第三十六話 黒の九尾
ショッピングモール一階。
ざわめきが渦を巻き、空気そのものが張り詰めていた。
「おい、広場で爆発があったってよ!」
「外に避難しろって叫んでる人がいたぞ!」
「次の爆発があるかもしれないって……!」
断片的な声が飛び交うたびに、不安と恐怖が人々の間で増幅される。
通路は出口へ殺到する群衆でごった返し、押し合いへし合いの混乱が続いていた。
だがその奔流の中には、異質な動きもあった。
「ちょっと見に行ってみね?」
「面白そうじゃん!」
好奇心に駆られ、避難の流れを逆走して広場へ近づこうとする若者たち――。
恐怖と愚かさが入り交じった人間の本性が、騒乱の熱にあぶり出されていた。
そんな混沌の只中を、泉刑事はただ一人、確固たる意志で逆方向へ進んでいた。
胸に走るのは職務の使命感――しかしそれ以上に、どうしようもない焦燥感だった。
(……一体、何が起きているんだ?)
数分前、広場の方角から轟音が響いた。
建物全体を揺さぶり、鼓膜を裂くような衝撃音――爆発。
その記憶が脳裏に焼き付き、冷たい汗が背筋を伝う。
(現場を確認しないと……!)
人波を押し分けるたび、泉の脳裏にひとつの影が浮かんだ。
(矢島さん……)
胸にのしかかるのは、後悔だった。
上司であり相棒でもある矢島を、あの広場に残したままだ。
しかもその原因の一端は自分にある。
――少し前。
たまたま出会った少女・のぞみたち。軽い気持ちで「のぞみちゃんと一緒にショーを見てほしい」と思い、一人で聞き込みに行くと言い残し、矢島を強引にその場に置いてきたのだ。
去り際にちらりと見た矢島は、不満げに眉をひそめながらも従い、少女たちと広場に残った。
そして起きた、あの爆発――。
(俺が余計なことをしなければ……!)
悔恨が胸を締め付ける。
矢島の険しい顔、のぞみ達の無邪気な笑顔が交互に脳裏をよぎり、泉の歩みを急かす。
(のぞみちゃん達も……無事なんだろうか……?)
押し寄せる群衆に逆らう足取りは鈍く、焦燥感だけが募る。
気づけば、汗ばむ掌が無意識に腰のホルスターを確かめていた。
そのとき、爆発の余韻を引き裂くように――。
「うわあああああっ!」
「助けてくれっ!」
子供の泣き声、大人の絶叫が混ざり合い、恐慌の波はさらに膨れあがる。
(急げ……!)
歯を食いしばり、泉は駆けだした。
人混みの流れに逆らい、必死で前に進む泉の視界に、異質な人影が飛び込んだ。
金色に輝く髪の女性と、黒髪の女性――その二人もまた、混乱の波に逆らって進んでいた。
(あれって……居酒屋の…… !?って、クロウさん!?)
瞬時に泉は理解した。二人は、危険を顧みず広場に向かおうとしているのだ。
その事実に胸がざわつく。焦燥感が、胸の奥からぐっと押し寄せる。
「ア、アーデルハイトさん! クロウさん!そっちは危険です!」
必死で声を張り上げる泉。
だが、周囲の喧騒に声は完全にかき消され、二人には届かない。
(く、くそっ……!)
泉は人波を押し分け、必死に追おうとする。しかし、群衆の圧力が強く、思うように前に進めない。
その間にも、二人の女性は流れを縫うようにすいすいと進む。まるで人間離れした身のこなしだ。
(ち、ちょっと待て……! なんであんなに速く……?)
やがて広場の端に差し掛かると、群衆はほとんど居らず、行動は容易になった。
しかしそれでも、泉の足は二人に追いつけなかった。
(全然、追いつけない……!)
そして、泉の視線の先には、信じられない光景が広がっていた。
広場は、燃え盛る炎に包まれていた。
しかし、驚くべきことに、煙はほとんど上がっていない――まるで炎が光だけを放つかのように燃えていた。
泉は思わず立ち止まり、息を呑む。
「う、嘘だろ……」
目の前の現実に呆然とする泉とは裏腹に、セリシアとルシアは一歩も臆することなく、燃え盛る炎へと歩を進めていく。
その動きは、常人のそれではなかった。
炎の間を縫うように、二人は炎の熱や煙などものともせず、広場の中心へ――
「ふ、二人ともちょっと待って! そっちは危険……ってええぇっ!」
泉の声も、もはや叫びになった。
しかし、二人は広場の中心へと姿を消していく。
その動き――常人のそれではなかった。
(う、嘘だろぉ……)
唖然と立ち尽くす泉の胸に、恐怖と焦燥が同時に押し寄せる。
泉は現状に戸惑いながら、必死で言葉をつぶやく。
「と、とにかく……や、矢島さん達の無事を確認しないと……」
胸の鼓動を押さえつつ、泉はスマホを取り出した。
指先で番号を押すが――繋がらない。
「な、何で!?」
スマホの画面に表示されたのは、冷たく無機質な「圏外」の文字。
泉は周囲を見渡し、頭の中で焦燥が渦巻く。
「け、圏外って……」
視線の先に目に入ったのは、広場近くの無人の店舗。
泉は迷わず店内へ駆け込み、固定電話を探した。
レジ奥の部屋に電話機を見つけると、受話器を取り矢島にかける。
しかし――再び応答はない。
「くそっ!」
受話器を乱暴に置くと、目の前の現実がさらに泉を突き動かした。
遠く広場から、絶望的な悲鳴が響く。
慌てて店の外に飛び出すと、炎は広場を中心に二階、三階へと燃え広がっていた。
悲鳴は、上の階からも聞こえてくる。
「こ、こんなことって……」
泉は息を整えつつ、再び店内に駆け込み、消防へ電話をかける。
心の中で祈るように受話器を握りしめ――
「はい、こちら消防です」
(つ、繋がった……!よかった……)
泉は早口になりながら現状を報告する。
消防に続き、救急も要請する。
(次は警察……)
泉が警察に電話をかけようとしたその瞬間――
ドォォーン!
体を震わせる大きな爆音が響いた。
泉は咄嗟に店の外へ飛び出す。
燃え上がる広場からは土煙が舞い上がり、炎のせいで内部の状況は全く掴めない。
上の階へ上がり確認しようにも、既に上階は火の海となっていた。
「一体……何が起こっているんだ……」
泉はただ、燃え盛る広場を見つめることしかできなかった。
胸の奥で焦燥と絶望が絡み合い、頭の中で「矢島さん達は……無事なのか……?」という問いだけが繰り返される。
周囲の喧騒も、遠くで響く悲鳴も、すべてが現実の重さを際立たせる。
泉は立ち尽くしながら、次に取るべき行動を必死に思案していた――。
⸻
炎に囲まれた広場の一角。
生存者たちは――矢島を含め、皆が一様にルシアの展開する魔法障壁に守られていた。
ただし、矢島以外の買い物客たちは、すでに障壁の中で眠りに落ちている。
それもまたルシアの魔法によるものだった。
「お、おい……一体お前たちは何者なんだ……?」
矢島は掠れた声を漏らす。
同じ障壁の内側で、ルシアは負傷して気を失った悠真の治療を行っていた。
負傷し気を失った悠真の胸元に、ルシアの手がそっと翳しており、その手の先には淡い光の魔法陣が浮かび上がり、そこへルシアの魔力が脈打つように流れ込んでいく。
淡い輝きが悠真の体を優しく包み込み、裂けた傷口はわずかずつ、確かに癒されていった。
ルシアの額には汗が滲み、魔力を注ぎ込み続ける苦しさが表情に影を落としていた。
「…すまぬが、今はそれについて説明出来ぬ。悠真に掛けている魔法は繊細なものでな。こちらを優先させてもらう」
矢島の視線は、魔法で淡く光る悠真に注がれる。
先の爆発で右脇腹を負傷した彼は、重症を負っていた。
しかし、ルシアの手から放たれる淡い光が触れるたび、傷は確かに癒えていく。
矢島は言葉を失う。
「魔法」――その一言だけで常識の根幹が揺さぶられた。
目の前の現実が信じられない。しかし、確かに悠真の出血は収まり、蒼白だった顔に赤みが戻っていく。
「ま、魔法なんて……本当にあるのか……」
信じたくはなかった。だが、その光景は否応なく現実を突きつけてくる。
舞い上がる粉塵の向こう、炎と熱気の奥へと、自然と視線が引き寄せられる。
そこに――地上へと降り立ったセリシアの姿があった。
やがて、ゆっくりと粉塵が晴れていく。
浮かび上がったその存在に、矢島は息を呑んだ。
「なっ……!」
そこに立っていたのは、もはや人間ではなかった。
顔は獣、狐の面影を持ち、口から覗く牙は鋭く伸びている。
腕からは鉤爪のような爪が生え、破けたズボンの裾からは獣の脚が覗く。
そして、背から尾が――一本、二本……九本。
禍々しく揺れる黒い尾。闇の気配を孕んだその毛並みは、燃え盛る炎を背景に異様なまでの存在感を放っていた。
「く、黒い九尾……」
その気配は彼女の肌を刺すように重く、呼吸さえ奪うほどの圧を持っていた。セリシアは反射的に聖剣を握り直す。刀身は既に変化を解き、最初の形態――輝きを帯びた純白の剣へと戻っていた。
「まさか……完全体ではないにしろ、この姿にまで追い込まれるとはな」
聖剣を握る手に、じわりと汗が滲む。
「あなたは……一体……」
問いに、異形の男は愉悦を含んだ声音で答えた。
「我は、この地に封じられし九尾。かつて人間どもは恐れ慄き、そしてこう呼んだ――禍尾とな」
「禍尾……!」
セリシアの脳裏に玉藻神社で聞いた老婆の話が蘇る。
『炎で町を焼き、人の魂を喰らい尽くした。黒く禍々しい九尾』
「あの銀髪の子供もそうだが、小娘……お前の魂も、質が良さそうだ」
禍尾の赤い瞳が妖しく光る。
「貴様ら共々喰らえば、完全なる姿を取り戻すための大きな糧となろう」
次の瞬間――禍尾の姿が掻き消えた。
「――っ!?」
背後に走る殺気。振り返るより早く、鋭い爪が振り下ろされる。
ガキィィン!
聖剣の刃が火花を散らし、その一撃を受け止めた。
セリシアの立つ地面が大きく割れる。
(くっ……重い!)
衝撃が腕を痺れさせる。セリシアは即座に受け流し、身を翻して距離を取った。だが禍尾の猛攻は止まらない。爪が嵐のように襲い掛かり、受けて、流して、躱して――それでもセリシアはじりじりと押されていく。
「どうした、小娘?」
禍尾の声が嘲る。
「守ってばかりでは、我は倒せぬぞ」
セリシアの額に汗が滲む。
(……何なの!?この、体にまとわりつくような……ねっとりとした感覚……。体が……重い……)
離れた場所でその攻防を見つめるルシアの眉がひそめられる。
(……妙じゃ。セリシアの動きが鈍い。あやつが、あれほど遅れを取るなど……)
その傍らで――。
「ぐ……っ」
矢島が肩を抱え、苦悶の声を漏らしながら膝をついた。
「矢島、どうしたのじゃ!?」
悠真の治療の手を止めずに、ルシアが鋭く振り返る。
「ルシア……寒い……寒いよ……」
のぞみが震える声でルシアのもとに身を寄せた。小さな体が小刻みに震えている。
「お主もか…… !?」
ルシアの目が鋭く周囲を走る。
ルシアの視線が広場を巡る。障壁に守られて眠っていた買い物客たち――彼らもまた、うなされ、苦しげに身をよじっていた。
「まさか……!」
その時、ルシアはさらに気づく。治癒魔法をかけ続けている悠真の傷が、まるで癒えていない。
いや、それどころか――魔力が外に漏れ出していた。
「……これは……何かの力に干渉され、魔法陣に込められた魔力が……漏れておるのか!?」
信じ難い現象にルシアの顔が険しくなる。
禍尾の周囲に漂う、重苦しい闇の気配。
それは戦っているセリシアだけでなく、障壁の内にいる者たちの生命力や魔力までも蝕んでいた。
そして、悠真にも異変が起きている事に気づく。
「いかん……!」
ルシアの指先が震えた。悠真の傷口にかけ続けている治癒魔法――魔法陣の光が弱まり、消えていこうとしていた。
「塞がり始めていた傷が……再び開いておる……」
見れば、悠真の脇腹から滲み出た血が、服を濡らし始めていた。
「まずい……!」
ルシアは即座にセリシアへ念話を飛ばす。
(セリシア! 急いでそやつを倒せ! この場に留まる異様な力のせいで悠真の命が蝕まれておる!)
その言葉に、セリシアの心臓が凍り付いた。
(悠真が……!)
恐怖と焦り。その一瞬の迷いを、禍尾は逃さない。
「隙だらけだぞ、小娘ッ!」
九つの尾が一つの束になり唸りを上げ、空気を裂いた。
まるで大地そのものが叩きつけられたかのような衝撃が、セリシアの身体を襲う。
「くっ――!」
聖剣で必死に受け止めるが、その圧は常軌を逸していた。
(う……受け止めきれないっ……!)
次の瞬間、轟音と共にセリシアの体は矢のように吹き飛ぶ。
二階の柱を木端微塵に砕き、さらに天井を突き破り、瓦礫と粉塵を巻き上げながら――そのまま三階の天井へ叩きつけられた。
「お姉ちゃん!!」
のぞみの悲鳴が障壁の中から響く。
禍尾は獲物を追う獣のように、裂けるほど口を開いた。炎が喉奥で渦巻き、やがて巨大な火球となる。
「滅びよ……」
紅蓮の塊が生まれ、セリシアの吹き飛んだ三階へ向けて撃ち出される。
ドォォォォン!!
轟烈な爆炎が広場を照らす。割れたガラスが宙を舞い、鉄骨が悲鳴を上げる。吹き荒れる衝撃波がルシアの張った障壁を叩き、矢島やのぞみ達の体を容赦なく揺さぶった。
「な、なんて力だ……」
矢島は蒼白な顔で呟く。両肩を抱え込み、震えながらも目を逸らせなかった。
――これは人間の所業ではない。現実が、彼を嘲笑うかのように迫っていた。
禍尾は下卑た笑みを浮かべ、爆炎の余韻を愉しむ。
「くかか……あの娘、随分苦しそうだったな。それに、この場にいる者たちの顔も良い……我が妖気に当てられ、生命力を削られていく様は……実に心地よい」
障壁内を見やれば、矢島は青ざめて膝を抱え、のぞみは震えながら息を荒げ、他の買い物客たちも呻き声を上げていた。
悠真の呼吸も浅く、肩がかすかに上下しているだけ。
(……妖気、か)
ルシアは奥歯を噛みしめる。
(魔の力とも瘴気とも異なる……人の魂を直接蝕む、我の知らぬ力……。このままでは悠真も、障壁内の者らも助からん……)
打開策はただ一つ。
「やはり、あやつを斃すしかない……!」
ルシアの双眸が、禍尾を鋭く射抜く。
その時。
(ルシア……! 悠真はあと、どれほど持ちますか!?)
念話越しに届いたのはセリシアの切迫した声だった。
ルシアはわずかに視線を伏せ、答える。
(セ、セリシアか!? ……むぅ、妖気に蝕まれ、怪我に加えて生命力まで奪われておる。持って五分じゃ。それ以上は……命が持たぬ)
突きつけられる残酷な現実。
広場に立つセリシアは、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
だが迷いは一瞬だけだった。
(……分かりました)
セリシアの声は短く、だが揺るぎなかった。
爆炎の向こう。
粉塵を裂いて、聖剣の光が再び立ち上がる気配があった。
次の瞬間――轟音と共に、鋭い閃光が三階の床を貫き、一直線に禍尾へと突き刺さった。
その衝撃で三階のフロアが崩落し、瓦礫が雨のように降り注ぐ。
「風帝・瞬牙!!」
セリシアの突きは稲妻のような速さで禍尾を穿った。
咄嗟に九つの尾を束ね、正面から受け止める禍尾。だが、衝撃は凄まじく、足元の床は粉砕され、下半身が地面にめり込む。
後方の瓦礫は吹き飛び、炎の残滓は一瞬で掻き消される。衝撃は壁を蹴散らし、建物の外へと迸る。まるで建物そのものが貫かれたかのように、巨大な穴がぽっかりと空いた。
「ぐっ……!」
それでも、禍尾はなお立っていた。
「クク……それで倒せると思ったか!」
尾を弾き、逆にセリシアを押し返す。
セリシアは歯を食いしばる。
「くっ……」
(硬い! 尾の一撃も重すぎる……あれに力が集まってるの!?)
汗が額を伝う。剣を握る手が震えた。
禍尾の猛攻が始まった。爪が閃き、尾が鞭のように襲いかかる。セリシアは必死に捌き、躱すが、体は重く、息は荒い。
(セリシア! あの尾を狙え!!)
ルシアの念話が脳裏に響く。
(ルシア!?)
(奴の尾から禍々しい力を感じる。恐らく――あれが力の源じゃ!)
セリシアは尾を鋭く見据える。
(……悠真を助けるためにも……もう時間がない!)
瞳が碧から黄金に変わり、聖剣が淡く光を放つ。
その瞬間、空気が一変した。
(……この女……雰囲気が変わった?)
禍尾が警戒し、尾を構える。
セリシアは息を整え、聖剣を強く握り込む。
(この状態は長く持たない……一気に決める! 必ず悠真を助ける!!)
聖剣が白銀の太刀へと変貌する。迷いのない眼差しで構えを固め、踏み込む足が大地を蹴る――その瞬間、空気が切り裂かれ、セリシアは禍尾との距離を一気に詰める。全身から漲る気迫が、静寂を裂き、戦場の重力さえ歪めるかのようだった。
「ふん、同じ突進か?焦りで判断を誤ったか!」
禍尾は九つの尾を槍のごとく突き出し、セリシアを串刺しにせんと襲いかかる――
だが、貫いたのは幻影だった。
「なっ!?」
気づいた時には遅い。幻影が左右に分かれ、禍尾の背後へ回り込み――同時に閃光が弧を描いた。
アーデルハイト流刀剣術・二式――
「二月!!」
斬撃が尾の根元を裂き、黒い尾が地に落ちる。
「がぁぁぁっ!」
禍尾が絶叫し、憤怒に顔を歪める。
「この……小娘がぁぁ!!」
振り返りざま爪を振り下ろす――しかし、刹那。
スッ――
自身の身体を一直線に貫く冷気のような気配。
「な……?」
青白い波紋を纏う剣閃が、静かに、しかし確実に己の中心を切り裂く。
ヴァルフォード流剣術――
「水帝・波紋斬り」
血飛沫が舞い、禍尾の顔と体が中心を境に裂けた。慌てて裂けた顔を両手で押さえる禍尾。その身体を駆け抜ける恐怖が、彼の全身を震わせる。
(まずい……これ以上の損傷は致命的だ! 退くしかない!)
禍尾は踵を返し、稲妻のように跳躍し空へ逃げる。
「セリシア!奴を逃がすな!!」
ルシアの叫び。
(もう我に追いつける者など……)
だが、その前に白銀の影が背を向ける様に立ちはだかっていた。
「な……なぜここに…… !?」
見開かれた禍尾の瞳に映ったのは、自分を見下ろすセリシアの姿だった。抜刀の構えを解こうとするその指先の動きに、鞘口からわずかに覗く刀身が黎明の光のように鋭く煌めく。そして、静かに――しかし確実に――刀が鞘に収まる「キィン」という金属音が響いた。
アーデルハイト流刀剣術・七式――
「黎明・虚断」
次の瞬間、禍尾の視界が裂ける。
縦一文字に斬り裂かれ、燃え上がりながら断末魔を上げる。
「ば、馬鹿な……この我が……人間ごときに……」
声は掻き消され、黒き九尾は炎に呑まれて燃え尽きていった。
静寂。
燃え残る瓦礫の中に、セリシアは静かに降り立った。
あれほど猛り狂っていた炎は、徐々にその勢いを失い、やがて炭火のように弱々しく揺らめくだけとなった。
「お、終わったのか……?」
矢島は両肩を抱きしめるようにして両膝をついていた。先程まで全身を苛んでいた悪寒は、気づけばすっと消えていた。
「ふぅ……どうやら、何とかなったようじゃな」
ルシアも大きく息を吐き、胸を撫で下ろす。彼女の前に展開されていた治癒魔法の陣が再び淡く光を帯び、途絶えかけていた悠真の脈動を確かに繋ぎ止めていた。
セリシアはその光景を見るや否や、慌てて悠真の元へ駆け寄った。
「悠真っ!!」
床に仰向けに倒れる悠真の傍らに膝をつき、震える手で頬に触れる。閉じられた瞳は未だ開かず、その顔は青ざめていた。
「悠真……すみません。辛い思いをさせてしまって……」
か細い声が漏れる。自分を責めるような響きに、痛切な想いが滲む。
「安心せい。傷はもう……塞がりつつある」
ルシアが静かに告げる。その言葉に、セリシアの張り詰めていた心がようやく解けた。
「……良かった……」
ぽろり、と涙が零れ落ち、悠真の頬を濡らした。セリシアは嗚咽をこらえながらも微笑み、彼の手をぎゅっと握り締める。
広場を囲っていた炎も、完全に消え去る。赤黒く焼け焦げた鉄骨が軋み、静寂だけが残った。
「ふぅ……これでもう大丈夫じゃろう」
額の汗を拭うルシア。その声音には、いつもの自信と同時に、仲間を守りきった安堵が宿っていた。
「ルシア、本当に……ありがとうございます」
セリシアは深々と頭を下げる。
「礼は無用じゃ。我もお主と同じだ。悠真を助けたかっただけじゃよ」
ルシアはそっぽを向くようにして言いながらも、その声音は不思議と柔らかかった。
「ルシア……」
セリシアはその背に感謝を込めて名を呼ぶ。
「悠真お兄ちゃん、もう大丈夫なの?」
心配そうに駆け寄ったのぞみが、そっと覗き込む。
「ええ……もう大丈夫ですよ」
セリシアは涙を拭い、今度は安心の笑みを浮かべてのぞみの頭を撫でた。
「うんっ!」
のぞみはぱっと花のような笑顔を咲かせ、緊張で固まっていた空気が少しずつ和らいでいった。
その時――。
「さて、お前達には……色々と聞きたいことがある」
矢島が低く口を開いた。警察官として、そしてこの異常事態の目撃者として。
だが、その言葉は別の声に遮られる。
「や、矢島さーん!!」
広場の向こうから、慌ただしく走ってくる人影。振り向いた先には、手を振りながら駆け寄る泉刑事の姿があった。
「あいつも無事だったか……」
矢島は胸を撫で下ろしつつも、その姿にどこか呆れたように眉を寄せた。だが、次の瞬間――目を疑う光景が目に飛び込む。
泉の背後から、黒い靄がゆらりと立ち上っていたのだ。
「泉! 後ろだ!」
矢島は咄嗟に叫ぶ。
「へ?」
間の抜けた声を上げて振り返った泉の視界に、自分を喰らわんと迫る黒き靄の塊が飛び込んだ。
「な、何だこれ!?」
恐怖に目を見開く泉。
その異様な気配に、セリシアとルシアも息を呑む。
「あ、あれは…… !?」
「間違いない!この禍々しき力……奴か。あの狐、まだ生き延びておったのか!」
二人が驚愕する間にも、黒い靄は泉を呑み込もうと覆いかぶさる。
「泉!何してる!?早く逃げろ!」
矢島の怒号が響く。
「う、動けない……!」
泉の膝が崩れ、尻餅をついた。異質な妖力に体を縛られたかのように、恐怖で一歩も動けない。
「いけない!」
セリシアとルシアが同時に駆け出そうとした、その瞬間――
「去りなさい……」
低く澄んだ声と共に、泉の足元に巨大な魔法陣が展開した。淡い光が迸り、黒い靄を包み込む。
「えっ!?」
「なんじゃと!?」
驚きに目を見開く二人。声の主を探し、彼女らの視線が向かった先―― そこには、宙に浮かぶのぞみの姿があった。
金色に輝く瞳、柔らかな光を纏ったその姿は、いつもの無邪気な少女の面影をまるで残していなかった。片手を前に突き出し、威厳を湛えたその姿は神々しさすら帯びていた。
「こ、これは……どういう事じゃ……? ん……セリシア、見ろ! 悠真の指輪が!」
ルシアに促され、セリシアは悠真の手元へ目を向ける。
その指先にはめられた指輪が、淡く光を放っていた。
「ゆ、指輪が……光って……。そ、それに……の、のぞみちゃん……?」
セリシアが恐る恐る名を呼ぶ。
だが、返ってきた声は幼い少女のものではなかった。
「ここは、貴方が居るべき場所ではありません――」
凛とした大人の女性の声。気品を漂わせ、透き通るような響き。
「一体……何が起きておるんじゃ……」
ルシアが呟く。
魔法陣から放たれる光は次第に強さを増し、黒い靄を削ぎ落とすように浄化していく。だが、靄は抵抗するように凝縮され、一点に収束し球体となった。
「まだ抗うか……!」
バリィン!
甲高い破裂音を立て、球体は光の陣を突き破る。そのまま空へと吹き抜けを駆け上がり、遠い空の彼方へ消え去った。
「逃げましたか……」
のぞみ――否、その内に宿る何者かが淡々と呟く。
「のぞみちゃん……?」
セリシアが再び呼びかける。
ゆるやかに振り返ったのぞみは、静かに言葉を紡いだ。
「――気をつけなさい」
次の瞬間、黄金の輝きはふっと掻き消え、彼女の体を包んでいた光も溶けるように消失する。糸が切れた人形のように、のぞみはその場に崩れ落ちた。
「のぞみちゃん!」
セリシアは慌てて駆け寄り、その小さな体を抱きとめる。ルシアや矢島もすぐさま傍に寄った。
「のぞみちゃん! しっかり!」
「ん……ふぁ? セリシアお姉ちゃん……?」
のぞみは寝ぼけたような声で目を開ける。
「よ、よかった……!」
安堵の涙が滲むセリシア。その表情に、ルシアも矢島もほっと息を漏らす。
「い、一体今のは何だったんだ……」
矢島が苦々しく呻いた。
「さぁな……我らとて分からぬ」
ルシアも首を振る。
少し離れた場所で、尻餅をついたままの泉が呟いた。
「な、何なんだ一体……」
広場にはまだ、黒い靄の残り香が薄く漂っていた。




