第四十二話 現れる影
時は少し遡る。
東京湾に面した古い倉庫街。
夜の海風が金属の匂いを運び、足元には絶えず波のざわめきが響く。
その一角――幾重にも積み上げられたコンテナの最上段に、泉刑事はぽつんと取り残されていた。
「……いや、ホントにここで待てって言われたけどさ。
まさか、クロウさん。置いてったこと忘れてないよね?」
潮風と焦げた匂いを運ぶ夜風。
彼は頭を抱えながら、ぽつりと愚痴を零す。
ルシアの転移魔法で強制的に連れてこられ――そして、その直後だった。
魔王は倉庫のひとつを問答無用で爆発炎上させると、
「邪魔だからここで待っておれ」
とだけ雑に言い放ち、夜の倉庫街へと颯爽と消えていった。
「置き去りにされた上に爆破って……。異世界式の扱い雑すぎんだろ……」
愚痴りながら、泉はコンテナの縁に膝をつき周囲を見渡す。
さきほどまで騒がしく怒号が飛び交っていた倉庫街は、まるで嵐が通り過ぎた後のように静まり返っていた。
「爆発のせいで半グレどもがワラワラ出てきてたけど……今はすっかりおとなしくなってるし。っていうか倒れてね? あれ」
燃え上がる倉庫の炎が赤い光を投げ、暗闇の中に転がる影を照らす。
よく見れば、それは人影――半グレたちのものだった。
「ちょっと待て……ほんとに四人で、ここまで……?」
半笑いで自分を納得させようとしたそのとき、
炎の明滅の中で“動く影”が視界の端を走った。
「あれ……グレイさん……?」
目を凝らすと、その男は炎の手前、闇との境界に立っていた。
巨大な影がゆっくりと剣を構え、
周囲から複数の男たちが距離を詰めていく。
一瞬、緊張が走る――が。
次の瞬間、風が抜けたような音とともに、
向かっていった男たちが倒れる音だけが連続して響いた。
斬る、殴る、蹴る――そんな生々しい音は一切ない。
ただ、影が揺れたと思った時には、全てが終わっている。
グレイはひとり。
相手のその数は十や二十ではない。
「……え、なにあれ。いや……マジで怪物じゃん……」
泉は乾いた喉を押し下げ、コンテナの上で呆然と座り込む。
炎に照らされるグレイの横顔は冷たく、静かで、
まるで戦場に立つ騎士のようだった。
――いや、実際に“向こう”ではそうだったのだ。
彼ら異世界組は、警察が相手取るようなレベルの暴力ではない。
戦争と魔物を相手にしてきた、本物の戦士。
「……やっぱ異世界の人って、規格外だな……」
その呟きは、夜の倉庫街の静寂に吸い込まれるように消えていった。
⸻
倉庫街の一角――半グレたちが根城にしている倉庫から、金属がぶつかり合う鋭い音が響き渡る。
「オラオラッ! どうした姉ちゃん!? さっきまでの威勢はどこ行ったんだよ‼︎」
相馬の猛攻が、嵐のようにセリシアへ襲いかかる。
彼女はその全てを、剣で受け流し、最小の動きで躱していく。その様子を、悠真は息を呑んで見守っていた。
だがセリシアの瞳はぶれることなく、相馬の動き一つひとつを冷静に読み取っていた。
「逃げてばかりじゃ勝てねぇぞ‼︎」
挑発にも、彼女は一切返さない。
相馬の一撃はどれも常人なら即死の威力。
だが、生と死の境を何度も越えてきたセリシアにとって、恐怖で身体が竦むことはない。
圧倒的な力を振り回すだけで、戦闘技術を持たない相手――それが、彼女の判断だった。
相馬が特殊警棒を振りかぶった瞬間――。
「オラァッ‼︎」
セリシアの瞳がわずかに細まる。
(……ここっ!)
次の瞬間、彼女の身体が疾った。
警棒の柄を、聖剣の柄で下から鋭く突き上げる。
ガンッ!
弾き飛ばされた衝撃で、相馬の上半身が大きく仰け反る。
一瞬の隙――それで十分。
セリシアは迷いなく踏み込み、懐に潜り込むと、
みぞおちへと鋭い膝蹴りを叩き込んだ。
「ごぼぁっ……!」
相馬の息が漏れ、顔が苦痛に歪む。
だがセリシアは攻撃の手を止めない。
膝蹴りで前に折れた体勢のまま倒れ込もうとする相馬に、
彼女は身をひるがえし、回転の遠心力を乗せて――
鋭い踵落としを、相馬の首筋へと叩き込んだ。
「ぐぁっ‼︎」
相馬の体が、まるで落石のような勢いで地面へ叩きつけられた。
鈍い衝撃音とともに床が大きく沈み込み、周囲へ蜘蛛の巣状の亀裂が一気に走る。
砕けたコンクリ片が弾け飛び、白い粉塵が舞い上がった。
相馬は瞬時に意識を持っていかれたように身動きひとつ取れず、地面へ深々と沈み込んだまま動かない。
倒れ伏した相馬を見下ろし、セリシアは短く息を吐いた。
「……ふぅ」
張り詰めていた神経が一瞬緩み――だが、次の瞬間。
「……は、はは……。姉ちゃん……やっぱ強ぇなぁ……」
相馬がふらりと立ち上がった。
首をぐりぐりと回しながら、まるで肩慣らしをするかのように平然としている。
「っ……!」
セリシアは反射的に後退し、再び剣を構えた。
「嘘……だろ? あんな攻撃を食らって立つなんて……」
悠真が息を呑む。
矢島もまた、その場で言葉を失っていた。
「……貴方、本当に……人間ですか……?」
セリシアの問いに、相馬は鼻で笑って振り向く。
「おいおい、そんな言い方ひどいじゃねぇか? 俺はれっきとした人間だぜ。――まあ、姉ちゃんこそ本当に人間なのかって思うけどよ?」
軽口とは裏腹に、その瞳はどこか濁っていた。
セリシアは答えない。ただ静かに剣先を向け続ける。
「はは……まあ、別にどっちでもいいか」
相馬は右手をゆっくりと持ち上げる。
「確かに……俺はもう半分くらい、人間じゃねえのかもな?」
その瞬間だった。
ボッ――!
相馬の右手に、何もない空間から炎が生まれた。
「なっ……!?」
セリシアが瞠目する。
悠真も矢島も、目の前で起きているあり得ない光景に凍り付く。
「これが……俺が手に入れた“力”だよ!」
相馬が叫んだ瞬間――
炎が膨れ上がり、火球となって弾丸のようにセリシアへ向かって飛んだ。
「くっ――!」
セリシアは一歩踏み込み、剣を横に払う。
ヴァルフォード流剣術──
「風帝・翠流颯転ッ!!」
空気が震え、風が渦を巻く。
剣が描いた軌跡が風の壁を生み、迫りくる火球の進路を強引に逸らした。
逸れた火球は天井へと直進し――
ドゴォォンッ!!
爆音とともに天井を貫通して炸裂する。
「うわっ!?」
「ぐっ……!!」
衝撃波が室内を襲い、瓦礫が降り注ぐ。
悠真は咄嗟にのぞみを庇いながらうめき、矢島は衝撃に膝をついた。
立ち込める煙の奥で、相馬の笑い声が響く。
「ははは……すげぇな姉ちゃん。やっぱりアンタ、ただの人間じゃねぇよなぁ?」
燃え残る炎が相馬の顔を照らす。
その姿は、もはや“人間”という言葉から遠くかけ離れていた。
そして、相馬の顔に異変が走ったのはほんの一瞬だった。
その変化は、誰の目にも明らかだった。
「……あ、貴方……その顔……!?」
セリシアが声を震わせる。
悠真も矢島ものぞみも、息を呑んで動きを止めた。
「あァ? 顔……?」
相馬は自分の頬へ手を当てる。
その瞬間、指先に伝わったのは“人の肌”ではなかった。
「……このざらつき……なんだよ、これ……!?」
爪が伸び、毛が生え、骨格そのものが変形していく。
相馬の顔は歪み、裂け、伸び――やがて狐の獣面へと変貌していった。
「あ、あああああっ!?」
混乱し吠える相馬。しかしその叫びを押し潰すように、
頭の奥に別の声が響いた。
(ご苦労だったな……)
「っ!? この……声……!」
(後は“我”が、この器を使わせてもらおう……)
「て、てめぇ……ッ! 話が……ちがっ……あぐっ……!」
相馬は頭を押さえ、地面を転げ回りながら苦しみ始める。
その様子を見たのぞみが、静かに目を細めた。
「……やはり、“九尾”」
その声音は幼い少女のものとは思えないほど重く、冷たい。
「九尾……」
セリシアが呟く。手にした聖剣を強く握りしめた。
その時――天井の砕けた穴から二つの影が降りてきた。
「セリシア!!」
「っ、ルシア! それにグレイ!」
ルシアとグレイが瓦礫を蹴散らしながら着地し、セリシアのそばへ駆け寄る。
「無事か!?」
グレイが即座に周囲を警戒しつつ問う。
「ええ……何とか」
ルシアは振り返り、悠真たちの無事も確認する。
「ふむ。そっちも無事のようじゃな」
「ルシア、それにグレイさんも……来てくれて助かった……」
悠真は胸を撫で下ろす。
「リアもシェリアも来ている。もうすぐ合流するはずだ」
グレイは苦悶する相馬へ鋭い視線を向ける。
「しかし……これは」
「うむ、なんとも見覚えのある禍々しさよ」
ルシアの目が細められた。
そんな中、のぞみが一歩前に出る。
「皆さん……気をつけてください」
「……お主、雰囲気が……のぞみではないのか?」
ルシアが怪訝な顔を向ける。
「説明は後で……今はあれを止めないと」
のぞみの声音は真剣そのものだった。
それを受け、皆の視線が再び相馬へ集中する。
「……あれは、もう相馬という男ではありません」
のぞみが淡々と言い切る。
「“禍尾”……」
セリシアが聖剣を構える。
「やはりか……先ほどから感じる不快な力。あのショッピングモールの時と同じの様じゃ」
ルシアが鉄扇を開き、力の流れを見据える。
「妖気か?……厄介だな」
グレイも剣を構え直す。
そして――
「く、か……かかかかっ……」
相馬は俯いたまま肩を震わせ、笑い声を漏らした。
「久しいな……小娘ども……?」
ゆっくりと顔を上げ四本の足で起き上がる。
その顔は、もう完全な獣。真っ黒の狐面。
背中からは九つの尾が伸び、四肢は獣そのものの形へと変貌してゆく。
もはや、相馬という男の面影はどこにもなかった。
そこに立っていたのは――
“黒き九尾”だった。
「あ、あの姿って……」
悠真は震える声を漏らした。
「ショッピングモールで見た時とは……全然違う……これが“完全体”ってやつなのか……?」
矢島は背筋をぞくりと震わせ、思わず一歩後ずさる。
黒い九尾――禍尾の姿は、もはや害獣でも怪物でもなく、“災厄そのもの”だった。
「どうして……貴方がその男に……!?」
セリシアの問いに、禍尾は低く笑った。
「貴様に敗れ、肉体を失い彷徨っていた我は……“負の力”が濃く渦巻く、この器を偶然見つけたのだ」
禍尾はまるで嘲笑うかの様に喋る。
「手に入れるのは簡単であった。力を与える代わりに、我はこの男に宿った。そして……この男は実に素晴らしかったぞ。与えた力を撒き散らし、恐怖を生み、負の力を我へと注ぎ続けた。おかげで、我は瞬く間に力を取り戻せた」
九つの尾がゆらりと揺れるたび、黒い妖気があたりを歪めた。
「そして――完全なる姿となった今、もはやこの男は不要。肉体は我が“有効利用”してやるだけのことよ」
「そんなこと……させません!!」
セリシアが叫ぶと、禍尾は口の端を愉悦に歪めた。
「無駄だ。むしろ貴様らには感謝すべきだな……? 貴様らのお陰で……我は“以前以上”の力を得られるのだからな!」
「ど、どういう意味……っ!?」
セリシアが問い詰めようとしたその瞬間――
ブワァッ――!
禍尾の体を中心に、黒い霧が爆発するように広がった。
「いかんっ! 皆、この場を離れるのじゃ!!」
ルシアの叫びが響き、全員が条件反射で動き出す。
セリシアは即座に悠真とのぞみを抱え込み、跳躍するようにして倉庫の外へ。
グレイも矢島を抱え、瓦礫を蹴り飛ばして脱出。
倉庫内は瞬く間に黒霧で満たされ、視界が闇に飲まれていった。
黒霧は止まることを知らず、倉庫の外へと溢れ出し、倉庫街全体を呑み込むように広がってゆく――。
空中へ避難したルシアは、黒い濁流が地表を覆い尽くしていく光景を見下ろし、表情を険しくした。
「これは……ただの霧ではない……」
直後、ルシアが念話で皆に伝える。
(――皆、あの黒い霧に触れてはならぬ! 今はとにかく高い場所へ離れるのじゃ!!)
言葉と同時に、ルシアもその場から退避していく。
禍尾の復活とともに、倉庫街は静かに――
“災厄の領域”へと変貌していった。




