第四十六話 美沙、女神と邂逅する
東京の下町にある、とある商店街の一角。
その中にひっそりと佇む居酒屋――えにし屋。
深夜だというのに、店内の灯りは落とされていなかった。
だが、その明るさとは裏腹に、広い店内には人影がひとつしかない。
カウンターの奥、ぽつりと腰掛けているのは美沙だった。
両手を膝の上に置いたまま、背筋を伸ばして座っているものの、その表情は落ち着かず、不安がそのまま顔に浮かんでいる。
静まり返った店内に、かすかな機械音が混じる。
それは、カウンター越しに見える壁掛けテレビの音だった。
画面に映し出されているのは、臨時ニュース。
東京湾沿いの倉庫街で発生した大規模な爆発事故の速報だった。
瓦礫の山と化した現場。
かつて整然と並んでいたはずの倉庫群は原形を留めておらず、黒く焦げた鉄骨が無惨に露出している。
テレビ越しであっても、その凄惨さは一目で伝わってきた。
『えー、こちら東京湾の倉庫街です。本日未明、大規模な爆発が発生し、周辺の建物のほとんどが――』
リポーターの女性が、言葉を選びながら現状を伝える。
その淡々とした声が、静かな店内に虚しく響いた。
――数時間前の出来事が、美沙の脳裏をよぎる。
悠真とセリシア、そして矢島とのぞみが攫われたという衝撃的な知らせ。
美沙を店に残し、仲間たちは迷うことなく救出に向かった。
それから、誰からも連絡はない。
ただ時間だけが無情に過ぎていき、今こうしてテレビは倉庫街の爆発を報じている。
この事件が、セリシアたちと関係しているのかは分からない。
だが――胸の奥を締め付けるような嫌な予感だけは、どうしても拭えなかった。
美沙は思わず、ぎゅっと拳を握りしめる。
(……みんな、無事だよね……)
誰に聞かせるでもなく、心の中で祈るように呟く。
静かな店内で、その願いだけが、行き場を失ったまま漂っていた。
――そんな時だった。
店の入り口から、ガラガラと引き戸が開く音が、静まり返った店内に響いたのは。
美沙はびくりと肩を跳ねさせ、思わず入口を見る。
「……ただいま……」
聞き慣れた、少し疲れた声。
そこに立っていたのは――悠真だった。
「……悠真さん……!?」
言葉よりも先に、胸に溜まっていた不安が一気に溢れ出す。
そして、その悠真の背後から、もう一つの人影が現れる。
のぞみを抱きかかえたセリシアだった。
「セリちゃんも……のぞみちゃんも……!?」
次の瞬間、美沙は弾かれるようにカウンターを離れ、二人の元へ駆け寄る。
そのままセリシアにしがみつくように抱きついた。
「よかったぁ……! 本当に……無事でぇぇぇ……!」
声が震え、半べそになる美沙。
その様子に、悠真とセリシアは顔を見合わせ、どこか申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめん……美沙さん。すごく心配かけたみたいで」
「ううん……! みんなが無事なら、それでいいよぉ……!」
美沙は涙を拭いながら二人を見る。
「あ、でも……怪我とかしてない!!」
「ああ、大丈夫」
「うん。私も、見ての通り」
その返答に、ようやく美沙の肩から力が抜ける。
「……なら、よかった……」
ふと視線を落とし、セリシアの腕の中を見る。
「あ……のぞみちゃんは……?」
美沙はセリシアから一歩離れ、のぞみの顔を覗き込む。
「ふふ、大丈夫ですよ。美沙さん」
その声を聞いた瞬間、美沙は固まった。
「……え?」
ゆっくりと瞬きをし、首を傾げる。
「……の、のぞみちゃん……? なんか……話し方、おかしくない?」
恐る恐る悠真とセリシアを見る。
だが二人は、言い訳をするでもなく、困ったように苦笑いを返すだけだった。
その時――
「ほれ、いつまで入口で喋っておるんじゃ」
ずい、と悠真たちをかき分けるように、堂々と店内へ入ってくる人物。
ルシアだった。
「……あ」
その後ろから、グレイ、リア、シェリアも次々と姿を現し、えにし屋の中が一気に賑やかさを取り戻す。
さらに――
ちょこん、と軽い足取りで、白い何かが店内へ入り込んできた。
「……え?」
視線を落とした美沙は、思わず声を上げる。
「……えええっ!? き、狐!?」
真っ白な毛並みの小さな狐が、何食わぬ顔で床を歩いている。
しかし、美沙の動揺とは裏腹に、誰一人としてその狐を気に留める様子はなかった。
「……ちょ、ちょっと待って、誰か説明――」
と言いかけて、途中で言葉を止める。
今は、それよりも――。
美沙は、目の前に揃った顔ぶれを改めて見渡し、小さく、けれど確かな安堵の息を吐いた。
「……と、とりあえず……」
震える声で、そう締めくくる。
「……みんな、無事で……本当に、よかった……」
「御心配ありがとうございます」
穏やかな声で、シェリアが微笑む。
それに続いて、リアも柔らかく頷いた。
「心配してくれてありがとう、美沙」
二人の無事な姿に、美沙は胸を撫で下ろす。
「うん……ほんとによかった……」
そこへ、少し硬い声が差し込んだ。
「美沙。君も、あの後……何もなかったか?」
グレイの問いかけに、美沙は一瞬だけ息を詰まらせる。
「あ……え……う、うん。私は……何とも……」
ほんの僅かな間。
だが、その一瞬の逡巡を、彼女自身は強く意識していた。
「そうか……」
グレイは静かに頷く。
「緊急事態とはいえ、この場に君を一人残して行った。正直、気がかりだった。何もなかったのなら……それが一番だ」
その真っ直ぐな言葉に、美沙の頬がじわりと熱を帯びる。
「へ……あ……そ、その……あ、ありがとう……」
視線を泳がせながら、小さく礼を言う美沙。
「?」
グレイは、彼女の態度の変化に首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべていた。
「あ、そ、それよりっ!」
美沙は慌てて声を上げる。
明らかに話題を逸らそうとして、少し声が裏返った。
「や、矢島さんたちは……!?」
「あ、ああ……彼らなら……」
説明しようと口を開いたグレイだったが――
「……ふむ」
その言葉を遮るように、ルシアがカウンター越しに壁掛けテレビへと視線を向ける。
「ここの国は、情報の回りが早いのぉ……。ほれ、もう倉庫街の件が流れとる」
その一言で、全員の視線がテレビへと集まった。
瓦礫と化した倉庫街。
昼間とはまるで違う、夜の照明に照らされた惨状が映し出されている。
「矢島達は、あれの対応で手が離せんそうじゃ。キリのいいところで切り上げて……すぐ、こちらに来ると言っておったが……」
ルシアの説明に、美沙はごくりと喉を鳴らす。
「……そう、なんだ……」
そして、恐る恐る言葉を続けた。
「……や、やっぱり……このニュースの倉庫街の爆発って……」
視線を伏せたまま、問いを投げる。
「……うん」
答えたのは、セリシアだった。
「……私たち、なの」
どこか申し訳なさそうに、苦笑いを浮かべながら。
「えっと……じゃあ……一体、何が……?」
美沙の声は、困惑と不安が入り混じっていた。
「そうだよね」
悠真が、頭を掻きながら言う。
「美沙さんは、ここで待ってもらってたし……何が起きたか、分からないよね……」
一瞬、誰が話し始めるべきか、沈黙が落ちる。
「……そうよね」
その沈黙を破ったのは、セリシアだった。
「美沙。私から説明するね」
穏やかだが、覚悟の滲んだ声。
そうしてセリシアは、倉庫街で起きた出来事――
攫われた理由、そこで待ち受けていたもの、そして爆発に至るまでの顛末を、ゆっくりと語り始めるのだった。
「……な、なるほど……」
美沙は両手を膝の上に置いたまま、小さく息を吐いた。
「半グレに……九尾……しかも、禍尾まで出てきたなんて……」
話を反芻するように首を傾げ、恐る恐る問いかける。
「……それで……ちゃんと、倒したんだよね?」
「うん」
迷いのない声で、セリシアが頷く。
「もう、禍尾はいない」
その言い切りに、美沙の肩から力が抜けた。
「……そっか……」
胸に手を当て、心底ほっとしたように息をつく。
「ちょっと前まで“国を滅ぼす”とか言ってたからさ……この先どうなっちゃうんだろうって……正直、すごく怖かったんだよ」
それは、偽りのない本音だった。
「でも……よかった……本当に……」
安堵の余韻が残る中、美沙はふと視線を落とす。
店の床にちょこんと座る、白い狐へと。
「……で」
指を差すのは控えめにしながら。
「……この、狐さんが……?」
「うん」
セリシアが頷く。
「さっき話してた玉藻様。この土地の神様なんだって」
「ほ、ほほう……」
思わず、変な声が出る美沙。
「……神様……?」
疑いと戸惑いが入り混じった、その視線を受けて――
次の瞬間。
白い狐の身体が、ふわりと淡い光に包まれた。
「……え?」
光が収まった時、そこにいたのは、端正な顔立ちの白髪の女性。
白を基調とした小袖に朱い袴姿で、気品と妖艶さを同時に感じさせる存在だった。
「ふふ」
その女性――玉藻が、にこやかに微笑む。
「信じていただけていないようなので……。これで、どうでしょう?」
美沙の脳が、一瞬、理解を拒否する。
「…………え?」
そして、次の瞬間。
「う、うそっ!?」
素っ頓狂な声が、店内に響いた。
「き、狐がっ……! 狐が人間に……!? えっ!? な、何で!? ど、どうして!?」
見たことのない現象に、完全にパニック状態の美沙。
「……今さら、そこまで驚くこともなかろう?」
呆れたように、ルシアが肩をすくめる。
「……ん? ああ、そういえば」
何かを思い出したように、ルシアは続ける。
「お主は、我らの事情は知っておるが……こういう事象を目にする機会は、確かに少なかったのぉ」
「そ、それは……そうなんけど……!」
美沙は慌てて頷く。
「セリちゃんやルシアさんが魔法を使えるのは知ってるよ!? でも……でも……!」
視線を玉藻に戻し、苦笑いを浮かべる。
「いざ目の前で狐さんが人になったら……さすがに、びっくりするって……あはは……」
乾いた笑いを零しながら、ふと、ある存在に気付く。
美沙の視線は、セリシアの腕の中――
のぞみへと向けられた。
「……それで……」
少し慎重に、言葉を選ぶ。
「……のぞみちゃん、じゃない……んですよね?」
「はい」
小さく、しかしはっきりと頷く。
「初めまして、美沙さん。フェリシアーナと申します」
丁寧で、落ち着いた口調。
「セリシアさんたちの世界――ラグノスの女神です」
「…………め、女神様……」
美沙は、思わず背筋を伸ばした。
「は、はい……! し、篠崎美沙です……! その……は、初めまして……!」
深々と頭を下げる。
傍から見れば――
大人の女性が、幼い少女にやけに丁寧な挨拶をしているという、何とも言えない光景。
店内には、一瞬、言葉にしづらい空気が流れた。
そして――
その場に漂っていた、言葉にしがたい空気を切り裂くように。
ガラリと、えにし屋の扉が再び開かれた。
「すまない、遅くなって」
「……どうも。失礼します」
低く落ち着いた声と共に、二人の男が店内へ足を踏み入れる。
矢島と、泉だった。
「矢島さん、泉さん」
悠真がすぐにカウンターを回り、二人を迎える。
「もう、向こうの対応は大丈夫なんですか?」
「ああ」
矢島は短く頷く。
「俺たちの出来ることはもう無い。だから早めに切り上げさせてもらった……」
そう言って、ふと店内を見渡す。
「……で?」
僅かに眉をひそめる。
「なんなんだ、この空気は」
妙に張り詰め、しかもどこかズレた空気。
それを一瞬で察知する辺り、さすが刑事だった。
「え、えっと……!」
セリシアが慌てて一歩前に出る。
「き、気にしないでください! ちょうど今、美沙に……今までの騒動の説明が、終わったところでして……!」
明らかに“空気を変えよう”としている声色だった。
「……そうなのか」
矢島は一瞬だけ視線を細める。
「なら……これから、ということか?」
その問いに、セリシアは小さく、しかし確かに頷いた。
「……はい」
そうして、セリシアはゆっくりと向き直る。
その先にいるのは――
幼い少女の姿をした、フェリシアーナ。
それは、セリシアだけではなかった。
悠真も、ルシアも、リアも、シェリアも、グレイも、そして美沙も。
店内にいる全員の視線が、自然と一点に集まる。
「フェリシアーナ様……」
セリシアは、静かだが真剣な声音で問いかける。
「説明していただけますよね」
一拍、間を置き。
「……なぜ、あなたがこちらの世界にいるのか」
さらに続ける。
「そして……矢島さんの娘さんである“のぞみちゃん”の姿をしている理由を」
その言葉に、矢島の表情がわずかに強張った。
だが、口は挟まない。
フェリシアーナは、全員の視線を受け止めたまま、静かに口を開く。
「……そうですね」
幼い見た目にそぐわない、落ち着いた声音。
「では、説明いたしましょう」
小さな手を胸元に添え、微笑む。
「私が、把握している範囲にはなりますが……」
その一言で、店内の空気は完全に切り替わった。
これから語られるのは、
“偶然”では片付けられない真実。
えにし屋は今、
人と異界と神が交わる、証言の場となる――。




