第三話 勇者、東京に降り立つ
喫茶店を後にして、セリシアと悠真は再び歩き出した。商店街のアーケードを抜けると、視界が一気に開ける。
セリシアの足が、ふと止まった。
「……っ」
彼女の碧眼の瞳が、大きく見開かれる。目の前には、自分の世界にはない“東京”の風景が広がっていた。
何層にも重なるように建つ巨大なビル群。鏡のように空を映すガラス張りの高層建築。そこを忙しなく行き交う車の列。信号が変わるたび、まるで兵隊のように足並みを揃えて横断歩道を渡る人々。
その頭上を――轟音とともに、鉄の箱が走り抜けた。
「な、何ですかあれは⁉︎ あんな人が届かないような、高い所を動いて……あれは、あの箱のような物はなんなんですか⁉︎」
「電車だよ。あれは高架の上を走っていて、地下を通る電車もあるけど、東京にはいろんな路線が張り巡らされてるんだ」
「デンシャ……」
その響きを、セリシアは愛おしむように口にした。
彼女の視線が今度は斜め前にある建物へと向かう。小さな入り口、明るく光る看板、そして――自動で開くガラスの扉。
「……あれは?」
「コンビニ。コンビニエンスストア。必要な物が何でも、24時間手に入る便利なお店だよ」
「にじゅうよじかん……。それは魔法か何かで?」
「いや、完全に文明による仕組みと人間の労働力でできてる。まぁ、ある意味この世界の“文明魔法”かな」
そう冗談めかして笑う悠真を、セリシアはぽかんと見上げたまま首を傾げた。
そして、目の前を通り過ぎた青年が片手で何かを操作しているのに気づく。
「皆さんが手に持っているあれは……?」
「ああ、スマホ。スマートフォン。連絡を取ったり、地図を見たり、買い物をしたり、写真を撮ったり……何でもできる道具だよ」
悠真がポケットから自分のスマホを取り出し、ホーム画面や動画等を見せた。セリシアはまるでそれが魔道書でもあるかのように身を乗り出して覗き込む。
「うわぁ……。絵が動いています……!」
「動画って言ってね。今はこれ一台で色んなことができるんだ。ちなみにこれはさっき撮ったパンケーキの写真」
「シャシン?…す、すごいです!ここまで繊細で綺麗な絵は見たことありません!ユーマいつこんな繊細な絵を描いたんですか⁉︎」
小さなガラスの画面に、さっき食べたパンケーキが鮮やかに写っていた。とろりと流れるソース、ふわふわの生地、横に添えられたアイスと生クリーム――セリシアの口元に、思わず笑みが浮かぶ。
(そっか、セリシアさんからすれば写真の概念が無いなら、ただの鮮明な絵にしか映らないのか。料理の事ならまだしも写真の原理を説明するのは専門外だから難しいなぁ。)
「えっと、絵とは全然違うんだけど…。ごめん、写真の事を詳しく説明するのは難しんだ。今度しっかり調べてから教えるよ。」
「い、いえ、そこまで気を遣っていただかなくても!……それにしても、この世界は本当に、不思議な物であふれているんですね」
その時、信号が青に変わり、人の波が一斉に動き出す。
「おっと、セリシアさん、渡るよ。手、握って」
「は、はいっ!」
不安げに差し出した手を、悠真が優しく握る。二人は人の波に乗り、ゆっくりと横断歩道を渡っていった。
歩道の先には、駅の改札口があった。人々はカードやスマホを機械にかざし、ピッ、と軽い音を立てて通り過ぎていく。
「これが改札。Suicaっていうカードを使うんだ。これがあると電車に乗れる」
「スイカ……?」
「ほら、これがSuica」
悠真が小さなカードを取り出して見せると、セリシアは興味津々でのぞき込んだ。緑のペンギンのマスコットが描かれたカードに、彼女はくすりと笑う。
「この世界の“鍵”なのですね……」
セリシアの声に、悠真は頷いた。
「そうだね。この世界は、たくさんの“鍵”でできてる。知らないと開かないけど、覚えればどんどん前に進める。これは色んな鍵の一つとおぼえてくれればいかな。」
「……私、もっと知りたいです。この世界のこと」
そう言った彼女の瞳には、恐れよりも、強い好奇心の輝きがあった。
悠真はにっこりと笑いながら、駅の先を指差した。
「じゃあ、次は電車に乗ってみようか。」
セリシアは一度大きく深呼吸し、頷いた。
「はいっ!」
悠真に手を引かれながら、セリシアは人の流れに乗って駅の構内を進んでいった。
階段を上がった先、彼女の目に映ったのは――線路を挟んで向かい合う、長く続くプラットフォーム。頭上には電光掲示板が光を放ち、アナウンスが響いている。
「……ここが、“山手線”のホームだよ」
「ヤマノテ……? また私の知らない言葉ですね……」
セリシアは神妙な顔つきで周囲を見回す。彼女の目は次々と新しいものを捉えていった。ベンチでスマホを触る人。自販機で何かを買っている学生。電車の案内に耳を傾けるスーツ姿の会社員。
「みんな、何かに夢中で……でも、ちゃんと整っていて、動いていて……この場所、すごく不思議です……」
その時だった。
「まもなく、一番線に電車がまいります。黄色い線の内側まで――」
駅のアナウンスが終わるより早く、ホームの奥から轟音が迫ってくる。
セリシアの碧眼の瞳が、大きく見開かれた。
「き、来ます……!」
その声とともに、銀色の車体が風を巻き起こしながら目の前に滑り込んできた。四角い窓、等間隔に並んだドア、反射する蛍光灯の明かり――
「この轟音……まるで、鋼鉄の魔獣……!」
「魔獣じゃなくて、電車だよ。ほら、乗るよ」
扉が自動で開くと、悠真が軽く手を引いた。セリシアは緊張した様子で、慎重にその“魔獣”の腹の中へと足を踏み入れる。
車内は思ったよりも広く、明るかった。吊り革が等間隔に揺れ、広告が天井付近を飾っている。セリシアはそっと座席に腰を下ろし、きょろきょろと辺りを見回した。
やがて、ドアが閉まり――ガタン、という揺れとともに電車が動き出す。
窓の外の風景が、流れるように後方へと去っていく。
「……動いてます! でも、揺れは思ったより少なく……えっ、今、別の電車とすれ違いました⁉︎」
「うん、向かいの線路を走ってる中央線。東京じゃこういうのは日常茶飯事」
セリシアは身を乗り出すように窓の外を眺めた。ビルとビルの間に流れる緑の公園。レンガ造りの古風な駅舎。巨大な交差点、歩道橋、そしてカラフルな看板たち――
目まぐるしく変わる景色に、彼女の視線はまったく追いついていない。
「この世界……なんて複雑で、美しくて……わたし、夢でも見てるのでしょうか……?」
その横顔は、窓に反射する光に照らされて神秘的に見えた。
そんなセリシアの姿に、車内の乗客たちが次第にチラチラと視線を向け始めていた。
――整った彫刻のような横顔。黄金の髪。異国の姫を思わせる、品のある仕草。
まるで映画かファンタジーの中から抜け出してきたような存在感が、彼女にはあった。
(え……めっちゃ美人じゃない? モデル?)
(こ、こんな綺麗な人見た事ないんだけど)
(あの外人さんやばくない⁉︎テンション上がるんですけど⁉︎)
(一緒にいるの、彼氏?)
声に出す者こそいなかったが、好奇の視線は確かに向けられていた。
セリシアは――それに気づきつつも、表情を変えずに悠真の袖を引いた。
「……わたし、浮いてますか?」
「まぁ、正直なところ、すごく目立ってるね。綺麗すぎて」
悠真が冗談めかして笑うと、セリシアは少し頬を赤らめた。
「そ、そんな……別に普通のつもりなのですが……この世界の“普通”って難しいですね……」
電車がアナウンスと共に次の駅へと滑り込み、再びドアが開く。乗客が入れ替わり、また新しい目がセリシアに向く。
だが、彼女はもう気にしないように、窓の外へと視線を戻していた。
やがて、車内アナウンスが流れた。
「次は、秋葉原、秋葉原。お出口は右側です」
「アキ?アキハ、バラ……? この街には、どんな驚きが待っているのでしょう?」
「いろいろあるよ。電気街とオタク文化の聖地って言って…、言ってもわからないよね…。取り敢えず今日はそこで、日用品をいろいろ揃えよう」
「はい!ユーマ、よろしくお願いします!」
何にでも真剣なセリシアを見て、悠真はどこか嬉しくなった。
やがて、電車はゆっくりと速度を落とし、秋葉原駅に到着する。
扉が開き、セリシアは“また新しい世界”へと足を踏み出した。
秋葉原の駅を出た瞬間、セリシアは再び足を止めた。
「ここが……アキハバラ……?」
目の前に広がっていたのは、まるで城塞都市のように巨大で、騒がしくて、色とりどりの魔法が渦巻くような世界だった。電光看板がまばゆく光り、至る所で電子音やアナウンスが響いている。
「……魔道具の店が並んでいるみたいです!」
「セリシアさんからしたら、そう見えるんだね。こっちは異世界じゃなくて、現代日本の“普通”の街だよ」
「すごい……すごすぎます……っ」
セリシアは目を輝かせて次々に店を覗き込み、いちいち立ち止まっては驚きの声をあげていた。
雑貨屋、電気店、アニメショップ、メイドカフェの呼び込みまで――
「……この世界、本当に底が見えません!」
悠真は笑いながら、セリシアをとあるビルの中の大型量販店へと誘導する。
「ここならだいたい揃う。今日は生活に必要なものを一式買おう」
「はいっ!」
二人はカートを押しながら日用品コーナーを巡り、タオル、歯ブラシ、ドライヤー、シャンプーなどを選んでいった。セリシアは手に取るたびに、そのパッケージや香りに感動を示し、時にふわっと嬉しそうに笑った。
だが――
「……あ、えっと、次は……女性用品、だな」
「……女性用品、ですか?」
悠真は一瞬ためらいながらも、「こっちだよ」と下着売り場の方へと向かった。
セリシアが一歩足を踏み入れた瞬間、まるで別の戦場に足を踏み入れたかのような顔をした。
壁いっぱいに並んだ――レース、リボン、色とりどりの布地。
ランジェリーコーナーの華やかさと繊細さに、彼女は完全に固まった。
「こ、これは……っ⁉︎ えっ、これを、わたしが……?」
「うん、まぁ……下着、だしね。着替えが必要でしょ?」
セリシアは顔を真っ赤にして両手を頬に当てた。
「ちょ、ちょっと待ってください……っ。こんな、透けるような……布の面積が、ほとんど……! これでは、ほとんど武装解除では……!」
「いや、武装とかじゃないから。下着だから」
「ですが、見てくださいこれ……このヒモのようなものを“履く”のですか⁉︎ 誰が⁉︎ わたしが⁉︎」
「さすがにTバックは初心者には早いから、普通のから選ぼう。あっ、これなんかシンプルで――」
「やめてください、そんなに普通に語らないでくださいっ!」
あたふたと動揺するセリシア。いつも冷静で堂々とした彼女が、赤面しながら布の山に怯えている姿は、どこか微笑ましかった。
それでも――
少しずつ、目線が慣れてくると、セリシアは静かにある棚の前で立ち止まった。
それは、上品な淡い黄色のセット。
華美すぎず、でもさりげない刺繍があしらわれていて、柔らかな女性らしさがあった。
「……こういうのを選ぶのが、この世界で“女性”として生きていく……ってことなのでしょうか」
小さくつぶやいたセリシアは、その下着を手に取り――そっと胸に当てて、鏡の前で少し考え込んだ。
「……その色、似合うと思うよ。セリシアさんに」
不意に悠真が言った。
セリシアは肩をびくっとさせ、振り向く。
「そ、そんなこと……ない、です……」
――でも、その頬はほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいた。
「と、とにかく、これにします! 他にも……何枚か必要ですよねっ?」
「うん。あとは実用重視で選べば大丈夫」
「は、はいっ……っ」
羞恥と恥じらい、そしてほんの少しのときめき――
セリシアは“ただの異世界の勇者”ではなく、“現代を生きる一人の女性”として、確かに一歩を踏み出していた。
帰りの山手線の車内。セリシアは行きよりも少し落ち着いた顔で、静かに車窓の外を眺めていた。
さっきまでのきらびやかな街並みも、ビル群の隙間から漏れるオレンジ色の陽光に包まれ、どこか静かに落ち着いて見える。
「……すっかり、夕方になりましたね」
「そうだね。今日はいっぱい歩いたし、だいぶ疲れたんじゃないかな?」
「はい……でも、それ以上に……とても、楽しかったです」
彼女の口から自然にこぼれたその言葉に、悠真はふっと目を細めた。
隣で座るセリシアは、電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、ぽつりぽつりと呟く。
「この世界は、本当に不思議です。魔法も剣もなくて……でも、目にするものすべてが新しくて、驚きと感動に満ちていて……」
「……うん」
「でも、ただそれだけじゃなくて……誰かと一緒に、こうして過ごす時間が、こんなに……暖かいなんて、思ってもいませんでした」
セリシアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
そして、駅を出て、家路につく頃には、空はすっかり茜色に染まり、ビルの隙間から見える夕日が長い影を作っていた。
「……あの、ユーマ…。」
セリシアが小さく声をかける。呼び方はまだ丁寧で、だけど、その響きは柔らかかった。
「うん?」
「わたし……この世界で、もう少し、ちゃんと生きていきたい。迷惑じゃなければ、“居酒屋”のこと……わたしにも、手伝わせてくれませんか?」
足を止めて、彼女は真正面から悠真を見た。
その瞳には、一人の戦士ではなく、一人の少女としての決意が宿っていた。
「……もちろん、歓迎だよ。セリシアさんが一緒なら、百人力だ」
そう答えた悠真の言葉に、セリシアは嬉しそうに微笑んだ。
そして――
「それと……もうひとつ、お願いがあります」
「ん?」
「その……“さん付け”は、やめてほしいです。わたし、仲間にはもっと……近い距離でいてほしいんです。だから、これからは“セリシア”って、呼んでほしいです」
少し照れたように、けれどしっかりとした口調でそう言うセリシア。
夕日が彼女の金髪を黄金に染めて、まるで物語の一幕のようだった。
「……わかったよ。セリシア」
その名前を初めて“素”で呼んだ悠真の声に、セリシアは目を瞬かせ――ゆっくりと、心からの笑みを浮かべた。
「……はいっ」
その一言が、彼女の“この世界での人生”の第一歩となる。
そして、二人の間に流れる距離が、ほんの少しだけ縮まった。
数日後。
商店街の一角にある小さな居酒屋「えにし屋」は、まだ夕暮れ前だというのに、ほんのりと温かな灯りが漏れ出していた。
今日は少し特別な日。
――セリシアが、店頭に立つ“初日”だった。
「深呼吸、深呼吸……だいじょうぶ、きっとやれる」
黒いシャツに白のエプロン。エプロンにはえにし屋の名前が刺繍されている。
慣れない現代服に身を包んだセリシアは、厨房の隅で何度も深呼吸を繰り返していた。鎧を脱ぎ、剣も持たず、まったく新しい「戦場」に臨む勇者の姿だった。
カウンターの向こうでは、悠真が落ち着いた手つきで酒瓶を並べながら微笑む。
「大丈夫だよ、セリシア。練習でやった通り、まずは“いらっしゃいませ”と元気に言えればOKだ」
「はい……! それなら、きっとできますっ」
そう頷く彼女の目には、緊張とやる気、そしてほんの少しの不安が混ざっていた。
⸻
店の暖簾が揺れる。開店時間だ。
最初の来客は、服屋の佐和子さんだった。
明るい笑顔と優しい雰囲気をまとった女性で、セリシアの最初の服を選んでくれた人だ。
「こんばんは~。あら、セリシアちゃん、頑張ってるわね!」
「さ、佐和子さんっ! い、いらっしゃいませっ!」
ちょっと声が裏返ったが、その初々しい接客に佐和子さんは破顔する。
「ふふふ、完璧よ~。最初から上手にできる子なんていないんだから、気にしない気にしない!」
続いて、喫茶店「さくら」のマスターが優しい笑顔で現れた。
「……看板娘ができたと聞いてね。様子を見に来た」
「い、いらっしゃいませっ! どうぞ、お席へ……!」
セリシアはぎこちないながらも一生懸命に接客をこなしていく。
注文を受け、笑顔でお冷を運び、つまづきながらもテーブルへ料理を運ぶ。
「あっ……す、すみません、ちょっと傾きました……!」
「あはは、気にしないで。それより、この焼き鳥、美味しそうねぇ」
少しずつ、客たちの優しい反応がセリシアの緊張を和らげていく。
「……ちゃんと、できてるんでしょうか、私……」
不安げに厨房を覗いた彼女に、悠真が軽くウィンクを飛ばす。
「笑顔で頑張ってるだけで、十分すぎるくらいだよ。……“また来たいな”って思わせたら、もう一人前さ」
「……はいっ!」
その言葉に、セリシアの瞳が輝いた。
⸻
やがて閉店時間。夜はすっかり更けて、看板の灯りが静かに消えた。
「……ふぅ、緊張したけど……なんだか、あっという間でした」
「最初はそんなもんさ。でも、よく頑張ったな。今日のまかない、ちょっと気合い入れたぞ」
悠真が厨房から運んできたのは、大きな陶器の器に盛られた――
◆特製まかない:「炙り鯖の混ぜご飯」 × 「冷やしとろろ汁」
炊きたての白飯に、香ばしく炙られた鯖の切り身がたっぷりとほぐされ、刻んだ大葉やみょうが、白ごまが混ぜ込まれている。
そこに熱を通した鯖の旨みと薬味の爽やかさが合わさり、湯気の中に食欲が刺激される。
添えられた冷たいとろろ汁は、昆布出汁の風味が効いた優しい味で、仕事の疲れを包み込むような味わいだった。
「……いい匂い……」
セリシアが一口食べた瞬間、顔がほころぶ。
「美味しいっ……このサバって魚、こんなに香ばしくて、ほろほろするんですね。お口の中で、ふわぁって……っ」
「ふふ。今日みたいに頑張った日は、ちゃんと美味しいご褒美がある。それが“えにし屋”だよ」
「……わたし、もっともっと頑張りたいです。この場所で、皆の笑顔を見たいから」
夕飯を食べながら、そう素直に語るセリシアの表情は、すでに“看板娘”としての輝きを帯び始めていた。
⸻ ⸻
誰もが干渉することの叶わぬ“時空の狭間”。
時も光も意味をなさぬその空間に――
一つの影が漂っていた。
影は女の姿をしていた。
長く流れる黒髪が虚無の空間に揺れ、纏うのは闇を織ったかのような漆黒の衣。
それは着物にも似ていたが、どの世界の流儀にも属さぬ異形の装束。
女は目を閉じ、ただ静かに佇んでいた。
それは眠りにも似た沈黙。だが、永劫の休息ではない。
やがて、風もないのに髪がふわりと靡いた。
ゆっくりと――瞼が開かれる。
その奥に宿るのは、紅玉のように深く燃える赤の瞳。
「……ふむ。もう、よかろう」
その声は、空間に溶けるように甘く妖艶で――どこか儚い。
だが、確かな意志と知性がその奥底に煌めいていた。
「傷も癒えた……では、向かうとするかの」
言葉とともに、女は霧のようにその場から掻き消えた。
彼女の名は――魔王ルシア・クロウ。
*
次に彼女が姿を現したのは、闇世に聳え立つ“かつての王の城”。
今はもう誰も足を踏み入れぬ、魔王城の玉座の間だった。
崩れた石柱と瓦礫、そして何よりも……
勇者と魔王が最後に刃を交えた、その記憶の残滓が、この場にはまだ残っていた。
ゆっくりと歩み寄るルシアの足音が、静寂を切り裂く。
「……やはり、術式の痕跡が残っておったか。
ふむ……想像以上に、歪んでおるの」
割れた玉座の奥、床に焼き焦がれた転移魔法陣の痕跡。
それは今も空間に微細な揺らぎを残していた。
あの決戦の最中、瀕死の魔王は最後の力で“転移”を試みた。
己は誰にも干渉する事が出来ない空間――“間の世界”へと逃れ、勇者は遠く彼方へ飛ばすはずだった。
だが、想定は狂った。
「勇者セリシアは……我の意図せぬ場所へと飛ばされたか。
この世界のどこでもない、別の世界――異界、か」
ルシアは目を伏せ、薄く笑う。
「何故こうなったのじゃ……考えられるとすれば――聖剣か……」
けれど、すぐに彼女は首を横に振った。
「まぁ、よい。今さらあの娘の安否など、我の関心事ではない。
気になるのは……この転移陣の“行き先”よ」
そっと、指先を前に翳す。
空間が揺らぎ、黒い魔法陣がふわりと浮かび上がる。
月光が差し込む瓦礫の隙間から、彼女の赤い瞳を照らす。
「ふふ……知りたいなら、自ら見に行けばよい。
魔王としての“役目”など、もう終わった。ならば――好きにさせてもらうまでじゃ」
“役目が終わった”
その言葉には、意味深な余韻が宿る。
あれほど世界を脅かした存在が、今やその名をも脱ぎ捨て、己の欲求のままに動き出す。
かつての敵も、王も、目的すらも――すべてを後ろに置いて。
「さあ、異界よ。我が好奇を満たすに足る場所か……確かめさせてもらおうぞ」
唇に妖しく笑みを浮かべたルシアは、魔法陣の中心へと身を投じた。
紅の瞳が最後に一度、月光を切り裂くように輝き――
その姿は、音もなく闇に消えた。
残されたのは、月の光と、夜の静寂のみ。
そしてこの瞬間から、世界は再び、ひとつの予測不能な存在を迎え入れることになる。