第四十八話 駄女神
居酒屋えにし屋、その三階にある部屋の一つ。
少し前までこの階に人が住むことはなく、いくつかの部屋は倉庫として使われていた。
だが――
ある二人の来訪者によって、その状況は一変する。
そう、フェリシアーナと玉藻である。
二人がこのえにし屋に住むことが決まり、急遽、居住用の部屋を用意する必要が生じた。幸いなことに、二人は同室で構わないという話になり、準備する部屋は一つで済んだのだが……問題は、その部屋が長らく倉庫として使われていた点だった。
雑多な荷物が積み上げられ、生活の痕跡など皆無。
片付けにはそれなりの手間がかかったが、セリシアや美沙、グレイ、そして当の本人たちであるフェリシアーナと玉藻の協力もあり、作業は思いのほか早く進んだ。
――ちなみにルシアはというと。
「後で手伝う」「今はちょっと用事がある」など、実に見事な言い訳を連発し、ほとんど戦力にならなかったため、皆から呆れた視線を向けられていたのだが、それはまた別の話である。
こうして無事に部屋の準備は整い、フェリシアーナと玉藻は正式に、えにし屋での新しい生活を始めることになった。
フェリシアーナは、自身の世界とはまるで異なる文化や文明を持つこの世界に戸惑いながらも興味を抱き、
玉藻は「こちら側の神」として、この時代の在り方を見つめ直しながら暮らしていく――
周囲は、そんな穏やかな日々を思い描いていた。
……だが、現実は少し違っていた。
特にフェリシアーナ。
異世界の神である彼女にとって、この世界の常識はことごとく新鮮で、そして刺激的だった。加えて、少し前まで“この世界の少女・望の身体に宿っていた”影響もあり、その依存度は想像以上に高かった。
幼い感性の中で触れた娯楽や文化は、彼女の中に強く根を張っていたのだ。
「フェリシアーナ姉様……少しは出した物を片付けていただかないと……」
玉藻はそう言いながら、部屋の中を見渡す。
そこは二人が共同で使っているはずの部屋――
にもかかわらず、床には漫画が山のように積まれ、ゲームソフトやアニメのDVDがあちこちに散乱していた。
「ちょっと待ってください、玉藻さん! 今、いいところなのです!」
異世界ラグノスの女神は、テレビの前――正確には、Am◯zonプライムで流れるアニメの画面に釘付けになりながら、真剣そのものの声を上げる。
その様子に、玉藻は小さくため息をついた。
「はぁ……それに、姉様。今の季節、その格好では風邪をひいてしまいますよ?」
玉藻の視線の先。
ベッドに横たわり、夢中でアニメを観るフェリシアーナは、大きめのソフトグレーのセーターだけを身にまとい、下は何も履いていない状態だった。無防備に伸ばされた脚の先、セーターの裾からは白い太腿と下着がはっきりと見えている。
まるで、この世界の“だらけ方”を極めてしまったかのような姿だった。
そう――
フェリシアーナは、この世界においてニート、そしてオタクの極致へと至っていた。
元々、彼女は幼い少女・望の内に宿り、眠りにつきながらもこの世界の出来事を断片的に認識していた存在である。
その影響か、現代日本の文化――特にアニメやゲームへの興味は、最初から異様なほどに強かった。
中でも、望が好んで視聴していたアニメ――
『プ◯キュア』。
それは今や、フェリシアーナにとって揺るぎない“最推し”となっていた。
ちなみに今、彼女が食い入るように見つめている画面でも、
元気いっぱいの少女たちが愛と勇気を叫びながら、華麗に変身している。
――そう、プ◯キュアである。
フェリシアーナは、この機会を逃すまいとばかりに、シリーズを最初から最後まで完全視聴する勢いで見続けていた。
「な、なんと素晴らしいアニメなのでしょう……! ここまで丁寧に物語が紡がれるなんて……! これが子供向けのアニメだなんて、到底信じられません!」
感極まった様子でそう叫び、フェリシアーナは目に浮かんだ涙をティッシュで拭う。
その表情は神々しさとは程遠く、完全に一人の熱狂的視聴者のそれだった。
そんなフェリシアーナを横目に、玉藻は大きく一つ、ため息をつく。
「……はぁ……」
呆れと諦めが入り混じった吐息をひとつ漏らし、玉藻は何も言わないまま、散乱した部屋の片付けに取りかかった。
その表情は、手のかかる子供の世話を焼く母親のようで、呆れを滲ませながらも、どこか穏やかで柔らかな笑みを浮かべていた。
床に転がる漫画を拾い上げ、積み上げられたゲームソフトを棚に戻し、
その背後では、駄女神が再びプリキュアの名シーンに震えていた。
そんな賑やかな(そして堕落した)日常が繰り広げられている三階とは打って変わり、一階――居酒屋えにし屋のカウンターと厨房は、穏やかな昼前の空気に包まれていた。
厨房からは、包丁がまな板を叩く軽快な音と、鍋に火が入る静かな音が響いている。
本日分の仕込みをしながら、同時に昼食の準備を進めているのは悠真だった。
その隣では、エプロン姿のセリシアが黙々と手を動かしている。
一方、カウンター席では――
肘をつき、頬を手に預けたルシアが、気だるそうにテレビを眺めながら昼ご飯の完成を待っていた。
「悠真、こんな感じでいい?」
セリシアの声に、悠真は一度手を止めて振り返る。
そこには、綺麗に切り分けられた食材が並んでいた。
野菜、肉、魚――どれも大きさは揃い、下拵えも丁寧だ。
いくつものバットに分けられ、無駄のない配置で置かれている。
「うん、問題ないよ。じゃあ、それ奥の厨房の冷蔵庫に入れてきてくれる?」
「ええ、分かったわ」
そう答え、セリシアは持てる分のバットを抱えると、店の奥へと消えていった。
その後ろ姿を、悠真は自然と穏やかな表情で見送る。
――最初の頃は、ホールの手伝いが精一杯だった。
それがいつしか、料理そのものに興味を持つようになり、時間の合間を見て包丁の持ち方や基本的な下処理を教え始めた。
初めて卵焼きを作れた日のことは、今でもはっきり覚えている。
火加減に苦戦し、何度も失敗しながら――
それでも、形になった卵焼きを前に、嬉しそうに目を輝かせていたセリシアの顔を。
それからも彼女は、時間があれば厨房に立ち、失敗を重ねながら少しずつ腕を磨いてきた。
今では基本的な料理はもちろん、店で出す料理の一部なら問題なく任せられると思えるほどだ。
ホールの仕事だけでなく、仕込みまで手伝えるようになったセリシア。
その成長は、日々確かな輝きを増していた。
(最終的には、厨房に立ちたい……か)
彼女自身が口にしていた目標を思い出しながら、悠真は考える。
――今のセリシアの腕なら、
もう厨房の補佐として立たせてもいいのではないだろうか。
(そろそろ、セリシアにも……)
そう思案していると、不意に気だるい声が割り込んできた。
「本当に、あの女神も困ったもんじゃのぉ」
声の主は、カウンター席でテレビを眺めていたルシアだった。
昼の情報番組では、ちょうど引きこもりやニートの問題が取り上げられている。
その内容を目にして、思い当たる節があったのだろう。
ルシアは画面をぼんやりと眺めたまま、呆れを滲ませるようにそう呟いた。
ルシアのその言葉に、悠真は今のフェリシアーナの姿を思い返し、思わず苦笑する。
最初の頃――
フェリシアーナは、この地球という世界の文化に触れるため、玉藻の案内のもと、東京観光を楽しんでいた。
高層ビル、人の多さ、街に溢れる光と情報。
異世界の女神にとって、そのすべてが新鮮だった。
だが、東京を巡る中で――
ある“存在”が、フェリシアーナの視界に飛び込んできた。
プ◯キュア。
幼き望の身体に宿っていた影響なのか。
まるで引き寄せられるように、フェリシアーナはその映像から目を離せなくなっていた。
玉藻は、いつまで経ってもその場から離れようとしない彼女を、そこから引き剥がすため、「レンタル」という文化を教える。
――今思えば、それがすべての始まりだったのかもしれない。
初めて足を踏み入れたレンタル店。
ずらりと並ぶ棚、無数のディスクケース。
その中で、フェリシアーナの心を完全に奪ったのが、日本のアニメだった。
「これは……まるで知識の宝庫ではありませんか!」
勢いのまま、棚にあるDVDを片っ端から借りようとするフェリシアーナ。
当然ながら、それには相応のお金がかかる。
玉藻に止められ、しょんぼりと肩を落とすフェリシアーナ。
その表情に負けたのか、玉藻は“お試し”として数本だけ借りることを許した。
――それが、完全なる敗北への第一歩だった。
DVDを返しに行くたびに、新たな作品を借りようとするフェリシアーナ。
そして問題は、視聴環境にあった。
当時、えにし屋でテレビとデッキが揃っていたのは――悠真の部屋だけだったのだ。
結果、フェリシアーナは毎回のように悠真の部屋へ入り浸るようになる。
玉藻が止めようとしても、彼女は止まらなかった。
さらに追い打ちをかけるように、悠真の部屋に置かれていたゲーム機に目をつける。
「……これは、なんという危険な文明でしょう」
こうして、フェリシアーナの居場所は完全に悠真の部屋となった。
流石にこれはまずい、と感じたのは玉藻だけではなく、セリシアや美沙も同様だった。
――だが、部屋を実質的に奪われていた当の本人、悠真はというと。
「まぁ、いいんじゃないかな? こっちの世界が気に入ってるってことだし」
そんな、あまりにも甘い一言で済ませてしまった。
悠真自身も、良くないとは思っていた。
だが、フェリシアーナの姿が、どうしても望の姿と重なってしまう。
その記憶が、彼を必要以上に甘くさせていたのだ。
結果――
悠真の部屋は、完全にフェリシアーナの部屋と化していた。
事態を重く見たセリシア、美沙、そして玉藻。
彼女たちは話し合い、ある結論に至る。
――フェリシアーナ専用の環境を整え、彼女を説得し、悠真の部屋を奪還する。
だが、環境を整えるには、それなりの費用が必要だった。
そこで現れた救世主――
それが、シェリアである。
女神教に仕える聖女であるシェリアにとって、フェリシアーナは文字通り“崇拝対象”。
彼女は店に通う中で、フェリシアーナの話を嬉々として聞いていた。
そのシェリアが、この問題解決のため、出資を申し出たのだ。
最初は悠真やセリシアたちは断ろうとした。
だが――
「素晴らしいです、シェリアさん! 流石は女神教の聖女。神に対する信仰、いささかも失われていませんね!」
その時ばかりは、見事なまでに“女神”らしく振る舞うフェリシアーナ。
こうなっては、もう二人を止めようがなかった。
やむなくシェリアの出資を受け入れた結果、フェリシアーナと玉藻の部屋には、テレビ、DVDデッキ、そしてゲーム機が揃えられた。
さらに、毎回DVDを借りる出費を抑えるため、玉藻は「サブスク」という概念をフェリシアーナに教える。
――なぜ玉藻がそんな現代知識を知っているのかは、誰にも分からない。
こうして環境は完全に整った。
そして現在。
フェリシアーナは部屋に引きこもり、アニメを観て、ゲームをして、いつの間にか漫画まで読み漁る日々。
完全なる――
引きこもりニートオタク。
かつて異世界に名を轟かせた女神は、今やこの世界で堂々たる“駄女神”として君臨していたのだった。
「まったく……お主が甘やかすからじゃぞ?」
カウンター席でテレビに視線を向けたまま、ルシアは呆れた口調でそう言った。
悠真の方を見ることすらしない。
「う……面目ない……」
悠真は素直に肩を落とす。
自分でも、甘やかしすぎたという自覚はあった。
そのため、ルシアの言葉に言い返すことなどできなかった。
「まぁ、気持ちは分からんでもないがの……」
ルシアは一拍置き、少しだけ声の調子を落とす。
「どれだけ中身が違おうとも、あの娘の姿をしておれば……ついつい甘くなるのは仕方あるまい」
その言葉は、悠真の胸に小さく、しかし確かに刺さった。
「……すみませんでした」
「まぁよい」
ルシアは軽く手を振る。
「金銭面の問題も、シェリアが負担するのであろう?」
「あ、うん……。正直、悪いとは思ってるんだけど……」
「気にするでない」
即座に、ルシアは切って捨てる。
「こちらはあの駄女神の面倒を見ておるのじゃ。それくらいしてもらっても、バチは当たらんじゃろう」
そして、少し意地の悪い笑みを浮かべて続けた。
「それに、どうせあやつの懐が直接痛むわけではあるまい。あの女のことじゃ。“聖女”という立場を使って、教会から引っ張ってくるじゃろうて」
「あー……そう言えば、シェリアさん……それっぽいこと言ってたような……」
悠真は曖昧に苦笑する。
「とはいえじゃ」
ルシアは、テレビからようやく視線を外し、静かに言った。
「あの駄女神を、あのままにしておくのは……
矢島が泣く未来が、容易に想像できるの」
その言葉の意味は、悠真にも痛いほど分かっていた。
中身はフェリシアーナ。
だが、外見は――幼くして亡くした娘・望が成長した姿。
事情を知っている矢島であっても、
その姿の娘が“引きこもりのニート”として日々を過ごしている現実は、
親心として、思うところがあるはずだ。
「……だよね」
悠真は静かに頷き、上の階――
フェリシアーナと玉藻がいる三階へと、視線を向けた。
「何か……きっかけがあればいいんだけど……」
ぽつりと、そう呟く。
「ふふ……でも、それくらいこの生活が気に入っているんじゃないかしら。いつも、とても楽しそうだし」
そう言いながら、セリシアが奥の厨房から戻ってきた。
「お主も……すぐに甘やかそうとする……」
ルシアは面白くなさそうに、むっとした声を出す。
「よく言うわ」
セリシアはくすりと笑い、容赦なく続けた。
「ルシアだって、一緒にゲームして楽しんでいるじゃない。昨日だって、夜遅くまでフェリシアーナ様のお部屋にいたでしょう?」
「う……な、何故それを……!」
思わず言葉に詰まるルシア。
もっとも、否定はできなかった。
最近のルシアは、ちょくちょくフェリシアーナの部屋に顔を出している。
酒瓶を片手に、
そして店内から“拝借”したつまみを持ち込み――
閉店後、夜更けにこっそりと行われる小さな宴。
玉藻という“夜中でも堂々と酒が飲める存在”も加わり、
フェリシアーナと共にゲームに興じながら酒を呑む。
働いている側からすれば、何とも贅沢で、堕落した時間だった。
「知ってるわよ」
セリシアは穏やかな笑みを浮かべたまま言う。
「夜になると、あんなに楽しそうな声が聞こえてくるんだもの」
「う……そ、それより!」
完全に追い詰められたルシアは、慌てて話題を変えようとした。
「悠真、今日の昼は何なんじゃ!?」
唐突すぎる話題転換に、
悠真とセリシアは顔を見合わせ――
そして、そろって苦笑いを浮かべた。
「ははは……えっと、今日はおでんだよ」
「おお! おでんか!」
一気に声を弾ませるルシア。
「おでん……? 最近、コンビニでよく見かける食べ物よね?」
セリシアは首を傾げながら問いかける。
「そうそう。寒い時期に食べると、特に美味しいんだよ。セリシアは……まだ食べたことなかった?」
「ええ。料理としては知っているけれど、実際に食べるのは初めてだわ」
「何じゃ、まだ食べたことがないのか」
「その様子だと……ルシアは?」
「もちろん、あるぞ。とは言っても、最近コンビニに並ぶようになってからじゃがな」
悠真は少し照れたように笑い、鍋に向き直る。
「実はね、毎年この時期には店でおでんを出してたんだ。ただ……最近は色々あって、出すタイミングを逃しててさ」
「そうだったのね」
「それで、常連さんから“今年はおでん、やらないの?”って聞かれてね。だから今、仕込み直してるところなんだ」
セリシアは興味深そうに鍋を覗き込む。
そこには、仕切られた鍋の中に、大根、卵、こんにゃく、はんぺん、すじ肉――
それぞれの具材が、互いの味を邪魔しないよう整然と並べられていた。
ふわり、と立ち上るのは昆布と鰹が溶け込んだ、やさしくも奥深い出汁の香り。
思わず、セリシアの表情がほころぶ。
「……わぁ。とても美味しそう……でも、見たことのないものがたくさんあるわ」
「おでんならではの具材が多いからね」
興味津々で鍋を覗くセリシアの横で、ルシアはすでに“食べる構成”を頭の中で組み立てていた。
「ふふん……やはり大根は外せんのぉ。あとは、はんぺんにこんにゃく……おお、すじ肉もあるではないか!」
期待に満ちた声を上げる。
「こうなってくると……やはり、アレが欲しくなるのぉ♪」
「――熱燗ですね〜♪」
「おお! そうじゃ、そうじゃ!……ん?」
唐突に横から入ってきた声に、ルシアは眉をひそめる。
視線を向けると――
そこには、いつの間にかカウンターの横に立っていた玉藻の姿があった。
「……玉藻。お主、いつの間にそこにおったのじゃ」
「ついさっきです。そろそろ、お昼の時間ですから」
そう言いながら、玉藻はルシアの隣――カウンター席に腰を下ろした。
その言葉を合図にしたかのように階段から、軽い足音が降りてくる。
「はぁ〜……お腹がすきましたぁ……」
間延びした声とともに姿を現したのは、フェリシアーナだった。
ぶかぶかのセーターを一枚羽織っただけ。
下は――何も履いていない。
素肌の白さが、無防備に覗いている。
その姿に、悠真は思わず言葉を失い、セリシアと玉藻は目を見開く。
一方で、ルシアだけはというと――
まるで「またか」と言わんばかりに、特段気に留める様子も見せていなかった。
むしろその表情は驚きよりも、幾度となく同じ光景を見せられてきた者の、半ば諦観にも似た呆れを滲ませている。
「フェ、フェリシアーナ様……その格好は……!?」
「姉様! なんという格好で降りてきているのですか!?」
「あ、あはは……さ、流石にそれは……目のやり場に困るというか……」
悠真は顔を赤らめ、そっと視線を逸らす。
だが当の本人は、そんな周囲の反応などまるで意に介していない。
「えー? この格好、楽でいいのですけど……」
そう言いながら、フェリシアーナはしれっと玉藻とは反対側、ルシアの隣のカウンター席に腰を下ろした。
そして、厨房の中を覗き込むように、興味津々で身を乗り出す。
セーターの裾が、ふわりと揺れ――
白い太ももが、無防備に覗いた。
「わぁ……すごくいい匂いがします! それに、その鍋……不思議ですね。区切られていて……いろんな食材が、きれいに入っていて……」
机に両手をつき、ぐっと体を前に寄せる。
その拍子に、背中側の布地が引っ張られ――
「あ……」
悠真が言葉を発するより早く、
「姉様! ズボンを履いてください!」
「フェリシアーナ……その体勢だと、後ろからパンツが丸見えじゃぞ」
ルシアの指摘通り、セーターを一枚しか身に着けていないため、後ろからは白い下着が、はっきりと見えてしまっていた。
無自覚な色気と、完全なだらしなさ。
厨房に、微妙な沈黙が落ちる。
「私は気にしていませんよ? 別に、パンツの一つや二つ見られても」
そう言って、フェリシアーナは悪びれる様子もなく微笑んだ。
「ですから悠真さんが見ても、構いませんよ?」
――その瞬間、空気が凍りついた。
「え、あ……そ、その……」
悠真は言葉を失い、視線のやり場を探すように泳がせる。
フェリシアーナのゆるく編まれたセーターは肩口から少しずれ、華奢な鎖骨と柔らかな肌が覗いていた。その無防備さが、余計に彼の動揺を煽る。
「だ、だめっ! 悠真は絶対見ちゃだめ!」
セリシアが咄嗟に悠真の前に立ちはだかる。両手を大きく広げ、まるで盾になるかのように必死だ。
「見てないって! 本当に見てないから!」
慌てて否定する悠真の声は、少し裏返っていた。
「……仕方ありませんね」
玉藻は小さく溜息をつくと、くるりと踵を返し、静かな足取りで奥へと引っ込んでいく。どうやらズボンを取りに行くつもりらしい。
だが――当の本人はというと。
「えー、そんなに大騒ぎすることですか?」
フェリシアーナは楽しそうに首を傾げ、セーターの裾を指先でつまむ。その仕草はどこか無邪気で、同時に妙に艶めかしい。
「ほら、ちょっとくらい……」
ほんの一瞬。
白い布地がちらりと覗き、柔らかな太腿のラインが視界の端を掠める。
「フェリシアーナ様っ!!」
セリシアの悲鳴にも似た声が店内に響く。
「いい加減にしてください! 悠真も! 本当に見ないで!」
「見てない! 本当に、誓って見てないから!!」
悠真は半ば泣きそうな顔で叫び、目を閉じる勢いで顔を背けた。
そんな混沌とした光景を横目に、ルシアは肘をつき、深いため息を一つ。
「はぁ……本当にお主は駄女神じゃのー……」
深いため息と共に吐き捨てるように言ったルシアに、フェリシアーナはぴくりと肩を揺らして反応した。
「えー!? ルシアさん、駄女神って言い方は酷くないですか!?」
むっと頬を膨らませるその仕草は、拗ねた少女のようでもあり、妙に艶っぽくもある。
「どこからどう見てもそうじゃろうが。引きこもりニートの上に、そのだらしない格好……痴態を晒す女神なんぞ、駄女神以外の何者でもないわ」
(まぁ、言い方はきついけど……ルシアの言うことにも一理あるんだよな)
そう思いながら、悠真は普段のフェリシアーナの姿を思い浮かべる。
甘やかしてしまった手前、自分にも責任があることは分かっている。だが、彼女の私生活は、誰がどう見てもだらけきっていた。
それに加えて、あの無自覚さだ。
あんな格好で人前に出ることを、しかも男性がいる場でもまったく気にしない。悠真からすれば、正直頭が痛くなる問題だった。
いくら女神とはいえ、今の姿はせいぜい高校生ほど。
幼少期の望の面影を残しながらも、はっきりとした美少女の容姿をしている。
そのことを自覚しているからこそ、悠真は意識的に理性を働かせ、気にしないよう努めている。
だが――それでも、男である以上、まったく何も感じずにいられるほど、聖人ではなかった。
「う……た、確かに引きこもりニートなのは認めます。でも! 痴態なんて晒してませんよ!」
フェリシアーナは胸の前で腕を組み、むむっと頬を膨らませて抗議する。
その動きに合わせ、ゆったりとしたセーターが揺れ、白い肌がちらりと覗いた。
(う……見てない。俺は何も見てない……!)
悠真は必死に心の中で否定するが、そんな彼の葛藤など知る由もないフェリシアーナは止まらない。
「あの……その、服装自体が問題なのでは……」
セリシアが控えめに、しかし的確に指摘した。
(そうだよ! セリシア、そこ! もっと言って!)
悠真の心の叫びが木霊する。
「そうじゃ。その変な格好で何を言うとるんじゃ」
容赦のないルシアの追撃が入る。
「へ、変な格好じゃありません!」
そう言うなり、フェリシアーナは勢いよく席を立ち、まるで悠真に見せつけるかのように数歩離れた位置へ移動する。
そこは、厨房の中からでも全身がはっきり見える場所だった。
「ほら、見てください! どこが変なんですか! ほら、悠真さんも見てください! 変じゃないでしょ!?」
フェリシアーナはそう言って、セーターの裾を両手で摘み上げる。
引っ張られた分、裾は持ち上がり――下に穿いているパンツが、無防備に露わになった。
「え!? ちょ、待って! しかも俺!?」
(やめて! 俺を巻き込まないで! それに裾を上げないでくれ!)
「悠真、見たらダメ!」
咄嗟にセリシアが悠真の目を覆い、強制的に視界を遮る。
「え、ちょっ!? せ、セリシア!?」
予想外の行動に、悠真はさらに動揺する。
「ほれ見ろ! パンツを晒しとるじゃろうが!」
ルシアが即座に指摘する。
「晒しているんじゃありません!」
フェリシアーナは一歩前に出て、なぜか胸を張った。
「堂々と、見せているんです!」
――一瞬の沈黙。
「そっちの方が余計ダメじゃろうが!!」
「そっちの方が余計ダメです!!」
ルシアとセリシアの声が、完璧に重なった鋭いツッコミが炸裂する。
「えぇ〜……?」
納得がいかないと言わんばかりに首を傾げるフェリシアーナ。
その無自覚な仕草が、余計に色気を帯びているのが、また厄介だった。
その一連のやり取りを、セリシアに目を覆われたまま、悠真はただ気まずそうに立ち尽くすことしかできない。
(……本当に、勘弁してほしい……)
心の中でそう呟きながら、彼はひたすら嵐が過ぎ去るのを待つのだった。




