近は少し様子が違う。
店を閉めると、その足でフェリシアーナの部屋へ向かい、玉藻と一緒に夜更けまで飲み続ける日々。
フェリシアーナは未成年のため酒は飲めないが、その分、玉藻も含め一緒にゲームに興じ、気付けば夜更け。
そんな生活が、ほぼ毎日続いていた。
「ふん……我が二日酔い? そんなわけなかろう。魔王たる我が、この程度で二日酔いなどせんわ。
そもそも、これしきで体を悪くするなど――」
言葉とは裏腹に、カウンター席で項垂れるその姿は、
どう見ても“飲みすぎた翌朝”そのものだった。
セリシアは思わず溜息をつく。
「……それよりセリシア」
ルシアは話題を変えるように、顔も上げずに続ける。
「我は腹が減っての。何か昼飯を作ってくれぬか?
ああ、なるべく……さっぱりしたものがよいのう……」
「はぁ……」
セリシアは肩を落としながらも、鍋から視線を離す。
「もう、しょうがないわね……。本当に酒癖の悪い、ぐうたらな魔王様なんだから」
そんな魔王のだらしない姿を見て、セリシアは小さく溜息をついた。
呆れはしたものの、放っておくわけにもいかない。
厨房へ向かうと、冷蔵庫の扉を開け、中の食材を一つひとつ確認していく。
「うーん……さっぱりしたもの、ね……」
指先で顎に触れながら、思案する。
「できれば、体に優しいものの方がいいかしら……あ、そういえば……」
ふと思い出したように冷蔵庫を閉め、今度は厨房のシンクへ。
そこに置かれていたボウルを覗き込む。
「……うん。ちょうど、砂抜きも終わってるみたいね」
満足そうに小さく頷くと、セリシアは振り返った。
「ルシア。簡単なものでも、いい?」
「おお、構わんぞ〜」
ルシアは体をテーブルに預けたまま、力の抜けた返事を返す。
その言葉を聞いた瞬間、セリシアの表情がきりっと引き締まった。
エプロンの紐を整え、鍋へ向かう。
「じゃあ、少し待ってて」
こうして――
セリシアは、昼食の支度に取りかかったのだった。
「まずは、ニンニクを一欠片……みじん切りにして……」
トントントン、と軽快な包丁の音が厨房に響く。
その規則正しい音が、カウンターに突っ伏していたルシアの耳にも届いていた。
「……オリーブオイルで、ニンニクを……」
しばらくすると、フライパンからふわりと香ばしい香りが立ち上る。
(ぬぅ……ニンニクの香りが……)
その瞬間、ルシアの腹が、ぐぅ、と正直な音を立てた。
(……腹が、減ったのじゃ)
どうやらその音は、セリシアの耳にも届いたらしい。
彼女は思わずクスリと笑い、振り返る。
「ふふ、ちょっと待っててね。すぐできるから」
「うむ……楽しみに待つとしようか」
そう言って、先ほどまでテーブルに伏せていたルシアが、ゆっくりと顔を上げる。
セリシアは鍋に水を張り、火をかける。
続いて、フライパンに――バラバラッ、と軽い音を立てながら、ある食材を加えた。
その音に、ルシアがぴくりと反応する。
「……ん? 何じゃ。今、何を入れたのじゃ?」
「できてからのお楽しみよ」
そう答えるセリシアの横顔は、どこか楽しそうだった。
その表情を見て、ルシアの口元も自然と緩む。
「ほう……」
期待と空腹が入り混じった視線を向けながら、
ルシアは再び、セリシアの手元へと注目するのだった。
(……料理をしている時の、こやつの顔……本当に、いい顔になったものじゃの……)
しばしの間、言葉はなかった。
ただ、包丁や鍋の立てる音、湯気の立つ気配だけが厨房を満たし、二人の間にはどこか安心したような、穏やかな時間が流れていく。
そして――
「はい、できたわよ。召し上がれ」
そう言って、セリシアは出来上がった料理をルシアの前に置いた。
「おお……これは……!?」
目の前に置かれた皿を覗き込み、ルシアが目を見開く。
「しじみのスープパスタよ」
淡い色のスープに絡むパスタ。
ところどころに、ぷっくりとしたしじみの身が顔を覗かせていた。
「なんとも……良いニンニクの香りがするのう。
それだけではない……優しい出汁の香りも、食欲をそそるわい」
「さあ、温かいうちに食べて」
「では――!」
ルシアはフォークを手に取り、迷いなくパスタを口に運ぶ。
「おお……出汁が、よく効いておる。美味いの……。とても優しい味じゃ……。二日酔いの身体に、じんわり染みるのう……」
「……ほら。やっぱり、二日酔いだったじゃない」
セリシアは呆れたように言う。
ルシアは、はっとして視線を逸らし、誤魔化すように咳払いをした。
「そ、そんなこと……言ったかの……?」
「はぁ……もう、いいわよ」
「そ、それよりじゃ! このスープ……本当に良い味が出ておるぞ!」
露骨に話題を変えるルシアに、セリシアは苦笑する。
今さら突っ込むのも無駄だと、よく分かっていた。
「そのスープの味付けにね、おでんの出汁を使っているの。それに、しじみは二日酔いに効くのよ」
その説明を聞きながら、ルシアは再びパスタを口に運ぶ。
「……ふむ。なるほど……本当に、良い味じゃ! お主が、ここまでの料理を作れるようになるとはの……」
「ふふ。それはどうも、ありがとうございます――お客様」
そう返すセリシアの横顔を見ながら、
ルシアは、これまでのことをふと思い返していた。
こことは違う世界――ラグノス。
ルシアは、その世界でのセリシアを知っている。
すなわち、“勇者セリシア”を。
初めて戦場で彼女と相対した時、ルシアが抱いた印象は、ただ一つ。
――幼い。
(こやつが……次の勇者か。何とも、幼い者を勇者にしたものじゃな……)
当時のセリシアは、まだ十五歳。
年端もいかぬ少女だった。
二人が立っていた戦場は、熾烈を極めていた。
爆音が絶え間なく鳴り響き、人族と魔族の魔法が空を裂く。
怒号と悲鳴が交錯し、大地は焼け焦げ、無数のクレーターで抉り取られている。
そこかしこに転がるのは、人族と魔族、区別のつかぬ兵士たちの亡骸。
血と焦げた匂いが立ち込める中、その少女の存在は、あまりにも戦場にそぐわなかった。
――それでも。
「魔王ルシア……! ここで、貴女を倒します!」
震えも迷いも見せず、セリシアは剣を構えた。
碧い瞳は逸らされることなく、真っ直ぐにルシアを射抜いている。
(……力強い目じゃ。今まで見てきた勇者たちも、皆そうであった……。じゃが……こやつは……)
ルシアは、その瞳の奥に宿るものを見逃さなかった。
(……追い詰められた目をしておる……)
それも、無理はない。
この年で、勇者として戦場に立たされているのだ。
これから先、心も身体も削られ、傷つき続ける未来が待っている。
(それならば……今、この場で終わらせてやった方が、この子のためではないか……)
戦争に翻弄され、勇者という名の重荷を背負わされ続けるのであれば――
せめて、自分の手で。
(その役目を、我が引き受けてやろう……)
刃が交わり、魔力と衝撃が激突する。
激闘が繰り広げられた。
――だが、その戦いに終わりは訪れなかった。
決着はつかず、やがて戦場は変わり、場所を変え、時を重ねても。
気づけばルシアは、何度も、何度も――
別の戦場でセリシアと刃を交えることになる。
それが、勇者と魔王としての、二人の始まりだった。
(これほどの勇者になるとはの……じゃが、その目は昔と変わらぬ)
力強さは確かにある。
だがその奥に宿るものは、いつも同じだった。
焦り、葛藤、そして――追い詰められた者の色。
ルシアが戦場で見てきたセリシアの印象は、いつもそうだった。
やがて決着がつき、そして――この世界へと転移し。
この居酒屋で再び彼女と顔を合わせた瞬間、ルシアは心の底から驚いた。
最初に視線が交わった刹那。
セリシアの瞳に浮かんでいたのは、確かに怒りと戸惑いだった。
(まぁ、当然じゃろうな……。いきなり宿敵が目の前に現れたのじゃからの)
そう思いながらも、ルシアはその視線から目を離せずにいた。
そして、すぐに違和感に気づく。
(……じゃが、この目……)
それは、ラグノスで幾度となく見てきた“あの目”ではなかった。
(……ああ、そうか)
胸の奥で、静かに腑に落ちる。
共に過ごすうちに、ルシアは少しずつ理解していった。
この世界に関わったこと。
そして何より――悠真との出会いが、セリシアを変えたのだと。
剣を振るうためだけに存在していた少女は、ここでは料理を覚え、誰かの腹と心を満たすことを知った。
(あのセリシアが……こんなにも、暖かい料理を作れるようになるとはな……)
目の前に置かれた、しじみのスープパスタ。
湯気の向こうに漂う、優しい出汁の香り。
(それに……まさかこの娘と、異なる世界で、こうして食を囲む日が来ようとは……。あの頃の我が、想像すらせなんだろうて……)
ルシアは、柔らかな表情でその皿を見つめていた。
箸……ではなくフォークの動きが止まったことに気づき、セリシアが不思議そうに首を傾げる。
「……? どうしたの、ルシア。もしかして、お腹いっぱい?」
「いや、まだ全然食べられるぞ」
そう答えてから、少し間を置く。
「ただ……思い出しておっただけじゃ」
「思い出す……?」
遠くを見るようなその眼差しに、セリシアは何を思っているのか見当もつかず、ただ問い返す。
ルシアは答えず、もう一度フォークを取り、静かに口へ運んだ。
温かさが、喉を通っていく。
――言葉にせずとも、この時間そのものが、かつての戦場と何より雄弁に違っていた。
「あんなボロボロの卵焼きを作っておったお主が、こんなものを作れるようになるとはな。何とも感慨深いものじゃ」
ルシアは、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
その瞬間、セリシアの脳裏に鮮明に蘇る。
――悠馬に料理を教わり始めたばかりの頃。
人生で初めて、自分の手で作った卵焼き。
「あ、あれは……まだ料理を教えてもらい始めたばかりの時じゃない!!」
「おや? そうだったかの?」
わざとらしく首を傾げ、からかうように言うルシア。
「そうよ! 初めてだったんだから、しょうがないじゃない!……た、確かにボロボロだったけど……」
口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
思い出すだけで、あの卵焼きの無残な姿が脳裏に浮かんだ。
「ほれ、ちゃんと認めとるではないか」
「う〜……!! もうっ! そんなこと言うなら、これは没収よ!」
セリシアは勢いよく立ち上がり、ルシアの前に置かれていた皿をひょいと持ち上げる。
「なっ!? まだ我は食べておる最中じゃろうが!」
「知らないわよ! そんなこと言う人に料理なんか作ってあげないんだから!」
ぷいっとそっぽを向くセリシア。
「ぐ、ぐぬぬぬ……ま、待てセリシア! 一旦落ち着くのじゃ! お主、盛大な誤解をしておるぞ!?」
「どこがよ!」
「我が言ったのは見た目の話だけじゃ! 味まで否定した覚えは一切ない! 確かに見た目は……その、見事にボロボロであったがな!」
「ほらまた言った! ボロボロボロボロ言わないで!」
「聞けい! 食べ物というのは見た目が良ければ良いというものでは――」
必死の説得の末、ルシアはようやく皿を取り戻し、腹を満たすべく料理を貪り始めた。
その様子を、セリシアはやれやれといった表情で眺める。
だが、頭の中では、どうしても“あの卵焼き”が離れなかった。
(確かに……あの頃の私の料理、酷かったわよね……
ボロボロの卵焼き……うん、否定できないかも……)
――ボロボロの卵焼き。
その言葉を反芻した瞬間、ふと、何かが閃いた。
「……卵焼き……?」
思わず零れた呟きに、ルシアが顔を上げる。
「ん? どうかしたのか?」
「卵焼き……そう! それよ!」
「な、何の話じゃ、一体……?」
セリシアの瞳に、はっきりとした光が宿る。
それは、料理人として――いや、“誰かのために料理を作る者”としての、確かな一歩。
その光を、ルシアは不思議そうに、だがどこか微笑ましそうに見つめていた。
その日の夜――えにし屋の店内。
「……これが……?」
そう呟いたのは悠真だった。
カウンター席に腰掛けた悠真は、自分の目の前に置かれた皿へと視線を落とす。
隣にはルシアも座り、同じ料理が差し出されている。
「ほう……これはまた、珍しいの」
ルシアは興味深そうに目を細めた。
二人の前に置かれていたのは、卵焼き。
それも――おでんの出汁にしっかりと浸された卵焼きだった。
そう、セリシアが今日、おでんの具材として選んだのは“卵焼き”だったのだ。
「確かに珍しいな……。たまに見かけることはあるけど……」
そう言いながら、悠真は箸でそっと卵焼きを持ち上げる。
出汁を含んだ表面から、ほのかに湯気が立ち上っていた。
その様子を、セリシアはカウンターの向こう側からじっと見つめている。
真剣な眼差し。
けれど、その奥には隠しきれない不安が滲んでいた。
(大丈夫……よね……?)
「じゃあ……いただくよ、セリシア」
悠真がそう言って微笑む。
「……はい!」
少しだけ硬い返事。
悠真とルシアは、それぞれ卵焼きを口へと運んだ。
出汁を吸った卵焼きが、静かに噛み締められる。
セリシアは、息をするのも忘れたように二人の表情を見つめていた。
――この一口が、
かつて“ボロボロの卵焼き”を作っていた自分から、確かに前へ進めている証になると信じて。
「……ん。これ、だし巻き卵?」
悠真がそう言って、もう一口ゆっくりと噛み締める。
「この卵焼き……しっかり味が染み込んでおるの」
ルシアも感心した様子で頷いた。
「そう、だし巻き卵を作ったの」
セリシアは少し胸を張りながら続ける。
「それでね、出汁にはこのおでんの出汁を使ったわ」
「なるほどの……」
ルシアは目を細める。
「それで、ここまでしっかり味が入っておるわけか」
「それに、味付けがされているだし巻き卵だから、長時間煮込まなくてもいいと思ったの。その方が、形も崩れにくいし……」
「確かに」
悠真は箸先で卵焼きを軽く持ち上げる。
「綺麗に形を保ってる……」
そして、はっきりと言った。
「うん。美味しいよ、セリシア。これなら、ちゃんと“お店の料理”として出せる」
その言葉を聞いた瞬間、セリシアの肩からふっと力が抜けた。
「……良かったぁ……」
思わず零れた本音。
実のところ――
この瞬間は、セリシアにとって人生で最も緊張した時間だった。
かつてラグノスの勇者として、数え切れぬ死線を越えてきた彼女を知る者なら、意外に思うだろう。
だが彼女にとっては、それらと同じくらい――いや、それ以上に、今回の料理は真剣に向き合った“勝負”だったのだ。
その想いを知ってか、知らずか。
ルシアは、セリシアへと向けていた視線をそっと緩め、どこか誇らしげで、優しい表情を浮かべていた。
「それにしても……」
ルシアが卵焼きを眺めながら、ふと思い出した様に言う。
「よくだし巻き卵を入れるなどと思いついたの。
お主、おでんについては、あまり詳しくなかったであろう?」
「うん」
セリシアは素直に頷く。
「今日のお昼にね……どこかの“誰かさん”が、
ボロボロの卵焼きの話をしてきて……」
「ボロボロの卵焼き……?」
悠真は心底分からない、という顔で首を傾げる。
その隣で、ルシアがすっと視線を逸らした。
その微妙な間に気付いた悠真が、
「……え? 何? またルシアが何かやったの?」
と言わんばかりの視線をセリシアへ向ける。
その様子がおかしかったのか、セリシアは思わずクスリと笑った。
「ふふ。その“誰かさん”のお陰で、思いついたの」
「……むぅ」
ルシアは小さく唸りつつも、否定はしなかった。
こうして――
セリシアの作った料理は無事に認められ、
だし巻き卵は、えにし屋の新たなメニューとして並ぶことが決まったのだった。
⸻
「すみませーん! 注文いいですかー?」
店内に、テーブル席から明るい声が響く。
「はい、ただ今!」
その声に応じて、美沙が小走りで注文を取りに向かった。
テーブル席には、女性客が四人並んでいる。
「えっと、おでんの大根と、がんもどきを四つずつお願いします」
「あと、私この――だし巻き卵も!」
「え? おでんに、だし巻き卵?」
「うん! このお店のおでんのだし巻き卵、めっちゃ味が染みてて美味しいんだよ!」
「そうなの⁉︎ じゃ、私も!」
「え、じゃあ私も!」
「じゃ、だし巻き卵、四つお願いします!」
一気に盛り上がる客席に、美沙は思わず笑みを浮かべながら頷く。
「かしこまりました!
ご注文を確認いたしますね。おでんの大根が四つ、がんもどきが四つ、それと――」
そのやり取りを聞いていたのか、今度はカウンター席から声が掛かる。
「悠真くん、こちらもお願いできるかしら?」
佐和子だった。
「おでんの大根と、だし巻き卵を」
「ああ、私も同じものを頼むよ」
続けて、喫茶店〈さくら〉のマスターも注文を重ねる。
「了解です。大根とだし巻き卵ですね!」
悠真は元気よく返事をすると、厨房の方へ声を掛ける。
「セリシア!」
呼ばれた先――
おでん鍋の前には、湯気に包まれながら注文の品を丁寧に取り分けているセリシアの姿があった。
だし巻き卵が新たにメニューに加わったのをきっかけに、セリシアは少しずつ厨房に立つようになっていた。
まだ任せられる仕事は多くない。
それでも、確実に一つずつ――厨房でできることを増やしていく。
それは、悠真なりの配慮であり、期待でもあった。
「分かったわ! 二人分ね。大根とだし巻き卵!」
セリシアはそう言って、はっきりと声を張って確認する。
「ふふ……ずっとホールに立っていたセリシアちゃんが、こうして厨房にいるなんて。不思議な感じねぇ」
「そうだねぇ……初めてここで働く彼女を見てきた身としては……成長を感じるよ」
佐和子とマスターは、どこか感慨深そうに目を細めた。
「そうですね……。セリシアも、少しずつできることが増えてきて。最近は、厨房に立つのが本当に楽しそうなんです」
そう答えながら、悠真は自然と視線をセリシアへ向ける。
それは、そっと見守るような眼差しだった。
――その時。
ホールの方から、張りのある声が飛んでくる。
「セリちゃん! おでんの注文入ったよ! 大根とがんも、あとだし巻き卵が四つずつ! それと――」
その慌ただしい様子を、カウンター席の隅に陣取ったルシアが、徳利を傾けながら眺めていた。
「……本当に、だし巻き卵が好評じゃのう……」
「はい、ルシア」
悠真がカウンター越しに料理を差し出す。
湯気を立てる皿の上には、艶やかに出汁を含んだ大根と、ふっくらとしただし巻き卵。
「おお! 来たか!」
ルシアは嬉々として箸を取ると、大根を小さく割り、だし巻き卵の上にちょこんと乗せ、からしを添えて一気に口へ運ぶ。
すかさず、熱燗をくいっと流し込んだ。
「むほぉ〜……! こりゃあ、何杯でも酒が進むのぉ♪」
その様子を、悠真は苦笑しながら見ている。
「ははは。ルシア、すっかり気に入ってるじゃないか」
「そ、そんなことないのじゃ!」
即座に言い返すルシアだったが、声音にはどこか必死さが滲む。
「そう? 最近、ルシアちゃんそればっかりじゃない?」
佐和子がくすりと笑いながら、援護射撃のように口を挟んだ。
「確かに。君が一番のリピーターではないのかい?」
マスターも同じく、追い打ちをかけた。
「お主らは何を言っておるのじゃ!」
ルシアは慌てて否定するが、もう手遅れだった。
ここ数日、ルシアは決まって熱燗片手におでんを頬張っている。
その組み合わせはいつも同じ――だし巻き卵と大根。
しかも、今の食べ方。
それを見ていた他の客たちも、次第に真似をし始め――
いつの間にか「だし巻き卵と大根はセット」という空気が店内に広がっていた。
「すみませーん! 唐揚げと刺身の盛り合わせ、それとおでんの大根とだし巻き卵ください!」
「大将さん! おでんの牛すじとはんぺん。あと、大根とだし巻き卵ね!」
注文が飛ぶたび、厨房では悠真とセリシアが忙しく立ち回る。
その光景を、ルシアはどこか満足そうに眺めていた。
箸先には、セリシアが作っただし巻き卵。
「……本当に、変わったのぉ……セリシア……」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、湯気の向こうへ溶けていった。




