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第三十三話 蝶々の髪飾り

商店街の裏手、ビル群の狭間にひっそりと佇む小さな神社――玉藻神社。

古びた石の鳥居と苔むした石段が、周囲のネオンや人波とは不釣り合いなほどの静けさを醸し出している。その名は古くからこの街に住む者なら誰もが知っており、開発の波に押されながらも取り壊されることなく、長い年月を耐え抜いてきた神社だ。


神主はすでに存在せず、今は近隣住民たちの手で細々と掃き清められている。昼間は買い物帰りの人や学生たちが神社の前を通り、近隣の年寄り達が手を合わせる姿も見られるが、夜ともなれば神社の境内や周辺は途端に人の気配を失う。

都会の喧騒が遠くから響く中、この場所だけが時間の流れから切り離されたように、薄暗く静まり返るのだ。


――だが最近、その静寂を乱す影があった。


「夜になってもまだあっちーなー」


「そんな時はやっぱこれだろ?」

仲間の一人が缶ビールを放る。


「サンキュー」

男は軽く礼を言い、そのままビールをあおった。喉を鳴らして飲み干す音が、静まり返った境内にやけに響く。


「てかよ、いつまでここで張ってりゃいいんだ?」

「さあな。上の指示があるまでだろ」

「……あの刑事の見張りも飽きてきたな」

「最近じゃ、ほぼ毎晩ここに来てるもんな。刑事があの商店街に顔出すたびに、俺たちも張り込みだ」


湿った夜気の中、黒いフードや派手なピアスを身に付けた若者たちが、夜な夜な玉藻神社の境内に集まり、タバコをふかしながら笑い声を上げている。彼らの右腕には、共通して死神を象った髑髏が描かれたタトゥー――「ツインスカル」の印。最近、東京を中心に勢力を広げている事で名を知られた半グレグループだ。


「そういや他の連中は?」

「刑事に関わる奴らの素性を探ってるみたいだぜ」

「へぇ……相馬さん、何であの刑事にそんなこだわってんだ?」

「詳しくは知らねぇけどな。昔、なんか因縁があったらしいぜ? あまり聞くとマジで怒るから、俺もそれ以上突っ込めねぇわ」

「ま、俺らは言われたことをするだけだなっと」


男の一人が立ち上がり、近くの古びた石の台座に手をついた――その瞬間。


ガタリッ


低い音を立てて石が崩れた。

慌てて身を引く男たちの足元で、長年動かされなかった石がずれて地面に転がる。

それは墓石のように見えたが、形は微妙に違っていた。

台座の中央には、丸い紙札が貼り付けられている。長年その上に石が乗せられていたせいで、誰の目にも止まらなかったのだろう。


「……なんだこれ?」

タバコを咥えたまま、男がしゃがみ込み、その紙をつまんで剥がし取った。


途端に、境内を包む空気が変わった。

さっきまで蒸し暑かった夜風が、妙に冷たく肌を撫でていく。


「……おい、なんか変じゃねぇか?」

ひとりが眉をひそめる。


「気のせいだろ」

札を握った男が軽口を叩いた、その時――。


「あ……あぁ……!」

仲間の一人が怯えて声を震わせる。


「……なんだよ?」


「う、後ろ……」


「は?」

札を持った男が振り返る。


次の瞬間、闇が形を持ち、男を呑み込んだ。

夜の都会にぽつりと取り残された古い神社。

都会の雑踏のすぐそばで、今、誰も知らない何かが目を覚まそうとしていた――。



10月に入り、ようやく夏の名残りも薄れてきた。

昼間の陽射しはまだ強いが、夜風はひんやりと心地よい。

そんな秋の夜、居酒屋「えにし屋」の暖簾がゆらりと揺れた。


「生ビールを一杯くれ」

「僕も生で!」


入ってきた二人の男が、カウンター席に腰を下ろすなり声を揃える。


「生二つですね!」

セリシアがぱっと笑顔を見せ、元気よくオーダーを取った。


注文したのは、警視庁捜査一課の矢島刑事と泉刑事。

以前、事件の調査で訪れたこの店に、今では矢島が常連のように通っている。


「いやぁ~、矢島さんが仕事終わりに毎晩どこ行ってんのかと思ったら……まさか、前に調査で来たこの店に通って飲んでたなんて!驚きですよ!?」

興奮気味に声を上げる泉に、矢島はうんざりした顔でため息をつく。


「……お前は相変わらずうるさいな。だから連れてきたくなかったんだ」


「えぇっ!? ひどいですよ!僕は矢島さんの相棒じゃないですか!黙って一人で楽しむなんて、水臭いですよ!」

泉が半ば訴えるような声を上げたちょうどその時――


「お待たせしました、生ビール二つです!」

セリシアが軽やかにジョッキを運んでくる。琥珀色のビールに泡がきめ細かく立ち、テーブルの上に涼やかな気配を添えた。


「ああ、ありがとう」

矢島は短く礼を言う。


「どうも!……てか、やっぱり君めっちゃ可愛いよね!?」

泉はビールを受け取るなり、勢いよくセリシアを褒めた。


「初めて来たときもびっくりしたんだよなぁ。なんでこんなに可愛い子ばっかりいるんですか、この店!」


セリシアは少し困ったような笑みを浮かべて頭を下げる。

「えっ、あー……ありがとうございます」


バシッ!


「痛っ!?」

泉の頭を矢島が軽くはたいた。


「刑事が店の子をナンパするな。恥ずかしいだろうが!」


「な、何するんですか!?」

泉は頭をさすり、涙目で抗議する。


「だって本当のこと言っただけじゃないですか!ここの女の子たち、みんな可愛いんですよ!? 声かけない方が失礼でしょ!?」


「やかましい!」

もう一度、矢島の手が泉の頭を叩く音が響いた。

周囲の客たちが思わずくすっと笑う。


そんな二人のやり取りを見て、セリシアは小さく吹き出した。

「ふふ……仲がいいんですね、お二人」


「いや、どこがだ」

矢島は眉をひそめながらも、ジョッキを持ち上げた。

泉は「仲良しですって!」と笑い返し、二人は同時にビールをあおる。


えにし屋の夜は、今日も変わらず賑やかで、どこか温かかった――。


セリシアはカウンターの奥に戻ると、厨房で料理をしている悠真へと声をかけた。


「……あの刑事さん、最近ほんとによく来られるようになりましたね」

視線の先では、いつものように無口な矢島と、隣でおしゃべりを止めない泉が並んでビールを飲んでいる。セリシアは穏やかな笑みを浮かべた。


「そうだね。」

悠真はちらりと店内の方を見やりながら、やわらかく答える。

「ここで飲むのを楽しんでくれてるのは嬉しいけど……たぶん、あの人が来る理由は――」


その言葉を遮るように、店の奥の廊下から軽やかな足音が近づいてきた。


「のぞみちゃんですね」

セリシアが口元を緩めてつぶやくと、店の奥から元気いっぱいに少女が姿を現す。


「矢島のおじちゃんだー!」

のぞみが矢島を見つけるなり駆け寄った。


「おー、今日も元気だなぁ」

矢島の表情がふっと柔らかくなる。普段は鋭い眼差しをしている彼だが、今はすっかり優しい“おじさん”の顔だ。

ごつごつした手でのぞみの頭をわしゃわしゃと撫でると、のぞみは嬉しそうに笑った。


「のぞみちゃんも、すっかり懐いちゃいましたね」

セリシアはカウンター越しに微笑ましくその光景を見つめた。


「いやー、僕は驚きですよ」

カウンター席から泉が声をかけてきた。


「ただでさえ矢島さん、仕事終わりに飲みに行くなんて滅多になかったのに……。最初はふらっといなくなるから、また一人で何か事件でも追ってんのかなーって思ったんですよ。でもまさかね、ここの居酒屋に通っているなんて!あの矢島さんが、ですよ?」

泉は感心したように矢島と少女を見やる。


悠真はくすっと笑って首を振った。


「矢島さん、ここに来るようになってから、なんというか……雰囲気が少し変わった気がします。もちろん、のぞみちゃんのおかげでしょうけど。僕たちの接客が少しでも影響を与えられたなら、それはそれで嬉しいな、なんて。ちょっと欲張りでしょうかね」


「そんなことはない」

低い声が会話に割り込んだ。矢島が少女の頭を撫でながら、ふとこちらを振り返る。


「確かに、この店に来るようになったきっかけは……この子かもしれん。だが、それだけじゃない。この店は気に入ってる」

そう言う矢島の目は真っすぐで、刑事らしい真剣さの中にどこか温かさがあった。


悠真は少し目を見開き、それからゆっくりと笑った。


「そう言っていただけるなら、こちらも光栄です」

セリシアも思わず頬を緩める。


賑わう店内の喧騒の中で、カウンター席だけが少しだけ柔らかな空気に包まれていた――。


そして、カウンター席で矢島や泉と他愛ない話をしていたときだった。

少し離れたテーブル席から、耳に引っかかる話が聞こえてくる。


「そういえばさ、最近この辺で火事があったの知ってる?」

「知ってる知ってる! でもあれ、ボヤ程度だったんじゃない?」

「えっ、そうだっけ?」

「俺も聞いた。しかも、それだけじゃなくて最近この近所、ボヤ騒ぎ多いらしいぜ」

「そうそう! あとアレも!」

「アレ?」

「ほら、変な若い連中が増えたってやつ!」

「あー、あのタトゥー入れた奴らね」

「そう! 先月だってこの近くの神社が荒らされたんだろ? 絶対あいつらの仕業じゃね?」


楽しげに噂話をする客たちだが、その内容は妙に物騒だった。

矢島は無言でそちらを一瞥し、隣の泉も目を細める。


「大将さん、今の客が言ってた話……本当なのか?」

矢島が声を低くして尋ねた。


「ええ。実際にこのあたりで消防車やパトカーを見ることが増えましたし、神社の件も商店街の人たちから聞いていますよ」

悠真は真剣な顔で答える。


「そういえば佐和子さんも言ってましたね。神社がひどく荒らされて、片付けが大変だったって」

セリシアが思い出したように口を挟む。


「その神社ってのは玉藻神社だよ。ずっと昔からこの地域にある古い神社でね。前は神主さんもいたらしいけど、今はもういないみたい。それで、地域の人たちが交代で世話をしてるんだ」

悠真が説明すると、セリシアは首をかしげた。


「神社……あまり馴染みがないのですが、確か神様を祀っている場所、ですよね?」


「そうそう。玉藻神社も狐の神様を祀っているんだ。確か、あの神社には何か言い伝えもあった気がするんだけど……。ちょっと思い出せないや。佐和子さんや昔からこの商店街に居る人達なら詳しいんじゃないかな」


「そうなんですね。今度お会いしたら聞いてみます」

セリシアが微笑む横で、矢島は無言で顎に手をやった。


「泉、何か聞いてるか?」

「いや、特に報告は上がってないですね……」

泉は首を振る。


「刑事さんたちでも知らないことがあるんですね?」

セリシアが素朴な疑問を口にすると、泉がにこりと笑った。


「そりゃそうですよ。こういうボヤ騒ぎや軽犯罪は、まずは地域の交番や所轄の警察署が担当しますから。本庁――僕らみたいな刑事課は、事件が大きくなったり、広域性があるって判断されたときに動くんです」


「なるほど……」

セリシアは感心したように頷いた。


矢島はジョッキの中身を見つめながら、低くつぶやく。

「ボヤが増えてる……。神社荒らしも……ふむ」

(それに、タトゥーを入れた連中か……)


その表情は、何かを繋ぎ合わせようとしている刑事の顔だった。

えにし屋の温かな空気の中に、一瞬だけひやりとした空気が漂った。


「矢島のおじさん、なんか難しい顔してるー!」

のぞみがぷくっと頬を膨らませる。


「ああ、ごめんごめん」

矢島は苦笑しながら、のぞみの小さな頭をぽんぽんと優しく撫でた。その仕草はどこかぎこちないが、深い優しさが滲んでいる。


「そうだ……」

ふと、何かを思い出したように背広の内ポケットを探り始めた矢島。


「のぞみちゃんに、これをあげよう」

差し出されたのは、小さな青い蝶々の髪飾りだった。


「わぁっ! いいの!?」

のぞみの目が輝き、声が弾む。


「えっ、こんな素敵なもの……いただいてもいいんですか!?」

厨房にいた悠真が驚いたように目を見開いた。


「ああ。俺が持ってても仕方ないからな……」

矢島は小さく笑うが、その表情にはどこか切なさが滲む。


「ありがとうございます。のぞみちゃん、ちゃんとお礼を言いましょうね?」

セリシアが穏やかに微笑みかけると、のぞみは元気よく頭を下げた。

「うん、ありがとう!」


その声が耳に届いた瞬間、矢島の胸にふっと別の声がよみがえる。

――(パパ、ありがとう!)

かつての愛しい娘の笑顔と声が、のぞみの姿に重なってしまう。

(……いけねぇな。重ねちゃいけないのに)

そう思いながらも、胸の奥の痛みと温もりはどうしようもなかった。


「気に入ってくれてよかったよ……」

矢島は小さな声で呟く。


その背後で泉が小声で問いかけた。

「矢島さん、それって……。本当にいいんですか?」


矢島も同じく囁くように返す。

「ああ。髪飾りは……やっぱり、誰かの髪に飾られてこそだろ」

わずかに目を細め、哀愁を帯びた笑みを浮かべた。


「おいで、のぞみちゃん。髪飾り、つけてあげような」

矢島はのぞみを抱き上げ、カウンター席にちょこんと座らせる。

不器用な指先で慎重に髪を整え、青い蝶々の髪飾りをそっと留めた。


「わぁ、ありがとー!」

満面の笑顔で振り返るのぞみ。その無垢な笑みが、矢島の胸の奥に温かく沁みる。


「すごく似合ってるよ、のぞみちゃん」

悠真が微笑む。


「ええ……本当に。雰囲気によく合ってます」

セリシアも頷くと、のぞみは照れたように頬を赤らめた。

「えへへー」


そんな和やかな空気の中、店の奥から落ち着いた声がした。


「急にのぞみの姿が見えんと思ったら……やはりお主のところにおったか」


赤い瞳を優しく細めながら、ルシアが現れる。

その気配は夜の月のようにしっとりとしていて、のぞみはすぐに笑顔を向けた。


「あーっ、ルシアー!」

「またお邪魔してるよ」

矢島も顔を上げるが、その視線は以前のような警戒心に満ちた刑事のものではなく、柔らかさを帯びていた。


「ふむ、その髪飾りはどうしたのじゃ?」

ルシアがのぞみの頭を覗き込み、青い蝶々の髪飾りを見て問いかける。


「矢島のおじちゃんにもらったのー!」

嬉しそうにのぞみが答えると、ルシアはふっと微笑んだ。


「そうか。……うむ、よう似合っておるぞ」

その声音は穏やかで、どこか慈愛すら感じさせた。


視線を隣の席に移し、ルシアが声をかける。

「ところで今日は一人ではないのか?」


「ど、どうも!僕、泉って言います!」

突然話しかけられた泉は背筋を伸ばす。


「以前、ここに来て……その、聞き込みの時に……」


「覚えておる。そこの刑事と一緒に来ていたな」

「はいっ! えっと、クロウさん、ですよね?」


ルシアは少し目を細めた。

「……おお、我の名を覚えておったのか」


「そりゃあもちろんですよ!こんな美しい人、忘れられるわけないじゃないですかっ!?」

泉の声が一段と熱を帯びる。完全に舞い上がっているのが誰の目にも明らかだった。


「さ、クロウさんも一緒に飲みましょう!僕が奢りますよ!」

泉は自分の隣の席をぐいっと引き、手を差し伸べるような仕草まで見せた。


しかし、ルシアはひらりと首を振る。

「その心遣い、感謝するぞ。……だが――」


「よっと」

ルシアはのぞみをひょいと抱き上げた。


「わっ!」

驚くのぞみの声が小さく響く。


「生憎、この子の寝る時間じゃ。続きはまた今度誘ってくれ」


「えー! まだ寝たくないー!」

のぞみが小さく手足をばたつかせる。


「えぇぇっ !?もう行っちゃうんですかぁ!?」

泉も同じくらい残念そうな声を上げた。


「では、皆の者、またな」

「ぶー……おやすみー!」

ルシアの腕の中でのぞみが手を振り、悠真やセリシアも微笑んで「おやすみ」と返す。

ルシアはそのまま奥の部屋へとゆったり歩き去った。その後ろ姿は優雅で、店の空気ごと静かに変えてしまうようだった。


「……あんなに美人で、子供の面倒見もよくて……あの包容力……最高すぎるだろ、クロウさん……」

泉がうっとりと呟く。


「えっ……」

「えぇっ!?」

驚愕の声を上げる悠真とセリシア。泉の表情は完全に恋する男のそれだった。


その横で、矢島は呆れ顔でジョッキを傾けビールを流し込む。

「だから……連れて来たくなかったんだよ」

その一言にカウンターの客が小さく笑いを漏らす。


こうして泉刑事は、この日を境に「えにし屋」の常連客の一人となったのは言うまでもない。


店の奥へ消えていくルシアとのぞみを見送りながら、少し離れたところで料理を運んでいた美沙とグレイは、その様子を横目にしていた。

料理を客席に並べ終えると、美沙がにこにことグレイに話しかける。


「ルシアさん、のぞみちゃんが来てからちょっと変わったよね。前はただの飲んだくれお姉さんだったのに」


「……まぁ、元々面倒見がいい奴ではあるのだろうな……」

グレイは腕を組んだまま、わずかに口元を引き結ぶ。だが、なぜか言葉をそこで濁した。


「え? なに? なんかあるの?」

美沙が首を傾げると、グレイは厨房奥へ鋭い視線を向け、小声で告げる。


「あの女……さっきカウンター裏から酒瓶を一本、こっそり持ち出した」


「……」

一瞬の間。美沙はジト目になり、深いため息をついた。


「やっぱりルシアさんはルシアさんだったかぁ……」


そう言いながら、にやりと意地悪く笑った美沙は、そっとセリシアの元に歩み寄ると、耳元でこっそり囁いた。


「ねぇセリちゃん。ルシアさん、酒瓶持って二階に行こうとしてるよ?」


セリシアの青い瞳がギラリと光る。

そして即座に踵を返すと、二階へ向かうルシアを追いかけ――


「――ルシア! 何をしてるんですかっ!」


雷鳴のような叱責に、ルシアの肩がビクリと跳ね上がる。

慌てて振り返った彼女は、抱えていたのぞみを落とさぬよう片腕で抱き直し、もう片方の手に握った酒瓶を慌てて背中に隠した。


「な、な、なんじゃ……べ、別に怪しいことはしておらんぞ?」

しどろもどろな声が、逆に怪しさ満点である。


「その手、見えてます! のぞみちゃんがまだ起きているのに、飲むつもりですか?」

セリシアの鋭い視線に射抜かれ、ルシアは冷や汗をだらだらと流す。


「い、いやこれは……えっと、その……」


「お酒は没収です!」

有無を言わさず、セリシアはルシアの手から酒瓶をスッと奪い取った。


「ま、待つのじゃ! ちょっとだけ! ほんの一口だけでいいから――!」

必死に腕を伸ばすルシアだが、セリシアはピシャリと首を振る。


「ダメです!」


「な、なぜバレたのじゃぁぁぁ!」

ルシアの悲痛な叫びは、階段を揺らしながら二階へと吸い込まれていった。


――もちろん、そのやり取りは一階の客席に丸聞こえである。


「……叱られるクロウさんも……最高に可愛い……」

カウンター席の泉刑事は、頬を赤らめて身をよじり、うっとりと呟く。


「……お前は何を言ってるんだ」

隣の矢島刑事は、頭を抱えながら深いため息をつくのだった。



東京湾に面した港の一角。

夜の帳が降りると、巨大なコンテナが並ぶ埠頭はひっそりと静まり返り、時折響くカモメの鳴き声や貨物クレーンの軋む音が不気味な余韻を残す。

薄暗い街灯の下をかすめるネズミの影さえ、都会の闇に潜む異様さを際立たせていた。


その一角に建つ古びた倉庫。

くすんだトタン外壁、重々しい鉄扉――外から見れば、ただ使い捨てられた施設のひとつにしか見えない。

だが二階の奥まった一室だけは、外の荒れ果てた景色とはまるで別世界だった。


部屋には場違いなほど高級なソファとガラスのローテーブル。

壁際の棚には輸入ウイスキーやワインの瓶がずらりと並び、天井近くには紫煙がゆらゆらと漂っている。

そこはツインスカル――東京港を根城に暗躍する半グレ集団の隠れ家にして、ヘッド・相馬仁が腰掛ける“玉座”だった。


ドカリとソファに腰を沈めた相馬は、片手でスマートフォンを弄びながら、咥えたタバコから紫煙を吐き出す。

その顔は鋭く、視線の先にいる者を射抜くようだった。

両腕に刻まれた死神の髑髏のタトゥーが、漂う煙に揺らめいては浮かび上がり、見る者の背筋に冷たい恐怖を刻みつける。


重苦しい空気の中、報告を終えた構成員の一人が、強張った表情のまま立ち尽くしていた。

そんな部下など意に介さぬように、相馬はスマートフォンの画面を睨みつけ、送られてきた複数の写真に鋭い視線を注いでいた。


「……なるほどな。あいつの行きつけの店ってわけか」


相馬の低い声に、報告者は小さくうなずいた。


「は、はい。特に……その店にいる子供を、ずいぶん可愛がっているようで……。最近では、泉って刑事と一緒にいる姿もよく見られるそうです」


相馬は「子供」という言葉に、ふっと口角を歪める。

指先で画面をスワイプし、そこに写る幼い少女――のぞみの姿を確認した。


相馬の視線は、スマホの画面に映る幼い少女に釘付けになっていた。

その少女――のぞみの髪に飾られた青い蝶の髪飾りが、彼の記憶を容赦なく呼び覚ます。


(……このガキが付けてる髪飾り。あの時のやつと、似てやがる)


10年前。大雨の降りしきる夜だった。

相馬は仲間と飲んだ帰り、車を暴走させ、一組の親子を轢いた。

鈍い衝撃。ハンドルを切り損ねたままブレーキを踏んだ時には、すでに遅かった。


車を乗り捨て、雨に濡れながら現場を離れようとした時、かすかな声が耳に届いた。


「マ……ママ……。おねが……い……ママを……たすけて……」


振り返ると、母親は大量の血を流し、子供を庇うように倒れていた。母親は即死に近い。だが子供はまだ息をしていた。

血に染まったアスファルトの上で、ただ一つ――白い蝶の髪飾りだけが汚れもせず、夜の街灯に淡く光っていた。


「ああ? まだ生きてやがんのか」


相馬は吐き捨てるように呟き、無表情のままその場を立ち去った。


(どうせ助からねぇ。目撃者もいなきゃ、俺は逃げ切れる)――そう考えたからだ。


だが後日、耳にした報せは相馬の心を冷ややかに凍らせた。

――あの親子は「警察関係者の家族」だったのだ。


ニュースは大々的に取り上げられ、警察は威信を懸けて捜査を拡大する。

(クソッ……厄介なことになりやがった)

一時は「目撃者はいない」と高を括っていた相馬のもとへ、やがて決定的な一報が届く。


――目撃者情報。「右腕に髑髏のタトゥーを入れた男」。


背筋を、氷の刃のような冷気が走った。

(見られた……!? いや、右腕だけだ。左までは見られていない……はずだ。だが――もし両腕に彫ってあることが露見したら……?)


その焦燥が、やがてひとつの答えを導き出す。

自らの両腕に刻まれた「死神の髑髏」を分散させるように、仲間へ右腕のみに同じタトゥーを刻ませる。

真犯人の影を紛れ込ませるための、煙幕の集団――それが「ツインスカル」の始まりだった。


だが皮肉にも、それはいつしか隠れ蓑を超え、倉庫街を支配する巨大な組織へと膨れ上がっていった。


相馬は煙草を咥えながら、天井を仰いで吐き捨てる。


(ちっ……あの事故さえなけりゃ、今ごろもっと派手にやれてたってのによ。結局、俺はあの日から“死神の鎖”につながれてやがる)


思考の淵に、ひとつの影が浮かぶ。

――矢島武史。

あの事故の直後から執拗に嗅ぎ回り、執念深く追い続けた刑事。だが、いつしかその名を耳にすることはなくなっていた。裏の情報によれば、独断での捜査が上層部に咎められ、表舞台から外されたという。

(結局、折れたか……いや――)


相馬は警戒心を怠らず、徹底して身を潜めながら、東京の裏で組織を操り続けてきた。だがここ最近になって、再び矢島の影がちらつき始めていた。組織が拡大し、死神のタトゥーを刻む構成員が人目につくようになったせいだろう。


「しつけぇにも程がある野郎だ……。だがな、矢島――もうすぐだ。近いうちに、この鬼ごっこに終止符を打ってやる」


相馬の口元に、不気味な笑みがゆっくりと広がる。

視線はスマホの画面に釘付けだ。そこに映るのは、小さな少女――のぞみ。


蝶々の髪飾り。

それは、あの日の記憶を呼び覚ます因縁の証だった。

記憶が甦るたび、相馬の胸奥で狂気は確実に膨張し、歪んだ愉悦へと変わっていく。


「……あ、それと……もう一つ、ご報告が……」


声を上げた構成員の顔には、言葉を選ぶ苦悩と怯えが色濃く滲んでいた。まるで、口にすれば命を縮めるとでも思っているかのように。

相馬は片眉をひそめ、鋭く射抜くような視線を向けた。


「……あん? 言ってみろ」


その一言に空気が一段重くなる。部屋にいた他の構成員も思わず背筋を伸ばした。


「……その、あの刑事の動きを見張っていた連中の一人が……連絡取れなくなりまして……」


「逃げたのか?」


相馬の低い声に、報告役は慌てて首を振った。


「い、いえ!ち、違うみたいで……。その時、一緒にいた仲間の話なんですが……」


「歯切れが悪いな。さっさと言え」


ドンッ!

相馬がテーブルを拳で叩きつけると、グラスが跳ね、場の空気が凍りついた。


「ひっ……は、はいっ! その……。商店街近くの神社で屯っていた時……黒い影みたいなものが現れたと……。で、そいつが仲間の一人を包み込んだ後、消えたそうで……」


「……はあ?」


相馬の眉がぴくりと動く。


「そ、それから、その仲間と連絡が取れなくなってるんです!」


一瞬の沈黙。

部屋の全員が相馬の反応を固唾を呑んで見守る。


「……チッ。くだらねぇ」

相馬は鼻で笑い、ソファに背を預ける。


「酒かクスリでもキメすぎて幻でも見たんだろうよ。ガキの怪談話じゃあるまいし」


「で、でも……」と構成員が食い下がるが、相馬の目が鋭く光る。


「――放っておけ。駒が一つ消えたところで、どうということはねぇ。それより優先するのは矢島だ」


スマホを指先で弾く。画面には、店の扉の前で矢島がのぞみを撫でている写真。


「あ、あの……これから、どうするんですか?」

報告を終えた構成員の声は震えていた。言葉の端に、今から告げる答えへの恐れが滲む。


相馬はしばらくその写真を見据えたまま、ゆっくりと煙を吐いた。

「そうだな……もう、コソコソ隠れてるのにも飽きた」

声にはどこか愉悦が混じっている。だが、その笑いは冷たく、底が見えない。


タバコの灰が静かに灰皿へ落ちる。相馬はソファにもたれ、低く、獰猛に笑った。

「これまでの鬱憤も晴らしたいしな。あの刑事の行きつけの店を揺さぶって、面白い顔を拝むのも悪くねぇ。手っ取り早く潰すなら――人質だ」


「人質ですか……?」

誰かの声がかすかに漏れる。


相馬は淡々と、しかし楽しげに続ける。

「クックック……人間ってのはな、一番大事にしてるモンを奪っちまったら、あっけなく壊れるんだよ」


その言葉とともに、場の空気が凍りついた。

構成員たちは皆、息を吞み、互いの顔を見る。その視線には逆らえぬ覚悟と、ほんの僅かな躊躇が混じっている。


「おい、その店については調べてあるのか?」

相馬が低く問いただす。声には殺気が滲む。


「い、いえ……そこまでは」

答えは震え、言葉は途切れがちだ。


「そいつはあいつの行きつけだろう。店の従業員とも、そこそこ親しくやってるはずだ。特に――あのガキだ。従業員と、そのガキを徹底的に調べろ」


「は、はいっ!」

命令に、誰もが反射的に応じる。相馬の瞳は冷たい獣のそれで、慈悲もためらいも消え失せていた。


夜の倉庫街に、次の一手を告げる冷酷な影が静かに伸びていく。

それは確かに、嵐の前触れだった。

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