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第三十一話 止まった時を動かす声

えにし屋の開店前、店内は慌ただしかった。

セリシアがテーブルに箸や皿を並べ、悠真が厨房で仕込みをし、美沙もその手伝いをしていた。


「――あれ?そういえばルシアさん、今日見かけてないんだけど?」

美沙がふと顔を上げて尋ねる。


「今、のぞみちゃんと出かけてます。散歩に連れて行ってくれてるんですよ」

セリシアが手を止めずに答えた。


「え、散歩? なんか意外。いつもお酒ばっかり飲んでるイメージだから」

美沙は目を丸くする。


「文句を言いながらもルシアも、のぞみちゃんのことは可愛いんですよ」

セリシアが微笑んだ、その時だった。


――コン、コン。


扉を叩く音が響き、場の空気が一瞬止まる。

グレイの瞳が鋭く光を帯び、警戒心を隠さない。


悠真が戸口に歩み寄り、扉を開けると、そこに立っていたのは二人の男――矢島刑事と泉刑事だった。


「こんにちは。お忙しいところすみません。再びお話を伺いたいのですが……篠崎美沙さんと、グレイ・ヴァルフォードさんはいらっしゃいますか?」

泉刑事が静かに問いかける。


「あ、はい」

悠真が答えると、二人の刑事は互いに視線を交わし、軽く頷いた。


「差し支えなければ、お二人にお話を伺っても?」


「どうぞ……」

悠真は彼らを店内に招き入れる。


「美沙さん、グレイさん。警察の方が話をしたいそうです」

呼ばれた二人は顔を見合わせ、落ち着いた様子で席についた。

セリシアがお茶を出し、一息ついたところで、泉刑事が口を開いた。


「先日、ソラマチで男たちが暴れた事件があったのはご存じですね?」


「はい……」

「……ああ」

美沙とグレイが頷く。


「その時の状況を詳しく教えていただけますか?」


二人は互いに息を合わせるように、淡々と説明していった。

やがて泉刑事が確認するように言った。


「つまり……篠崎さんとそのご友人が絡まれていたところを、ヴァルフォードさんが助けた、と」


「ああ、その通りだ」

グレイが落ち着いた声で答える。


「そのご友人についても伺っていいですか?」


「この店の常連で、名前はシェリアさんとリアさんです」


「ご住所までは……ご存じないですよね?」


「はい。そこまでは……」

美沙が申し訳なさそうに首を振る。


矢島刑事が身を乗り出した。

「もう一つ。あの出来事の後、周囲の買い物客の記憶が妙にあやふやでしてね。……何か心当たりは?」


「記憶……ですか?」

美沙は眉を寄せ、心底不思議そうな顔を作る。その演技は女優さながらだった。


「その時、彼女はひどく動揺していて、すぐにその場を去ったんだが……何かあったのか?」

グレイは逆に問い返す。まるで本当に事情を知らないかのように。


刑事たちは二人の表情をじっと観察した。


沈黙を破ったのは泉刑事だった。

「最後にひとつ、ヴァルフォードさんに。あなた、かなり強く抵抗したそうですね? 男たちに怪我を負わせたりは?」

あえて真実を伏せた“揺さぶり”だった。


「ああ……彼女を守るためとはいえ、彼らには申し訳ないことをした。……今更とは言え、彼らの怪我は大丈夫なのか?」

グレイは深刻そうに言い、さらに問い返す。演技は完璧だった。


「え、あ、はい……大きな怪我はなかったようです」

泉刑事の声にわずかな揺らぎが混じる。仕掛けたはずの揺さぶりが、逆に返されたのだ。


「そうか……それは良かった」

グレイが安堵したように肩を落とすと、刑事二人は思わず目を見合わせた。


芝居か、本心か――判断がつかない。


矢島はしばし沈黙したのち、短く言った。

「……わかった。協力感謝する。行くぞ、泉」


「え、あ、はい。皆さん、お時間いただきありがとうございました」

泉が軽く頭を下げ、二人はえにし屋を後にした。


扉が閉まった瞬間、店内に小さなため息がこぼれる。

「ふぅー……」

美沙が緊張から解放され、胸を撫で下ろした。


「なんとか……切り抜けられたみたいだな」

グレイも肩の力を抜く。


「でも、あれで信じてもらえたのかな……?」

不安げに美沙が問う。


「完全に、とはいかないだろうな」

グレイは正直に答える。


「ひとまずは様子を見ておくしかありませんね」

セリシアが静かに言葉を添える。


「そうだな。また何かあれば、きっと来る」

悠真も頷いた。


「できれば、もう来てほしくないですけど……」

美沙は情けない声を出し、皆の緊張を少し和ませた。



一方そのころ、矢島と泉は商店街を歩いていた。


「矢島さん、どうでした?」

泉が問いかける。


「……真実は言っている。だが――」


「全部は話していない、そんな感じですか?」

泉が言葉を継ぐ。


矢島は小さく口角を上げる。

「大分わかってきたじゃねえか」


「そりゃ、矢島さんと組んで半年ですから」

泉は少し誇らしげに笑った。


「この件は……事件性なしで保留だな。これ以上掘っても出てこねぇだろ」


「ええ、まあそうですね」


歩きながら、矢島はふと声を落とす。

「泉。この件、上には話してねぇな?」


「当たり前ですよ」

泉はすぐさま答え、少し眉をひそめた。


「無籍の人間を把握して何もしないなんて……言えるわけないでしょう。それに、例のタトゥーの件、矢島さんには関わらせるなって警部からも言われてますし」


苛立ちを隠せない泉を横目に、矢島は短くうなずく。

「そうか……」


数歩進んで、矢島は立ち止まった。

「それより、この前しょっぴいた奴……覚えてるか?」


「ああ。傷害事件で捕まった、右腕に“例のタトゥー”があった奴ですね」


「……死神のタトゥー」

矢島が低く呟く。


「って、さっき僕が言ったこと聞いてました?」

泉の苦笑混じりの声にも、矢島は反応しない。


仕方ないな――と泉は小さくため息をつき、説明を続けた。


「ええ。最近動きが活発になっている半グレの一派――ツインスカルの構成員です。リーダーはいまだに正体不明。構成員は皆、右腕に同じタトゥーを入れているため、誰が幹部か判別しづらく、リーダーに繋がる情報もほとんど掴めていません。しかも、本人は決して表に姿を見せず、部下を使い捨てのように動かしている……。

それにしても、妙なんですよね」


泉は淡々と語りながら、ほんのわずかに首を傾げる。


「チーム名はツインスカル。なのに、タトゥーはどいつも死神の髑髏が一つだけ――。二つ目の“骸骨”はいったいどこにあるんでしょうかね」


矢島の胸の奥がざわつく。

――死神を象った髑髏のタトゥー。

それは彼にとって、ある男へと繋がる唯一の手がかりだった。だからこそ、美沙たちの件でも執念深く調べ上げたが、結局掴めたのは謎だけだった。


「……戻るぞ」

矢島は思考を切り上げ、歩き出す。


「はい」


その時だった。


ドンッ――。

不意に何かが矢島にぶつかってきた。


「ん?」

思わずよろめき、視線を落とす。そこには銀色の髪を揺らす小さな少女。

驚いた瞳で矢島を見上げている。


「ほれ見ろ!周りを見ずに走り出すからじゃろ!」

少し離れた場所から、女性の叱る声が飛んできた。


泉が顔を上げると、少女に駆け寄ってくるその人物に気づいた。

「あなたは……」


女性も刑事二人の姿を認め、目を細める。

「お主ら、確か警察の……」


それはルシアだった。


「ええ、先日はどうも」

泉が答える。


「その様子だと、店に行ってきたのか?」

ルシアが問う。


「ええ、先ほど話を伺いました」


「ふむ……満足のいく結果は得られたかの?」

堂々とした態度に、泉は少し気圧されながらも口を開いた。

「ええ。ご協力ありがとうございました」


その横で、矢島が小さく呟いた。

「……なぜ?」


声は掠れて誰にも届かない。泉が怪訝そうに矢島を見た。

「矢島さん?どうしました?」


「……いや、何でもない」

矢島は慌てて取り繕う。


ルシアは眉をわずかに動かし、矢島を見つめた。


「貴女は確か……ルシア・クロウさんだったな」

矢島が名を呼ぶと、ルシアは少し驚き、すぐに薄く笑った。


「ほう、日本の警察、侮れんの」


「……その子は?」

矢島は少女に視線を戻す。


「知り合いから預かっておるだけじゃ」

ルシアはさらりと答える。


矢島は少女を見つめ、膝を折り、目線を合わせた。

「大丈夫か?周りをちゃんと見るんだぞ」


そう言って、少女の頭を軽く撫でる。

その仕草には、かすかな優しさと――胸の奥底に沈む痛みが混ざっていた。


「……ごめんなさい」

のぞみが小さな声でつぶやき、ちょこんと頭を下げた。


矢島は一瞬、言葉を失ったようにその姿を見つめ――やがて静かに立ち上がる。

「……では、我々はこれで」


軽く会釈をし、矢島と泉はその場を後にした。


――だが、歩き出した矢島の胸はざわついていた。


(……似ていた。娘に。容姿だけじゃない……雰囲気まで……)


先ほど少女の瞳を覗き込んだ瞬間、封じ込めてきた記憶が、容赦なく胸の奥から浮かび上がってきた。


幼い日、無邪気に笑いかけてくれた小さな娘。

「パパ」と呼びながら駆け寄ってくる姿。

その温もりを思い出すほどに、胸の奥が焼けるように痛む。


そして――あの日。

二度と呼ぶ声を聞けなくなった瞬間。

冷たくなった小さな手を握りしめ、泣き叫んだ記憶。


重ねるまいと必死に抗えば抗うほどに、目の前の少女の姿が、失われた娘と重なって見えてしまう。

記憶と現実の境が揺らぎ、心臓を締めつける痛みがどうしようもなく強まっていく。


(……望)


その名が、抑えきれずに唇から零れそうになる。

矢島はぐっと奥歯を噛みしめ、堪えるように口を閉ざした。


ただ前を向き、商店街の雑踏に身を沈める。

背後には、まだ娘の面影を残した銀の髪の少女が立っていた。


やがて二人の刑事は、雑踏の中へと溶け込んでいく。


商店街の喧騒にかき消されながらも、矢島の胸のざわめきは消えなかった。



ある夜のえにし屋。店内は常連客で賑わっていた。


カウンター席の端で、青い髪の女性がじっと悠真の指を見つめていた。

シェリアだ。


「……これは」

その視線の先には、悠真の指にはまった指輪。


「どうですか……?」

心配そうに尋ねる悠真に、シェリアはしばらく黙したまま考え込む。

やがて小さく首を振った。


「分かりませんね」

あまりにあっさりした答えだった。


「えっ……シェリアさんでもわからないんですか?」

肩を落とす悠真。


「すみません……」

申し訳なさそうに目を伏せるシェリア。


「指輪から子供かぁ……。ねぇ?」

隣に腰掛けていた銀髪の女性――リアが口を挟む。

「シェリア、それ一体どこから持ってきたの?」


「……教会の宝物庫にあった物だと思うのですが」

少し思い出すようにシェリアが答える。


「教会の宝物庫からって……いいの、それ?」


「許可はとってありますよ。それに、一応聖女ですから。それなりに権力もあるんです」

ふふっと笑う顔には、ほんのりと悪戯めいた空気が漂っていた。


もっとも、今日二人がえにし屋を訪れた理由は、指輪のことではない。

単純に――食事を楽しみに来ただけだ。


とはいえ、こちらの世界で過ごすための準備も必要だった。

セリシアの部屋でこちらの世界の服に着替え、持ち込んだ金細工を質屋に売って資金に換える算段を立てていたのだ。


悠真も、彼女たちから礼として受け取った金細工の扱いに困っていたため、これを機に一緒に質屋へ行くことにした。

ただ、異世界の品がこちらでどれほどの価値を持つか分からない。そこで、持ち込んだのは小ぶりな品を一つずつ。

――ルシアの助言によるものだった。


「主ら、そんなものを一度に持ち込んだら騒ぎになるぞ。最初は小さなやつの方がいいじゃろ」


結果的に、それは大正解だった。



商店街の老舗質屋「まるや質店」


カランコロン――。

戸を開けると、中には白髪の老人が座っていた。丸谷勝三(67)。長年この街で質屋を営んできた人物だ。


「これは……」

老眼鏡越しに宝石を覗き込む丸谷。悠真とシェリアが出したのは、小粒のダイヤとルビーだった。


「ゆ、悠真くん。それと……お嬢さんも。これ、一体どこから?」


「えっと……やっぱり買い取りは難しいですか?」

悠真が恐る恐る尋ねる。


丸谷は鑑定用のライトを手に取り、ダイヤを傾けた。

「普通ならな。まず、鑑定書がない」


「鑑定書……ですか?」


「そう。宝石はただ“本物かどうか”じゃなく、その品質を国際基準で評価した“グレーディングレポート”ってものが必要なんだ。

特にダイヤは“四つのC”――カラット(重さ)、カラー(色の透明度)、クラリティ(傷や内包物の有無)、カット(輝きのバランス)。

この四つで値段が桁違いに変わってくる」


「へぇ……そんなに細かいんですか」

悠真は思わず聞き入ってしまった。


丸谷はふっと笑い、ルビーへと手を移す。

「ダイヤほど国際的に統一されてはいないが、ルビーやサファイアにも色や産地を判定する鑑別書が付く。これがあるだけで信用度が全然違うんだよ」


丸谷がさらに続ける。


「それに出所が分からん石は危ない。盗品かもしれんし、合成石や処理石の可能性もある。普通の店なら門前払いだ」


「……!」悠真は冷や汗をかいた。


シェリアは怯まずに答える。

「ですが、店主なら分かるのでしょう?」


「……ふむ」

丸谷はルーペで覗き込み、強いライトを当てる。しばしの沈黙のあと、眉をひそめる。


「……これは天然石だな。それも相当質がいい。無処理の石なんて、今じゃ市場にほとんど流れない。どうやって手に入れたんだ?それに、その様子だとまだ持ってるんだろ?」


「そ、それは……」悠真が口ごもる。


「まぁいい。私も根掘り葉掘り聞かん。ただし――」

丸谷は指を突きつけた。


「こういう物は“少しずつ”売れ。でないと怪しまれる。世の中には宝石マフィアもいるし、金に飢えた連中はすぐ嗅ぎつける。分かったな?」


「はい……!」悠真は慌てて頷いた。


「それと、売るなら必ず私の所に持って来い。よそに出せば間違いなく安く買い叩かれるか、最悪トラブルになる。――そちらのお嬢さんも」


「分かりました。ありがとうございます」

シェリアも真剣に頭を下げた。


結局、この日は小粒のダイヤとルビーを無事に換金できた。相場よりは少し安めだが、信頼できる金額を提示してもらえたことに安堵する。



そして今に戻る。


「それにしても……あの指輪に刻まれた文字……」

カウンター席で、シェリアが悠真の指輪について思考に走っていた。


「……ドワーフ文字? いや、線が細かすぎる……エルフの古語に似てもいるけど……違う。あれは一体……」

青い髪を揺らしながら、ぶつぶつと独り言のように呟く。


そのすぐ横。


「悠真さん、生ビールひとつ!あとタコの唐揚げね!」

リアが勢いよく注文し、場の空気を一瞬で明るく変える。


「は、はいよ!」

悠真が返事をすると、リアは椅子の上でぐるりと回って店内を見渡した。


「……あれ? 今日、魔王いないじゃん?」


視線の先には、セリシアと美沙が忙しそうに注文を取っている姿があった。

そのタイミングで、ドンッとカウンターにジョッキが置かれる。


「生ビールだ」


差し出したのは、黒Tシャツに“えにし屋”の刺繍入り白エプロンを着たグレイ。


「おおっ! グレイ! なんか意外と似合ってるじゃん、その格好!」

リアが満面の笑みでからかうように言う。


「世辞はいい。……ルシアなら二階でのぞみの面倒を見ている」

ぶっきらぼうな答えに、リアは二度驚いた。


「えっ? 魔王が? 子供の面倒? ……ていうか、グレイ、魔王のこと“ルシア”って呼んだ!?」


一瞬、グレイの表情がぎこちなくなる。


「……ここで働く以上、悠真から“仲間として接してほしい”と頼まれた」

「それで呼び方も変えたと?」シェリアが補足するように尋ねる。


「ああ」グレイは短く答えた。


一週間ほど前に来た刑事たちの妙な疑いを晴らすため、グレイは「この店の従業員」ということにされた。

それ以来、彼は実際にえにし屋で働くようになったのだ。


もっとも、グレイにとってそれは不本意どころか好都合だった。

もともと世話になっている以上、何かしら手伝いをしたいと考えていた矢先のことだったからだ。


「えー、それなんかズルい! だって悠真さんのことも呼び捨てにしてるでしょ!? 私だけ仲間外れみたいじゃん!」

リアが頬を膨らませる。


「そんなことはありませんよ? 私は今でも敬語ですし」シェリアが真面目に返す。


「いや、シェリアは……なんかそういうんじゃないの!」

リアは身を乗り出してぷりぷり抗議する。


そして、カウンター越しに調理中の悠真へ向き直る。


「ねぇねぇ悠真さん! 私も悠真さんのこと呼び捨てでいい? 逆に私のことも呼び捨てで呼んでほしい! そんでさ、喋り方ももっとフランクにしてよ! なんか距離あるっていうかさ!」


突然の要求に、悠真の手が止まる。

「えっ? あ、ああ……別に構わないけど……」


「よっしゃ! じゃあ決まり! ね、悠真!」


「え……お、おう」

ぎこちなく返す悠真。


リアは嬉しそうにジョッキを掲げて笑った。

「にひひっ!」


その笑顔につられて、シェリアも思わず口元を緩める。

グレイは呆れたように肩をすくめながらも、どこか安心したようにその光景を眺めていた。


「そういえば――」

注文を終えて戻ってきたセリシアがカウンターに身を寄せる。

「警察の方、あれから来なくなりましたね」


「確かに。もう一週間くらい経つのかな?」

悠真が手際よくフライパンを振りながら答える。


「セリシアさんから聞きました。本当にすみません。まさか、こんな事になるなんて……」

申し訳なさそうに目を伏せるシェリア。


「私はビックリしたよ!記憶まで消したのにこの店に来たんでしょ?」

リアが呆れ半分、驚き半分の顔で言う。


「まぁ、仕方ないよ。シェリアさん達は監視カメラのことを知らなかったんだし」

悠真が庇う様に言う。


「監視カメラ……。初めて聞いた時は驚きました。その場の動きを映像として残す機械……。本当にここの世界の常識は私達では推し量れませんね……」

シェリアが感心したように呟く。


「でも。その刑事って人最近来てないんでしょ?」

リアの問いかけに、奥から落ち着いた声がした。


「事件性はなし、という判断が下ったのじゃろう」

皆が振り向くと――ルシアがのぞみを抱っこして現れた。


「悠真お兄ちゃん! お腹すいたー!」

のぞみが両手を伸ばして訴える。


「はいはい。もうちょっと待っててな。のぞみ用のご飯、もうすぐ出来るから」

悠真は調理の合間に小皿へ取り分けながら笑う。


「やった! 悠真お兄ちゃんのご飯、だいすき!」

のぞみがにこっと笑った瞬間、ルシアが「よっと」と言いながらのぞみを床に降ろす。


解放されたのぞみは小走りでシェリアとリアのテーブルへ。


「お姉ちゃん達、なに食べてるの?」

「タコの唐揚げだよ〜。ひと口、食べてみる?」リアが爪楊枝で小さめの物を刺して渡す。

「うん!」

口に入れたのぞみは目を輝かせて――

「ん〜! おいしい〜!」


その反応にテーブルが和んだ。


「ふぅ……疲れたわい」

ルシアが息をつき、リアの隣にどかっと腰掛ける。

「セリシア、交代の時間じゃ」


「あ、もうそんな時間ですか。分かりました」

時計を見たセリシアが頷く。


「交代の時間?」

リアが小首をかしげる。


「ええ。のぞみちゃんは交代で見てるんです。さすがに一人にはしておけませんから」

セリシアが微笑みながら答え、そっとのぞみの元へ歩み寄る。


小さな体を抱き上げると、のぞみは安心したようにセリシアの胸に顔をうずめた。


「のぞみちゃん、じゃあ上に行ってご飯にしましょうか」


「うん! セリシアお姉ちゃんと食べる!」

抱っこされてご満悦なのぞみ。


「セリシア、あとで俺がご飯を持って行く」

グレイが短く声を掛ける。

「ありがとう、グレイ」

そう言ってセリシアは奥へと入っていった。


その直後――

「美沙、ビールを頼む」

ルシアが近くにいた美沙へ注文する。


「はーい、ちょっと待ってね〜!」

軽快に返事をする美沙。


そのやり取りを見ていたリアが、ぽんっと手を打った。

「あ、そうだ! 魔王!」


「な、なんじゃ急に……」ルシアが怪訝そうに振り向く。


「ねぇ、私も“ルシア”って呼んでいい?」


「え……えらい唐突じゃの」


「だってさ! みんな名前で呼び合ってるのに、私だけ“魔王”呼びって寂しいじゃん!」

ぷくっと頬を膨らませるリア。


「……まぁ、好きに呼べばよい」

ルシアは肩をすくめて苦笑する。


「やった! じゃあ決まり! 代わりに私のことも呼び捨てでお願いね!」


「う、うむ……リア」

少し照れながら口にしたその響きに、リアの顔がぱぁっと輝いた。


「えへへっ! なんか仲間っぽくなってきた!」


ルシアは思わず天を仰ぎながら――

(調子に乗りおって……まぁ、悪くはないが)

と心の中で呟いた。


――こうしてえにし屋の夜は、今日も賑やかに更けていく。



夜の街を、一人の男が歩いていた。

白髪が街灯に照らされ、淡く光る。矢島刑事だ。


煙草を取り出すこともなく、ただ足を運びながら思考の海に沈んでいた。


――一週間ほど前。

ソラマチでの件を受け、篠崎美沙と、グレイ・ヴァルフォードという異国風の男性から事情を聞き終えた帰り。

「えにし屋」を後にして商店街を歩いていたとき、不意に出会った少女。


あの顔、あの雰囲気。

亡き娘と重なって見えてしまった。


以来、胸の奥に重たい霞がかかったように、思考が晴れない。

警察官としての冷静さを求められる自分が、こんなことで心を乱されるなどあり得ない――そう思うほどに、余計に気持ちはざわついていく。


(……望が亡くなってから10年か……)


閉ざしたはずの記憶。

二度と触れるまいと心の奥底に沈めたはずの痛み。

だが少女の姿を見た瞬間、冷たい水面をかき回すように、記憶は無惨に蘇る。


街灯の下を通るたびに、その影は長く伸び、そして揺れた。

まるで、今なお答えを出せずに揺れる自分自身の心のように。


矢島は歩みを止める。

ポケットに突っ込んだ手が小さく震えているのを、彼自身が気づいていた。

娘が亡くなった――あの日。



遡ること十年ほど前。

当時から矢島は、捜査一課で一目置かれるベテラン刑事だった。

現場の指揮を執り、新人刑事を鍛え上げることにも熱心で、同僚からも後輩からも信頼を寄せられていた。

まだ髪は黒々として、顔つきにも疲れより覇気が勝っていた。

次の警部補昇任も近いと噂され、将来を期待される存在だった。


だが、ただの「仕事人間」ではなかった。

周囲がそう評するほどの愛妻家であり、父親でもあった。

現場から早く戻れる日は、必ず家に帰った。

「家族の時間」を何よりも優先する姿勢は、かえって職場でも評判になっていた。


娘が生まれてからは特に――彼の人生の中心は、娘になった。

小さな指を握り返してきた日のことも、初めて「パパ」と呼ばれた日のことも、昨日のことのように覚えている。

笑顔を向けられるだけで、どんな疲れも吹き飛んだ。

家族仲は誰もが羨むほど良好で、矢島自身もそれが永遠に続くと信じて疑わなかった。


――だが。


その日、娘の誕生日。

祝福に包まれるはずの日が、矢島の運命を大きく狂わせることになる。


その日はどうしても早く帰るつもりだった。

しかし――数週間前から関わっていた案件が思わぬ展開を見せ、帰宅は大幅に遅れてしまった。


「……くそっ」

矢島は苛立ちをこらえ、スマホを取り出す。

通話口の向こうに妻・早苗の声が響いた瞬間、胸の奥に罪悪感が刺さる。


「悪い、遅くなって。今から帰るから」

短く告げ、電話を切る。

背広を羽織り、警視庁の玄関を飛び出したその時――。


「雨か……。傘、持ってくればよかったな」

夜の街を睨むように見上げ、走り出す。


外はすでに、土砂降りだった。

滝のように叩きつける雨が視界を奪い、街の灯りすら灰色に溶かしていく。

アスファルトを叩く雨音と、自分の荒い息遣いだけが、やけに耳に響いた。


(プレゼント……まだ買えてないな)


その罪悪感に突き動かされるように、矢島は帰り道にあった小さな雑貨屋へ駆け込んだ。

娘は蝶の髪飾りが大好きだった。特に、初めて贈った白い蝶々の髪飾りを宝物のように大切にしていた。


(次は……あの子に、もっと似合う色を)


矢島が選んだのは、透き通るような青の蝶々の髪飾りだった。

青は、娘の澄んだ様な瞳の雰囲気を思わせる色でもあった。


「プレゼント用にお願いします」

そう頼むと、店員が丁寧に包装を施してくれる。

包みを受け取ったとき、矢島の胸は少しだけ軽くなった。これで娘はまた笑ってくれる――そう思えた。


だが、店を出た瞬間。

スマホの着信音が雨音を突き破るように鳴り響いた。


画面には「交通課・杉本」の文字。

珍しい同期からの連絡に、矢島はすぐに応答ボタンを押した。


「――矢島、お前の家族が……」


耳に届いた言葉は、意味をなさないまま胸に突き刺さった。

握っていたスマホが力を失い、手から滑り落ちる。


アスファルトにぶつかる硬い音。

だが、それすらも豪雨にかき消される。


雨だけが、無情に降り注いでいた。



病院の一室。

白い壁と蛍光灯の冷たい光の下、並べられた二つの遺体が静かに横たわっていた。

その顔に掛けられた布は、あまりにも無機質で残酷だった。


矢島は足が鉛のように重いまま、一歩ずつ近づいていく。

震える指で、妻・早苗の顔を覆う布をめくった。


そこにあったのは――安らかに眠るような顔。

まるで、ほんの数分前まで隣で笑っていたかのような表情。


「……さ、早苗?」


呼びかけても返事はない。

ただ静かに、無言の現実がそこに横たわっている。


矢島の胸を締めつける痛み。

喉が焼け付くように苦しいのに、声が出ない。

堪えきれず、膝が床に崩れ落ちた。


「……あ、あぁ……」


それは嗚咽とも、かすれた悲鳴ともつかぬ声。

病室の冷たい空気に吸い込まれていく。


ふと、もう一つの布へ視線が向いた。

矢島の心臓がひときわ強く脈打つ。


震える両手で布を持ち上げる。

そこには――小さな娘、望が、静かに眠っていた。


「……」


頭には、お気に入りだった白い蝶々の髪飾り。

雨の日でも汚れることなく、ただ無垢に輝いている。

その光景が、矢島の心を容赦なく切り裂いた。


「は、は……っ……」


呼吸が乱れ、胸の奥から押し潰されるような圧迫が込み上げる。

娘の小さな手が布からのぞいていた。


矢島はその手を両手で包み込む。

かつて温もりに満ちていたその手は、今は冷たく、硬い。


その瞬間――堰を切ったように、矢島の悲痛があふれ出す。


「……あ、あぁ……ああああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」


叫びは嗚咽に変わり、嗚咽は慟哭へと変わる。

病室全体が、彼の絶望に支配された。


白い壁も、蛍光灯の光も、その声をただ無情に反射していた。


その後、矢島の耳に届いたのは、あまりにも残酷な報せだった。


事故は――轢き逃げ。

現場には、開かれずに転がった一本の黒い傘。

それは、傘を持たずに帰路を急ぐ矢島を迎えに行こうとした証だった。

雨に濡れた道端で、二人は寄り添うように倒れていたという。


妻・早苗は、とっさに娘を庇い、その小さな身体を抱きしめたまま――即死。

だが、娘・望だけは、かすかに息を繋いでいた。


「……搬送が、あと数分早ければ」

担当医の言葉は悔恨そのもので、矢島の胸を深々と抉った。

ほんの数分の差で、娘は生きられたかもしれない。

ほんの数分――。


その言葉が、矢島の心で何度も反響する。

あの日、仕事を切り上げてさえいれば。

あの日、もう少し強引にでも帰っていれば。

彼女たちを待たせることはなかった――。


雨に打たれる自分の背中を想像するたび、矢島の胸の奥に鋭い棘が突き立つ。

夜の街を灰色に染めたあの豪雨は、今もなお、彼の心を洗い流すことなく、冷たく降りしきっていた。


そして、さらに追い打ちをかけるように、捜査の報告が届く。


現場は住宅街。監視カメラは少なく、事故そのものを記録した映像は存在しない。

唯一映っていたのは、事故直前に猛スピードで走り抜ける一台の車。

だが、事件直後に発見されたその車は乗り捨てられており、しかも盗難車だった。

所有者の足取りを辿ることすらできない。


大雨がすべてを覆い隠していた。

衝突音は雨音にかき消され、発見が遅れた。

それが望の命を奪う決定打となった。


「……クソッ……」


矢島は拳を震わせた。


だが、一つだけ希望の糸が残されていた。

事故現場から離れた路地で、塾帰りの女子高生が一人の男を目撃していたのだ。


雨の中、傘も差さず、酷く動揺した様子で歩いていた男。

上半身はタンクトップ。

そして右腕には――死神の髑髏を象ったタトゥー。


さらに彼女は言う。

「確証はないけれど……反対の腕にも、同じ模様が見えた気がした」と。

ただ、大雨に視界を奪われていたため、それ以上の証言は得られなかった。


両腕に死神のタトゥーを持つ男――。

それが、唯一の手掛かりだった。


しかし矢島は、すぐにその捜査から外された。

理由は「身内の事件」。

冷たい言葉だった。


だが、矢島は諦めなかった。

同期の刑事や古いツテを辿り、報告書を密かに集め、裏で捜査を続けた。


深夜、机に広げられるのは幾百もの資料。

犯罪歴、暴力団関係者、前科者リスト……。

彼は徹底して「死神のタトゥー」を追った。


――あの日以来、彼の人生はすべて“その男を探すため”に変わった。


だが十年経った今も。

矢島は、両腕に死神を抱いたその男を――見つけ出せずにいる。


十年前、黒々としていた髪は、いまやすっかり白に染まっていた。

それは年齢のせいではない。

家族を奪われたあの日から、眠れぬ夜と募る焦燥が積み重なり、常人よりも早く矢島の髪を白くしたのだ。


矢島は家からも遠ざかった。

昇進の話もあったが、自ら蹴った。

デスクに座って指揮を執る警部補よりも、泥に塗れてでも“現場”にいる刑事であり続けることを選んだ。

――すべては、あの男を探すために。


そして最近、街でひときわ目立つ不穏な噂が流れ始めた。

半グレ集団――ツインスカル。


構成員は皆、右腕に死神の髑髏を刻んでいる。

それは矢島が追い求めてきた“あのタトゥー”に酷似していた。


「……ツインスカル……」


その名を聞いたとき、矢島の胸はざわめいた。

右腕だけに刻む構成員。

だが組織の頭――その男だけが“両腕に死神を抱いている”のではないか。

ツインスカル(双髑髏)という名は、その男にちなんだものではないのか。


憶測は尽きない。

だが矢島の刑事としての勘は告げていた。

――必ず繋がっている。あの日の犯人と。

気づけば、矢島の足は夜の街を彷徨い、あの商店街の入り口に立っていた。

――望によく似た少女に出会った場所。


夜も遅く、ほとんどの店はシャッターを下ろしている。

人気のない通りを進む矢島の目に、ふいに赤提灯の光が差し込んだ。

居酒屋 えにし屋。

暖簾が、夜風にゆらりと揺れる。


(……そういえば、あの女の子を連れていた女性……ここの従業員だったな)

立ち止まり、矢島はしばし考え込む。


(……いや、さすがにあの子がこの店にいるとは限らんか)

自分に言い聞かせるようにため息をつき、踵を返そうとした――その時。


「――あれー?シェリアお姉ちゃんとリアお姉ちゃんはー?」


幼い声が、暖簾の向こうから聞こえた。

その一言で、矢島の全身が硬直する。


「二人なら帰ったよ」

大人の男性の声が答える。


「えーっ! のぞみ、さよならの挨拶したかったー!」


――のぞみ。


脈打つ心臓の鼓動が早鐘のように響く。

矢島の脳裏に十年前の娘の顔が一瞬でよみがえった。


(……のぞみ……?)


気づけば、手は勝手に扉へ伸びていた。

ガラリ、と木の引き戸が音を立てる。

暖簾をくぐった瞬間、店内の視線が一斉に向けられた。


「いらっしゃいませ!」

明るい声が響く。

カウンターの奥に立つのは、この店の店主――悠真。


「あ、いや……」

どもる矢島に、悠真が眉を上げる。


「あれ……刑事さん?」


その一言で、ざわり、と店の空気が変わる。

客たちは何気なく視線を逸らすが、カウンターの奥のスタッフたち――とりわけこの店の“メンバー”には一瞬、緊張が走った。


だが――


「あっ! ぶつかったおじさんだー!」


無邪気な声が、場の張り詰めた空気を一瞬で吹き飛ばす。

声の方に振り向くと、金髪の女性に抱き上げられた銀髪の少女が、満面の笑みでこちらを見ていた。


「あ、ああ……。よく覚えていたな」

矢島は思わず苦笑しながらも、心の奥で動揺を抑えきれない。


「何か、またお聞きになりたいことが?」

悠真が慎重に問いかけてくる。


「あ、いや、そういうわけじゃない。……そうだな、ここで一杯やらせてもらおうと思ってな。ちょうど近くを回ってたんでな……」

咄嗟に口をついて出たのは、明らかな嘘だった。


「そうでしたか。それなら――美沙さん」

悠真が店員に声をかけると、元気な返事が返ってくる。


「はーい! 一名様ですね? じゃあこちらへどうぞー」


美沙に案内され、矢島はカウンター席に腰を下ろした。

背後からは、さっきの少女の楽しげな笑い声が聞こえる。

その声に耳を傾けながらも、矢島の胸の奥は、ずっとざわめき続けていた。



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