番外編1 初めての温泉旅行
これは、セリシアとルシアが異世界から地球へとやって来て、まだ間もない頃の話。
⸻
「オンセン……ですか?」
開店前の静かな居酒屋えにし屋。
まだ客の入らない店内に、その言葉だけが、少し浮いた響きで落ちた。
聞き慣れない響きに、セリシアはきょとんと目を瞬かせ、首をわずかに傾げる。
「うん。温泉っていうのは、地下から自然に湧き出てくるお湯を使ったお風呂なんだけどさ……」
その話に反応する、一つの気配があった。
それはカウンター席に座っているルシアだった。
「ほう……オンセン、か。それはまた、実に珍しい文化じゃな」
ルシアは顎に手を当て、興味深そうに目を細める。
(せっかく異世界から来たんだ。地球の……それも、日本ならではの文化を体験してもらうなら――やっぱり温泉だよな)
セリシアとルシアがこの世界に来てからというもの、二人の好奇心は尽きることがなかった。
目に映るものすべてが新鮮で、価値観や常識も、異世界とは大きく異なる。
だからこそ、彼女たちがこの文明に驚き、目を輝かせるのは自然なことだった。
悠真は、少しでも早くこの世界に慣れてもらおうと、休みの日や店の開店前の時間を使って、街を案内し、身近な施設の使い方を一つひとつ教えてきた。
そんな日々の中で、ふと思ったのだ。
――普段の生活では味わえない、“特別な体験”をさせてあげたい、と。
そこで思い浮かんだのが、温泉だった。
ただ湯に浸かるだけではない。一泊二日で旅館に泊まる、小さな温泉旅行。
この世界ならではの空気や時間を、慌ただしさから少し離れて、ゆっくりと味わってもらえたら。
そんなささやかな願いを胸に、悠真はこっそりと計画を進めていたのだ。
――そんなことを考えていると。
不意に、セリシアが一歩、前に出てきた。
「悠真! 私、その“オンセン”、とても気になります!」
弾んだ声に、悠真は思わず頬を緩めた。
セリシアの瞳に宿る好奇心は、この世界に来たあの日から変わらない。
初めて触れる文化や言葉、そのすべてを真っ直ぐに受け止め、楽しもうとする――
そんな輝きが、今もなお彼女の目には、はっきりと映っていた。
「良かった。興味を持ってくれて。一応ね、内緒で一泊二日の温泉旅行を計画してたんだ。驚かせたくてさ」
そして、少しだけ楽しげに続ける。
「しかも泊まるのは旅館だから――美味しい料理もあるし、お酒だって楽しめるよ」
「な、何じゃと!? 料理と酒もあるのか!?」
その一言に、ルシアが勢いよく食いついた。
魔王ルシアは、この世界の料理と酒にとにかく目がなかった。
店の開店時間には当然のように酒を嗜み、それ以外の時間でも商店街をふらふらと巡っては買い食い、飲み歩き。珍しそうな飲食店を見つけては、まるで何かに導かれるかのように吸い込まれていく。
当初、悠真も「せっかく異世界から来たのだから、いろいろ味わってほしい」と思っていた。
だが――現実は甘くなかった。
食費という名の、あまりにも現実的な問題が、容赦なく家計を圧迫し始めたのだ。
さすがに無制限で食べさせ、飲ませ続けるわけにもいかず、やむなく制限を設けることになったのだが。
「なんじゃと!? 我は魔王じゃぞ!?」
当然のごとく、ルシアからは猛反発の声が上がった。
しかし、その反論をぴしゃりと封じたのは、セリシアだった。
「いい加減にしてください! 最初と話が違うじゃないですか!? 初めにも言いましたが、このお店にいる以上、ただで食べたり飲んだりはできません!」
至極真っ当な意見だった。
セリシアはこの世界に来てから、悠真の元で世話になる代わりに、きちんと店を手伝っている。
一方でルシアは――当時、“バーテンダー”という立派な肩書きをもらっていながら、実際にはほとんど何もしていなかった。
最初のうちは「我が盛り上げてやろうぞ」と意気込んでいたものの、現実は一人で飲んで、食べて、寝る。そんな生活の繰り返しだったのだ。
その差はあまりにも明白で、セリシアの言葉は圧倒的な説得力をもって魔王を黙らせた。
――「魔王が勇者に説教される」。
そんな奇妙な光景は、今でも悠真の記憶に強く残っている。
それからしばらくして、ルシアはようやく“バーテンダー”として働き始めたのだが――結果は予想外だった。
酒を片手に客と絡み、冗談を飛ばし、時にはからみ酒のような接客をするその姿が、妙にウケたのだ。
バーテンというより接客係に近い振る舞いだったが、気づけばリピーターは増え、ルシアはセリシアに続く「二人目の看板娘」として、すっかり店の名物になっていた。
そんな経緯もあり――。
(ルシアは食べて飲むのが好きだからな。この旅行で、思う存分楽しんでもらえたらいいな)
悠真は内心そう思いながら、口にする。
「あ、うん……その土地ならではの郷土料理も出るし、普段とは違うお酒も楽しめると思うよ」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアが勢いよく立ち上がった。
「よし! 決まりじゃ! 行くぞ悠真! 今すぐ出発じゃ!」
まだ見ぬ土地と料理、そして酒――
その期待に満ちた瞳は、すでに旅路の先を映しているかのように輝いていた。
「ちょ、待って! 行くのは次の休みの日だから!」
悠真は慌てて声を上げ、今にも店を飛び出しかねないルシアを引き止める。
「何じゃ……それなら最初からそう言えばよかろう」
自分の早合点だと分かっていながら、ルシアは悪びれもせず、しれっと悠真のせいにする。
「言おうとしたら、ルシアが人の話を聞かなかったんだろ」
そんな二人のやり取りを、セリシアはどこか微笑ましそうに、穏やかな眼差しで見守っていた。
胸の奥では、「オンセン」という響きが、静かに期待を膨らませていることにも気づきながら。
「ふふ……オンセン、ですか」
そう呟いた後、少しだけ声を弾ませて続ける。
「次の休みが……とても楽しみですね」
⸻
温泉旅行当日。
悠真たちは最寄り駅前でレンタカーを借り、東京を後にした。
目指すのは――静岡県伊豆市、修善寺温泉にある旅館。
「にしても……車か……本当に面妖な乗り物じゃのぉ」
後部座席に座るルシアは、きょろきょろと落ち着かない様子で車内を見回している。
座席、カーナビ、計器類――どれもが珍しくて仕方がないらしい。
「本当にそうですよね。車自体は見慣れてはきましたが……乗るのは初めてです。中は、こんな感じなんですね」
助手席のセリシアもまた、シートの感触や窓の外を交互に眺めながら、感心したように息を吐く。
「まぁ、車のない世界から来たら、そう思うよな」
悠真は前方の道路に目を向けたまま、苦笑混じりに答えた。
「車だけではなわい……この世界には実に様々な乗り物がある。特にのぉ……」
ルシアは窓の外、空を見上げる。
ちょうどその時、頭上を一機の飛行機が横切っていった。
「空を飛ぶ乗り物じゃ。あれを初めて見た時は、心底ぶったまげたわい。魔法も使わず、人が空を飛ぶなど想像もつかん……しかも一人や二人ではない。何百人も乗せて、じゃ」
「はい……私もです」
セリシアもまた、遠ざかっていく飛行機を見つめながら、静かに頷いた。
「文明も、常識も……私たちの世界とは、まるで違いますね。改めて驚かされます」
「俺からしたら、魔法が使える時点で十分に非常識なんだけど」
苦笑混じりに返す悠真に、ルシアが腕を組んで頷く。
「ふむ……やはり、文明の異なる者同士では、常識も噛み合わぬものじゃな」
その言葉に、悠真とセリシアはふと同じことを思う。
異なる世界から来た者たち。本来なら出会うはずのなかった存在同士が、こうして同じ場所に並んでいる。
それが幸運なのか、不運なのか――今はまだ分からない。
だが、この奇跡のような出会いには、きっと何か意味がある。
そう思えてならなかった。
考え方も常識も違う。それでも今は、互いを認め合うように同じ時間を過ごしている。
この日々がいつまで続くのかは分からない。
それでも――少しでも長く続いてほしい。
二人は、胸の奥で静かにそう願っていた。
そして、たわいない会話を交わしながら、車は高速道路を順調に走っていく。
街並みは次第に後方へと遠ざかり、やがて視界には、連なる山々が広がり始めていた。
「あ、そうだ」
悠真が思い出したように口を開く。
「途中、休憩でサービスエリアとかパーキングエリアに寄るから。トイレとかは、そこで済ませよう」
「サービスエリア……?」
セリシアとルシアが同時に首を傾げる。
「休憩所だよ。今走ってるのは高速道路って言って、普通の道と違って簡単に降りられないんだ。
だから、そういう場所で皆休憩したりするんだ」
「なるほど……」
「それに、サービスエリアではその土地の食べ物とかも食べられる。寄るだけでも結構楽しい」
「なに……飯もあるのか!?」
その一言に、ルシアの目が分かりやすく輝いた。
「それなら寄らん手はないのぉ!」
「はい……私も少し気になります」
こうして悠真たちは、道中のサービスエリアで休憩を挟みながら、山深い修善寺温泉へと車を走らせていくのだった。
しばらくして分岐を過ぎると、周囲の景色は少しずつ変わり始めた。
建物は徐々に姿を消し、代わりに広がるのは緑濃い山々。
道は緩やかにうねり、視界の先には木々が連なっている。
「……景色が、随分と変わりましたね」
セリシアが窓の外を見つめながら、静かに呟く。
「ああ。この辺りから伊豆だな。もうすぐ高速も降りる」
悠真の言葉通り、やがて車は高速道路を降り、一般道へと入った。
道幅は少し狭くなり、車の速度も自然と落ちていく。
「ほう……これはまた、随分と静かな道じゃな」
ルシアは興味深そうに、流れる景色を目で追っている。
「山が近い……空気も、さっきより澄んでいる気がします」
「温泉地って、だいたい山の中にあるからな。修善寺もそんな感じだ」
川沿いの道へ入ると、せせらぎの音が窓越しにかすかに届いてきた。
行き交う車は観光客らしきものがちらほら見える程度で、都会の喧騒とはまるで別世界だ。
「……この辺り、どこか懐かしい感じがします」
セリシアの声には、不思議と柔らかな郷愁が滲んでいた。
「そうなの?」
「はい。森と川が近くて……私たちの世界の村に、少し似ています」
その言葉に、ルシアも静かに頷く。
「確かにの。文明は違えど、自然そのものはそう変わらんのかもしれん」
ルシアは窓の外へ視線を向け、かつて自分がいた世界の景色を重ねるような眼差しで、穏やかに言葉を続けた。
やがて道沿いに「修善寺温泉」の案内板が現れ、車はさらに奥へと進んでいく。
石造りの橋、古風な建物、温泉街らしい落ち着いた街並み。
「おお……」
ルシアが思わず声を漏らす。
「急に雰囲気が変わったな。まるで、別の世界に入ったみたいじゃ」
「オンセンガイですか……こんな感じなんですね……」
セリシアは目を輝かせ、周囲を見渡している。
細い坂道を登り、木々に囲まれた道の先――
やがて一軒の旅館が姿を現した。
瓦屋根に木造の門。
派手さはないが、どこか落ち着きのある佇まい。
「着いた。ここが今日泊まる旅館だ」
車を停めると、エンジン音が止み、辺りは一気に静けさに包まれる。
「……ここが」
セリシアは車を降り、深く息を吸い込む。
「空気が、すごく気持ちいいです」
「ふむ……悪くないの。いや、かなり良い」
ルシアは満足そうに頷きながら、旅館を見上げた。
「では……いよいよ“温泉”というやつか」
「ああ。まずはチェックインして、それからゆっくりしよう」
こうして悠真たちは、
静かな山あいの修善寺温泉での一泊二日を迎えるのだった。
悠真たちはチェックインを済ませ、中居に案内されて館内を進んでいった。
廊下は畳敷きで、歩くたびに足裏にやわらかな感触が伝わってくる。
ほのかに漂う木と温泉の匂いが、旅の疲れを静かにほどいていった。
「こちらのお部屋になります」
襖が開かれると、そこには落ち着いた和室が広がっていた。
広めの畳、低い机、床の間には控えめな生け花。
大きな窓の向こうには緑が見え、外の川の音がかすかに聞こえる。
中居から簡単な説明を受け、襖が閉まると――
「わぁ……!」
セリシアが思わず声を上げた。
「悠真、見てください! 部屋に……お風呂があります!」
障子の奥にある扉を開けると、そこには木造りの浴槽。
窓の外には緑が広がり、湯気の立つ湯船からは温泉特有の香りが漂っている。
「源泉かけ流し、ってやつだよ。湯を循環させずに、そのまま流してる」
「……ずっと新しいお湯が出ているんですね。すごいです……」
一方その頃――
「ん? 何じゃこれは?」
ルシアは机の上に置かれた小さな包みを手に取ると、迷いなく饅頭をひょいと口に放り込んだ。
「……うむ。甘い」
一拍置いて、満面の笑み。
「美味い!」
「ちょ、ルシア、それはあとでお茶と一緒に――」
「知らん。美味いものは美味いのじゃ」
そんな二人の様子を眺めながら、悠真は内心で思う。
――連れて来て、正解だったな。
その思いは確かだった。
だが同時に、どうしても伝えなければならないことが、胸の奥に重くのしかかっていた。
今回泊まる宿は、伊豆・修善寺の旅館。
しかも温泉付きの部屋ともなれば、料金はそれなりに張る。
本来なら男女での旅行なのだから、部屋は二つ取るべきところだった。
だが現実は――予算オーバー。
結果、取れたのは一部屋だけ。
その事実が、今回の旅行で唯一の心残りだった。
どう伝えるべきか。
考えても答えは一つしかない。
正直に話すしかなかった。
「……あのさ、二人とも。ちょっといいかな」
「どうしたんですか?」
「なんじゃ、急に改まって」
どこか歯切れの悪い悠真に、二人は不思議そうに首を傾げる。
「実は……予算の都合で、部屋を一部屋しか取れなくて……」
「そうなんですか?」
「それがどうしたのじゃ?」
「いや、つまり……女性二人の部屋に、男の俺も泊まることになるから……」
一瞬の沈黙。
だが、次の瞬間――
「なんじゃ、そんなことを気にしとったんかの」
ルシアは拍子抜けしたように、あっけらかんと笑った。
「ふふ……私は、別に構いませんよ?」
セリシアもまた、特に気に留める様子もなく、穏やかな笑みを浮かべてそう答えた。
「え、いや……そう言ってもらえるのはありがたいけど……」
悠真は慌てて続ける。
「もちろん、部屋も二つあるから寝る場所は別にするし! それに俺は部屋のお風呂は使わないから。大浴場の方を使うし……!」
「ダイヨクジョウ?」
「何じゃそれは?」
「あ、えっと……大勢で入る共同のお風呂だよ」
悠真は少し考えてから、正直に打ち明けた。
「今回、この部屋を取ったのは……二人に、ゆっくり温泉を楽しんでほしかったからなんだ。セリシアもルシアも、大人数で一緒に入るお風呂の文化って、ないよな?」
「……そうですね。正直、少し抵抗はあります」
「我も、そういう経験はないの」
「だよな。だから……文化も違うし、気を遣うと思って。入る時の細かいルールもあるし、俺が一緒に入って教えるわけにもいかないし……」
悠真は照れくさそうに視線を逸らしながら続ける。
「だから、部屋に温泉が付いてるところを選んだ。
二人には、ここで気兼ねなく入ってほしいんだ」
セリシアは一瞬驚いたように目を見開き、やがて柔らかく微笑んだ。
「悠真……ありがとうございます。そこまで考えてくれて」
「うむ。なかなか気の利く男ではないか」
ルシアも腕を組み、素直な調子で頷く。
「礼を言おう。感謝するぞ、悠真」
自分たちのことをここまで考えてくれていた。その事実に驚きつつも、二人はまっすぐに感謝の言葉を口にした。
悠真にとっても、この温泉旅行が二人にとって少しでも良い思い出になってくれれば――それだけで十分だった。
「温泉が気に入ってもらえるなら、何よりだよ」
そう言って笑う悠真の表情は、どこか肩の力が抜けたような、安堵の色を帯びていた。
「あ、そうだ。旅館にいるなら、これに着替えた方が楽かな」
そう言って、悠真は二人に服を差し出す。
「……この服は……? 見たことがないものですが……」
初めて目にする服に、セリシアは不思議そうに首を傾げる。
その隣で、ルシアもまた同じように手に取って眺め、興味深そうな表情を浮かべていた。
「これは“作務衣”っていう服でね。旅館の部屋着みたいなものかな。本当なら浴衣が一般的なんだけど、セリシアたちはこっちの方が動きやすいと思って、事前に用意してもらってたんだ」
「そうなんですか? “ユカタ”というものはよく分かりませんが……。“サムエ”……ですね。本当にありがとうございます、悠真!」
「まったく……本当に気がきく奴じゃの。我の嫁にしたいくらいじゃ」
「よ、嫁って……」
悠真は思わず苦笑いを浮かべた。
⸻
木造りの浴槽へ、白くしなやかな指先がそっと伸ばされる。
湯面に触れた瞬間、微かな湯気とともに熱が伝わった。
「あ……暖かい……」
セリシアは小さく息を吐き、意を決したように露天の湯船へ身を沈める。
肩まで湯に包まれた途端、思わず力が抜けた。
「あぁ……気持ちいい……」
思わず零れた吐息とともに、セリシアは力の抜けた表情のまま視線を外へ向けた。
目の前には瑞々しい緑がどこまでも広がり、風に揺れる木々がさらさらと穏やかな音を奏でている。その自然の気配が、湯の温もりと相まって心地よく身体を包み込んでいた。
「景色を眺めながらお風呂に入るなんて……本当に、贅沢ね……」
初めて浸かる温泉。
しかも外気に触れながら湯を楽しむという、これまで経験したことのない非日常の空間は、セリシアの身体だけでなく、張り詰めていた心までもゆっくりと解きほぐしていく。
彼女の故郷――ラグノスでは、清めといえば水浴びや簡素な湯浴みが主であり、風呂という文化そのものが、貴族や王族といった限られた上流階級だけのものだった。
この世界へ来たばかりの頃、悠真の家に当然のように風呂が備えられていたことに、ひどく驚いた自分をふと思い出す。
それが今では、温泉、しかも露天風呂。
かつて想像すらしなかった贅沢が、こうして現実となってセリシアを包み込み、胸の奥に小さな高揚感を灯していた。
そんな至福のひととき――
「おぉ……これは、なかなか良いのぉ」
聞き慣れた、そして少し尊大な声が湯気の向こうから響く。
「ル、ルシア!?」
セリシアは思わず声を上げ、はっと振り返った。
そこには、いつの間にか湯船の縁に立つルシアの姿があった。
「よっと……」
驚きで固まるセリシアなど意にも介さず、ルシアは悠然と湯へと身を沈める。
湯が静かに波立ち、ふわりと白い湯気が立ち上った。
「な、何で入って来たんですか……!?」
「いや〜、待ちきれなくての〜」
詫びる様子もなく、むしろ楽しげに、そしてからかうような調子でルシアは答える。
「ま、待ちきれないって……!?」
突然の乱入に戸惑うセリシア。だがそんな彼女を置き去りにするように、ルシアの視線はある一点へと向けられていた。
「ん〜? お主?」
そう言いながら、ルシアはずいっと距離を詰める。
「な、何ですか……?」
近づいてくる気配に、セリシアは思わず身を強張らせる。
その表情からして、嫌な予感しかしなかった。
「こちらの世界に来て思ったのじゃが……お主、なかなか良い体をしとるの」
あまりにも唐突な言葉に、セリシアは言葉を失う。
次の瞬間、頬に熱が集まり、顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
「なっ!? きゅ、急に何を言って……!?」
「向こうでは鎧姿ばかりで分からなんだが……こうして見ると、余計にな。うむ……」
勇者として戦っていた頃のセリシアの姿が、ルシアの脳裏をよぎる。
そして――
迷いも躊躇もなく、ルシアは両手を伸ばした。
むにゅり、とセリシアの胸を掴んだ。
「……っ!!」
声にならない悲鳴を上げるセリシア。
だがそんなことはお構いなしに、ルシアは満足そうに揉み続ける。
「やはり若いからか、張りも弾力も申し分なし……ふむ。これは世の男からすれば、もはや“兵器”じゃな」
セリシアの思考が、ようやく現状を捉え始める。
(え……? あ……? 今、何を――)
「え……あ……ちょっ……い、いや……!?」
理解が進むにつれて、羞恥が一気に込み上げる。
同時に、好き放題するルシアへの反抗心も限界に達していった。
「い、い、い、いつまで揉んでるんですか!?」
――ゴンッ!!
乾いた音とともに、ルシアの頭に拳骨が落ちる。
「あいたっ!」
頭を押さえ、ルシアが不満そうに唸る。
「何じゃ……女同士なのじゃぞ?」
「女同士でも、駄目です!」
「仕方ないの。なら我の方も触って――」
「結構です!」
ぷいっと顔を背け、セリシアは顔を赤くしたまま、肩まで湯に沈む。
まるで拗ねた子供のように。
しばし、湯の音だけが流れる沈黙。
「……しかし、あれじゃの」
「……?」
そっと視線を向けると、ルシアは湯に浸かったまま、どこか遠くを見る目をしていた。
「ついこの前まで、剣を向け合っておったお主と……
こうして裸で同じ湯に浸かる日が来るとは、思わなんだ」
その言葉に、セリシアはゆっくりと頷く。
「……私もです。貴女と、こんな時間を過ごすことになるなんて……」
「悠真に感謝せねばならんの。あやつがいなければ、こうはならなかったじゃろう」
「はい……悠真のお陰で、私たちはこの世界で暮らしています。そして……貴女とも、こうして」
セリシアの言葉は、そこで静かに途切れた。
それ以上語らずとも、想いは十分に伝わっている。
悠真が用意してくれた時間。
自分たちの居場所。
そして、こうして心を通わせることのできる、穏やかなひととき。
彼がどれほど自分たちのことを思い、気遣ってくれているのか――
その優しさは、言葉ではなく、温泉の湯の温もりとなって、二人の身体にじんわりと染み渡っていく。
ただ湯のぬくもりと、静かな時間だけが、そっと二人を包み込んでいた。
⸻
「おお〜っ……これは……!?」
ルシアは、目の前の卓に並べられた料理を見た瞬間、目を輝かせた。
黒塗りの膳の上には、小鉢、焼き物、刺身、鍋――
一品一品が丁寧に配置されている。
「すごい……」
セリシアも思わず息を呑んだ。
「料理が、こんなに綺麗に盛り付けられて……食べるのが勿体ないですね」
季節の山菜を使った前菜。
駿河湾で獲れた地魚の刺身。
艶やかに煮付けられた金目鯛。
そして、小鍋には伊豆名物の天城軍鶏を使った料理が、湯気を立てている。
一方で――
「……なるほど」
悠真は箸を取る前に、料理をじっと見つめていた。
「こっちは地魚を活かした味か……。この鍋、出汁が強すぎないのは素材を立てるためだな。……この山葵、香りが全然違う」
「お主、折角の料理が来たというのに……」
ルシアが呆れたように言う。
「あ、ごめん。つい……どんな風に作られてるのか気になっちゃってさ」
悠真は苦笑しながら答えた。
普段は料理を“出す側”の人間だ。だからこそ、他の料理人が手掛けた一品を見ると、どうしても目が行ってしまう。
居酒屋と旅館では趣は違えど、同じ日本料理。
そこに学べるものがないはずがなく、自然と観察してしまうのは、もはや職業病のようなものだった。
「ふふ」
そんな悠真の様子を見て、セリシアが小さく笑みをこぼす。
「やはり……料理人としての腕が、うずいてしまうのですね?」
その言葉に、悠真は少し照れたように視線を逸らしながら、
「……まぁね」
と短く答えた。
そうして箸を手に取り、いよいよ料理へと向き合うのだった。
「それじゃ、早速いただこうか」
「酒じゃ、酒〜!」
「はい! いただきましょう!」
盃が並び、箸が進む。
「……っ! この魚、甘い……!」
「山菜なのに、苦味がきつくありません……」
「この金目鯛というのか?煮方が絶妙じゃ……!」
次々と運ばれてくる料理に、皆は自然と舌鼓を打った。
彩り豊かな器が卓に並ぶたび、香りと湯気が食欲をそそる。
セリシアはまだ二十歳になっていない為酒を口にすることはできないが、悠真の勧めでここの地元のジュースを手に取る。
一方、悠真とルシアはそれぞれビールや日本酒を嗜みながら、料理との相性を楽しんでいた。
料理と酒が進むにつれ、会話も弾む。
新しい一品が運ばれてくるたびに、悠真もセリシアも、そしてルシアも目を輝かせ、思わず感嘆の声を漏らす。
同じ卓を囲み、同じ料理を分かち合う――
その何気ない時間こそが、この温泉旅館で過ごすひとときの中でも、最も満ち足りた瞬間だった。
そして、気がつけば。
卓の上には、ほとんど空になった器だけが残っていた。
「うぃ〜……」
ルシアは顔を真っ赤にし、畳の上に大の字で倒れ込む。
「もう……飲めん……食べれん……」
「ふふ、本当にたくさん召し上がっていましたね」
セリシアは、胸の奥まで満たされたように、ゆっくりと息を吐いた。
「……どれも、本当に美味しかったです。こんな料理、初めてでした」
その声には飾り気はなく、ただ純粋に料理を楽しみ、味わい尽くしたという確かな実感が滲んでいた。
「そう言ってもらえて、良かったよ」
悠真はそう答えながら、ほとんど空になった皿の並ぶ卓を見渡す。
二人が満足してくれたことを確かめるように、その表情には自然と安堵の笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、この後は――」
悠真は、どこか企んだような笑みを浮かべながら、セリシアたちを見渡した。
「え、まだ何か料理が出てくるんですか?」
その言葉に、セリシアは思わず身を乗り出す。料理の余韻が残っていたせいか、次があるものだとすっかり思い込んだ様子だった。
そんなセリシアを見て、悠真は可笑しそうに笑いながら首を振る。
「あはは、違う違う」
そう言って立ち上がると、少しだけもったいぶるように続けた。
「旅館に来たらさ、定番の“お楽しみ”があるんだ」
「定番……ですか?」
「食後の運動」
そして、少し得意げに――
悠真は短く告げた。
「卓球さ」
「……タッキュウ?」
「何じゃ、それは……?」
聞き慣れない言葉に、セリシアとルシアは揃って首を傾げる。意味は分からない。だが、悠真がわざわざこんな言い方をする以上、きっと面白いことに違いない――そんな期待だけが、自然と胸を高鳴らせていた。
「まあ、やってみれば分かるよ」
そう言って笑う悠真に導かれ、二人は立ち上がる。
こうして、
修善寺温泉の夜は、まだまだ賑やかに続いていくのだった。
⸻
悠真たちは、旅館の一角にある娯楽室へと足を運んでいた。
畳敷きの部屋に設えられた、どこか年季の入った卓球台。その上には白いネットが張られ、ラケットと球が無造作に置かれている。
「これが、その……タッキュウ、ですか?」
セリシアは首をかしげながら、見慣れぬ卓球台をじっと見つめる。
「うん。こういう台の上で、この球を打ち合うんだ」
悠真はラケットを手に取り、軽く振ってみせた。
「球を……打ち合う、とな?」
ルシアは半眼で球をつまみ上げ、いまいち想像できていない様子だ。
「ほら、ちょうどあっちでやってるよ」
悠真が指差した先では、小さな子供とその父親らしき二人が、楽しそうに卓球をしていた。
「なるほど……あのように、互いに球を返し合うのですね」
セリシアは頷きながら、その動きを真剣に観察する。
「まぁ、百聞は一見にしかずだ。とりあえず、やってみようか」
こうして、セリシアとルシアにとって初めての卓球が始まった。
悠真はラケットの持ち方、基本的なルール、軽く当てる感覚を一つひとつ説明していく。
最初のうちは二人ともぎこちなく、球はあらぬ方向へ飛んでいったが――。
「……ほほう?」
「……なるほど」
数分も経たないうちに、状況は一変した。
「これは単純と思いきや……中々、奥が深いのう♪」
ルシアは楽しそうに口角を上げる。
「はい! このタッキュウ……反射神経を鍛える訓練に最適かもしれません!」
セリシアも目を輝かせながら、軽やかに球を返す。
――カン、カン、カンッ!
音が変わった。
もはや“軽く打ち合う”という域ではない。
勇者と魔王、元々の身体能力が桁違いな二人のラリーは、瞬く間に高速化していく。
(いや……ちょっと待って……)
悠真は苦笑しながら、その光景を眺めていた。
「はは……な、なんか凄いことになってるな……」
当然、近くで卓球をしていた親子も異変に気づく。
「ねぇ、パパ……あのお姉ちゃんたち、プロの選手なの?」
「……あ、ああ。そうなのかもな……」
父親の顔は、明らかに引き攣っていた。
「ふははは! どうじゃセリシア! ここは一つ、賭けをせんか!?」
ルシアが楽しげに言う。
「賭け……ですか?」
「負けた方が、ジュースを奢るというのはどうじゃ?」
「いいでしょう。その賭け、受けて立ちます!」
そんな会話を交わしながらも、ラリーは止まらない。
いや、むしろ――さらに速度が上がった。
「え、えっと……二人とも……もう少し手加減を……」
悠真の声は、もはや届かない。
「行くぞっ!」
ルシアが放った渾身のスマッシュ。
「くっ……!」
セリシアは辛うじて返すが、球は高く浮いてしまう。
(しまった――!)
「もらったのじゃ!」
再び、ルシアのスマッシュが炸裂する。
(まだです!)
セリシアも即座に反応し、全力で打ち返す。
――だが。
球は卓球台の角に当たり、予想外の方向へと弾かれた。
次の瞬間。
「――あがっ!?」
乾いた音と共に、球は一直線に飛び、悠真の額にクリーンヒットした。
高速で放たれた球の衝撃は想像以上で、悠真はその場に崩れ落ちる。
「あっ」
「おっ」
二人の視線は、飛んでいった球から、倒れ込んだ悠真へと移る。
そして、互いに顔を見合わせ――。
「……」
「……」
長い沈黙。
その沈黙を破ったのは、近くで見ていた子供の素朴な一言だった。
「ねぇ、パパ……あのお兄ちゃん、死んじゃったの?」
「ああ……そうだな……」
父親はそう答えつつ、豪速球を真正面から受け止めた悠真へ、深い――実に深い憐れみの視線を向けていた。
⸻
「……う……うぅ……」
閉じていた悠真の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「あ、良かった……。大丈夫ですか?」
その声に反応して、悠真はぼんやりと視線を動かした。
「あ……セリシア……?」
視界いっぱいに映るのは、心配そうに自分を覗き込むセリシアの顔だった。
「えっと……確か……球が、額に……」
そこまで思い出したところで、悠真は違和感に気づく。
(……この、頭の後ろの感触……ま、まさか……!?)
悠真の頭は、セリシアの柔らかな腿の上に乗せられていた。
「おでこ……大丈夫ですか?」
そう言いながら、セリシアの手が悠真の額にそっと触れる。
ひんやりとした感触が心地よく、思わず意識が遠のきそうになる。
「だ、大丈夫!」
慌てて起き上がろうとする悠真だったが――
「まだ……もう少し、横になっていて下さい」
やさしく制され、再び頭はセリシアの太ももへ戻されてしまう。
「すみません……私たち、少しはしゃぎすぎてしまって……」
セリシアは申し訳なさそうに視線を落とす。
「あー……うん。大丈夫だよ」
悠真は苦笑しながら答えた。
「二人が楽しんでくれたなら、それで十分だからさ」
「おお、ようやく目を覚ましたか」
声のした方へ、悠真はゆっくりと視線だけを向ける。そこには、腕を組んだまま心配そうに覗き込むルシアの姿があった。
「すまんかったの。少し……いや、だいぶ、はしゃぎすぎたようじゃ」
そう言って、ルシアは珍しく気まずそうに頭を掻く。
「調子はどうじゃ?」
「ああ……大丈夫……多分」
力の抜けた返事に、セリシアは再び心配そうに悠真の顔を覗き込む。
「では、もう少し休憩してから、部屋に戻りましょう」
穏やかだが、気遣いのこもった声だった。
「そうじゃな。その方がよかろう」
ルシアも頷く。
「もう夜も遅いしの」
ルシアの言葉どおり、壁の時計の針はすでに夜の十一時を回ろうとしていた。先ほどまであれほど白熱していた戦い――卓球勝負は、悠真の思わぬ負傷という形で、静かに幕を下ろしたのだった。
その後、しばらく休憩を取ったあと、悠真たちは部屋へと戻って来た。
「それでは……おやすみなさい」
「ではの」
「おやすみ、二人とも」
二人はそう言って、悠真とは別の部屋へと入っていく。
こうして、旅の一日目は静かに幕を下ろした。
――布団の中。
(ふぅ……色々あったけど、楽しんでもらえたかな……少しでも、この世界の文化に馴染んでくれたならいいけど)
どこまでも二人のことを気にかけながら、悠真はゆっくりと目を閉じる。
(今日は……本当に楽しい一日でした。悠真には、感謝してもしきれませんね……)
セリシアは、穏やかな気持ちで一日を振り返っていた。
(さて……明日の朝飯は何じゃろうな……。……はっ! 朝から酒は……飲めるのじゃろうか!?)
ルシアはルシアで、別の意味で翌朝を案じていた。
それぞれの想いを胸に抱きながら、
静かな夜は、旅館の屋根の上でゆっくりと更けていく――。
⸻
「いや〜、朝食も実に美味だったの〜♪」
後部座席でご機嫌に身体を揺らしながら、ルシアが満足げに声を上げる。
「魚も良し、飯も良し……朝からあれほど腹を満たせるとは、実に恐ろしい場所じゃ」
「ただ……」
と、少しだけ不満そうに続ける。
「朝から酒が飲めんのは、やはり少し残念だったの」
「当然です!」
助手席のセリシアが即座に振り返り、きっぱりと言い放つ。
「朝からお酒を飲もうだなんて、いったい何を考えているんですか!?」
「何じゃ、硬いことを言うでない」
ルシアは肩をすくめる。
「旅と言えば、一に酒、二に酒、三に酒じゃろう?」
「そんな話、聞いたことありません!」
賑やかなやり取りが続く車内に、悠真は思わず苦笑しながらハンドルを握る。
「でも……良かったよ」
前を見据えたまま、穏やかに言う。
「その様子なら、二人とも本当に楽しんでくれたみたいだね」
「我は大満足じゃ!」
「はい! 本当に、とても楽しい旅行でした!」
二人の顔に浮かぶ屈託のない笑顔をチラリと見て、悠真は心の底から、連れてきて良かったと感じていた。
「で、次はいつ行くのじゃ!?」
「えっ!? 次!?」
ルシアの言葉に思わず声が裏返る悠真。
「そうですね……」
セリシアが少し考える素振りを見せてから、楽しそうに言葉を続ける。
「中居さんから聞いたのですが、“ホッカイドウ”という場所は、美味しい食べ物がたくさんあるそうですよ?」
「えっ!? セ、セリシアまで!?」
まさかの援護射撃に、悠真は驚きを隠せない。
「ホッカイドウか!」
ルシアがぱっと表情を輝かせる。
「よし! 悠真、次はホッカイドウじゃ!」
「いやいや、すぐには無理だって! それに、店のこともあるし……!」
悠真の制止などお構いなしに、二人はすでに次の旅先の話で盛り上がっている。
「どんな料理があるのか楽しみじゃ!」
「乳製品も美味しいそうですよ!」
そんな二人の姿を横目に見ながら、悠真は小さく息を吐いた。
(……やっぱり、旅行に来て良かったな。でも……次は北海道か……)
頭の中でそっと計算する。
(今回の旅行でも、結構な出費だったし……。これは……またしっかり貯めないとな)
そう心に決めつつ、悠真はアクセルを踏み、東京へと車を走らせた。
こうして――
悠真と、異世界からやってきた勇者と魔王の
初めての日本旅行は、笑顔と余韻を残して幕を閉じたのであった。




