第三十話 えにし屋の環
東京の郊外にある静かな霊園。
木立の間を抜ける朝の空気は夏よりも透き通って、どこか冷たさを帯びて肌を撫でる。
砂利道に散った葉も乾ききらず、湿った音を立てて転がっていく。
その一角の墓前に、一人の男が立っていた。
癖の強い白髪、背広の肩口には長年の現場仕事で刻まれた皺が滲む。
矢島――。彼は無言で手を合わせ、ただじっと墓石を見つめていた。
墓は丁寧に掃き清められ、供えられた花は瑞々しい。
その前に置かれたのは、小さな包装箱がひとつ。蓋は開かれ、中には翡翠色に透ける蝶の髪飾りが収められていた。
長い沈黙のあと、矢島は静かに立ち上がった。
墓石を見下ろしながら、わずかに声を震わせる。
「それじゃ……行ってくるよ」
彼の言葉は、風に紛れるほど小さく。
だが、その背中には決意が宿っていた。
霊園の出口に差しかかると、一台の黒いセダンが待っていた。
車の傍らには、スーツ姿の若い男――泉が立っている。
「もうよろしいんですか? 今日は命日ですし、もう少し……」
泉が遠慮がちに声をかける。
矢島は首を横に振り、淡々と答えた。
「いや、十分だ。……行くぞ」
「……はい」
二人は無言のまま車に乗り込む。エンジンが静かに唸りを上げた。
車が動き出すと同時に、矢島が口を開く。
「昨日の女二人と男について……何かわかったか?」
泉はハンドルを握りながら、わずかに顔を曇らせた。
「それが……まだ。足取りが薄くて」
重い沈黙が車内を満たす。
窓の外、遠ざかる霊園の入り口に、白い花が風に揺れていた。
⸻
「……本当に魔法の指輪じゃったとはの」
少し驚いたように息を漏らしたのはルシアだった。
朝の店内。静まり返る中、悠真、セリシア、ルシア、グレイ――そして、昨夜突然姿を現した銀髪の少女が集まっていた。
「この子が……本当に、その指輪から現れたのか?」
グレイが眉をひそめる。
「ええ、多分。指輪が急に光ったかと思ったら、目の前にこの子が現れて……」
悠真は困惑を隠せず、ちらりと足元を見る。小さな手が彼のズボンの裾をきゅっとつまんでいた。少女は不安げに彼の影に隠れている。
「外の光に気づいて、私が裏口に着いたときには、すでにこの子がいましたので……私からはなんとも」
セリシアが続ける。
ルシアはその様子を眺め、口元を緩めた。
「にしても――随分と悠真に懐いとるようじゃの」
「ええ、ずっと離れなくて……」
セリシアが頷く。
「ほう。となると……まさか、夜も一緒に寝たのか?」
ルシアが目を細めて探るように問いかける。
「まぁ、そうなんだよね」
悠真が頭を掻きながら答えると、ルシアはすかさずジト目を向けた。
「……何もしとらんじゃろうな?」
「するわけないだろ!」
ため息混じりに即答する悠真。
ルシアはしゃがみ込み、少女と視線を合わせる。
「お主、名前は?」
「……のぞみ」
小さな声が返ってきた。
「のぞみ……か。何か、自分のことを覚えておるか?」
問いかけに、少女は小さく首を横に振った。
「俺も聞いたけど、名前以外は分からないみたいでさ」
悠真は頭をかき、困ったように息をつく。
セリシアもしゃがみ込み、優しい声で問いかける。
「のぞみちゃん。お父さんとか、お母さんのことは……?」
「わからない……」
少女は今にも泣き出しそうに、かすかに震えていた。
「これは困ったな……悠真殿、どうする?」
グレイが腕を組み、難しい顔をする。
「警察に届けるにしても、どう説明すればいいか……。指輪から現れた、なんて話は信じてもらえないだろうし」
「ええ。それに……そもそも、この子に“親”がいるのかどうかも分かりません」
セリシアが真剣な顔で言う。
「ルシア、指輪について何か思い当たる事はない?」
悠真がルシアに目を向ける。
「さぁの。わしも驚いたわ。あの指輪からは魔力の気配なんぞ一度も感じなかった。だからこそ“そこから子供が出てきた”なんて聞いたときは耳を疑ったわ」
「思ったんだけど……この子は“指輪から出てきた”んじゃなくて、“指輪を通じて”どこか別の世界から来たって可能性は?」
悠真が口にすると、場に緊張が走った。
「……ゼロではないの」
ルシアが静かに言う。
「だが、今のところはお手上げじゃ」
悠真はしばらく考え込み――やがて決意を込めて口を開いた。
「……取りあえず、この子はここで預かろう。いつか何か思い出すかもしれないし、放っておくなんてできない」
「そうですね」
セリシアが柔らかく微笑む。
「それに、この子が現れた理由も……きっと意味があるはずですから」
「うむ。それじゃあ、我の方でも指輪を調べてみよう。悠真、その指輪……まだ外れんのか?」
「ああ、試してみたけど……駄目だ。外れない」
「なら仕方ない。今夜、店を閉めた後に見せてもらおうかの」
「分かった」
セリシアが少女に視線を向け、優しく声をかける。
「のぞみちゃん。これからよろしくね」
少女は小さく頷き、まだ不安そうにしながらも、セリシアの言葉にわずかに安堵した表情を見せた。
⸻
「で……それでこんな状況になったわけね」
呆れ半分、感心半分の声を漏らしたのは美沙だった。
えにし屋の店内。床やテーブルには子ども服の山、ぬいぐるみや積み木が散乱し、まるで小さな保育園のようになっている。
「商店街の人に“子どもを預かることになった”って言ったらさ……次々と服やおもちゃを持ってきてくれて。ありがたいけど、正直ここまでとは思わなかった」
悠真は腕を組み、散らかった品々を前にため息をついた。
「でも、本当に皆さん親切ですね。理由も聞かずに、ただ“助けが必要”と分かるだけで手を差し伸べてくださるなんて」
セリシアが感謝のこもった眼差しで言う。
「この商店街は“助け合い”がモットーだからね」
悠真が肩をすくめる。
そこでセリシアがふと苦笑した。
「ですが……佐和子さんの時は、大変でしたね」
――ほんの数時間前のことを思い出す。
商店街の洋品店の前。
「あらまあ悠真ちゃん! その子、どうしたの?」
佐和子は目を丸くし、悠真とセリシアの顔を交互に見比べた。
「……まさか、もう子どもがいたなんて! 言ってくれればいいのに〜!」
冗談めかして笑う佐和子。悠真は苦笑いで受け流そうとしたが――横にいたセリシアは違った。
「ち、違いますっ! わ、私と悠真の子どもじゃありませんからっ!」
顔を真っ赤にして全力で否定するセリシア。その勢いに、さすがの佐和子も一瞬押され気味になる。
「え、ええ……わかってるわよ、もちろん……」
佐和子が言いかけると、セリシアはきょとんとした顔で固まった。
「へ……?」
その様子に何かを察した佐和子は、にやりと笑って手を振った。
「もう! いいわね〜若いって!」
「わ、若いって……!」
セリシアは完全にペースを崩され、うろたえるばかりだった。
その後も佐和子は、
「買うなんてもったいないわよ! うちの子どもが使ってた服、まとめて持ってって! あ、そうだ田中さんとこ、娘さんだったわよね。おもちゃ余ってるはずだから聞いてみるわ! 布団はどうするの? 寝かせる場所ある?」
と世話を焼きに焼き、あっという間に必要なものが揃っていった。
――そして今。
「……そういうわけで、気がついたらこの有様なんたよね」
悠真が肩をすくめると、美沙は思わず笑みをこぼした。
「ほんと、あったかいよね、この商店街の人たちって」
のぞみはそんな大人たちのやり取りを眺めながら、手にした小さなぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。
「悠真お兄ちゃん……お腹すいた」
のぞみがおずおずとつぶやいた時、時計の針はもう昼を過ぎていた。
「あ、もうこんな時間か!」
悠真は慌てて頭をかく。
「ごめんね? 今からすぐ作るよ。何か食べたいものはある?」
のぞみは少し考え込むと、小さな声で答えた。
「……オムライス。オムライスが食べたい……」
「分かった! すぐ作るから待っててね」
悠真は笑みを浮かべて立ち上がり、カウンター奥の厨房へ向かう。
「私も手伝います」
セリシアがすぐに続き、エプロンを手に取った。
「みんなもオムライスでいいかな?」
悠真が振り返って問いかける。
「それで構わん」ルシアが短く答える。
「うん、大丈夫だよ!」美沙が元気よく返す。
グレイは腕を組んだまま首を傾げる。
「オムライス……というのは初めて食べるな」
そのやりとりを聞いていた美沙が、ふとテーブル席に座るルシアの横に座った。
「ねぇルシアさん。のぞみちゃんって、どこから来たか分からないんだよね?」
「ああ、そうじゃ」
ルシアは視線をのぞみに移しながら答える。
「でもさ、オムライス知ってるってことは……日本人なのかな?」
美沙が小声で呟く。
「どうじゃろうな……その可能性は高い。あの子が話すのは、我らと違って純粋な日本語じゃしの」
「へぇ……」美沙は腕を組み、考え込むふりをしつつ、次に首を傾げた。
「……っていうかさ。そう言えば、ルシアさんたちはなんで日本語話せるの? こっちに来てから練習したとか?」
ルシアは一瞬まばたきをし、次いで大きくため息をついた。
「……お主、今さらそれを聞くか?」
「え、だって気になっちゃって」
美沙は悪びれずに笑う。
「セリシア達は、天使に与えられた“勇者の力”で言葉を理解しておる。我も似たような力を授かっておるのじゃ。ただ、勇者と違って力を分け与えることはできんし、扱える能力も異なる。共通しておるのは……“言語理解”という力だけじゃな」
「ふーん、そうなんだぁ」美沙はどこか軽い調子で納得したように頷く。
「異世界の指輪から、日本人かもしれない女の子が現れるなんて……」
彼女はテーブルに頬杖をついて、ぽつりと呟いた。
「なんか、よく分かんないね」
「……確かにの」
ルシアは視線をオムライスを待つ少女に向け、静かに同意した。
それからしばらくして――
カウンターからふわりと漂う香りとともに、湯気を立てた皿が運ばれてきた。
「お待たせしました。オムライスです」
悠真とセリシアがそれぞれ皿をテーブルに置く。
こんがりとしたケチャップライスの上に、黄金色の卵がとろりと広がっている。表面には艶があり、中央には赤いケチャップが細く流れるように描かれていた。立ちのぼる香ばしいトマトの匂いに、全員の視線が自然と吸い寄せられる。
「わぁ……」
のぞみの目がぱっと見開かれた。輝く卵を前に、小さな唇が思わず開く。
「はい、スプーンどうぞ」
セリシアが微笑んで差し出すと、のぞみは両手で受け取った。
「ありがとう……セリシア、お姉ちゃん」
「美味しそうー!」
美沙が歓声を上げ、
「お腹が空いたのじゃ!」とルシアはもう待ちきれない様子。
「これが……オムライス」グレイは訝しげに皿を見つめていた。
「どうぞ、召し上がれ」悠真が声をかける。
「……いただきます」
のぞみはおずおずとスプーンを入れ、卵の下から赤いライスをすくう。ひと口食べた瞬間――
「……お、美味しい!」
目を丸くしたのぞみの顔がぱっと綻ぶ。
その言葉に悠真とセリシアも思わず笑顔になる。
「でしょー?このトロトロ卵、なかなか作れないんだよね」
美沙が得意げに言うと、
「うむ、相変わらずいい腕じゃな」ルシアが素直に頷く。
「見た目は奇妙だが……」グレイはスプーンを動かしながら眉をひそめる。
「……な、なぜご飯が赤い!?」
「それはケチャップで味付けしてあるんです」セリシアが丁寧に説明する。
「ケチャップ……確かトマトを煮詰めた調味料だったか?」
「その通りです。グレイさんも、だいぶこちらの料理に慣れてきましたね」悠真が微笑むと――
「グレイ、おじさん……オムライス、初めて?」
のぞみが素直な瞳で問いかけた。
「お……おじさん!?」
グレイの胸に小さな矢が突き刺さる。(そ、そうか……子供から見れば当然か……)
「……あ、ああ。初めてだ」
やっとの思いで答え、口に含んだ瞬間――
「こ、これは……! う、うまい!?」
一気に表情がほころび、グレイの手が止まらなくなる。気づけば皿はすっかり空っぽに。
「な、なぜだ……もう無い……」
深刻そうにショックを受ける彼を、こっそり美沙が見つめる。
(グレイさん……オムライス好きなんだ…。可愛い……って、私いったい何考えて……!)
頬が一気に赤くなる美沙。
「美沙?大丈夫ですか?顔がとても赤いですけど……」
セリシアが心配そうに声をかける。
「えっ、は、はい!?そ、そうかな!?」
声が裏返り、慌てふためく美沙。
「美沙おねえちゃん……顔、真っ赤」
のぞみが無邪気に追い打ちをかける。
「あ、あはははっ! オムライスが美味しすぎて、色が移っちゃったのかなーなんて! あははっ!」
(わ、私なに言ってるのよぉ……!)
頭を抱える美沙に、ルシアは呆れた声を漏らす。
「お主は一体、何を口走っておるのじゃ……」
そう言って肘をつき頬杖をした瞬間――
「ルシア、それ……行儀悪い」
のぞみの真顔の一言が飛んだ。
「な……我だけ呼び捨て…… !?」
地味に深く刺さったらしく、ルシアは思わず固まる。
笑い声が店内に弾け、えにし屋は昼下がりの柔らかな光に包まれていた。
⸻
警視庁本部・捜査一課の一室。
机の上に書類が数枚並び、蛍光灯の明かりが硬い影を落としていた。
「泉、あの二人の女と男……何か分かったか?」
矢島が腕を組みながら問う。
泉の表情は冴えなかった。
「……それが」
渋々と調査資料を差し出す。
「……なるほどな。身元不詳、か」
矢島は目を通し、低く呟いた。
「はい。日本の戸籍にも住民登録にも存在せず、出入国の記録もなし。入管に照会しても該当者はいません。つまり――在留資格を持たない『無国籍者』とみなされる可能性が高いです」
泉が淡々と報告を続ける。
「ただ……ICPOにも照会しましたが、国際手配や犯罪歴の記録も一切なし。聞き込みでは、ご近所からの評判はむしろ良いくらいで。トラブルどころか、親切で礼儀正しいという声ばかりでした」
矢島は黙って書類を置いた。
「これからどうしますか? 在留資格なしと判断すれば、不法滞在で入管に引き渡すことも可能です」
泉の声に、矢島は考え込むように眉を寄せる。
「……いや。当初の予定通り、ソラマチでの件について話を聞くだけにする」
「えっ⁉︎ いいんですか? このまま放置したら、明らかな違法状態ですよ?」
泉は思わず顔を上げた。その声には驚きと困惑が滲んでいた。
「まぁ、立場上はいけないんだかな……」
矢島は苦笑を浮かべる。
「じゃあ、なぜ?」
泉の声は苛立ち半分、困惑半分。
矢島は少し目を伏せ、言いにくそうに呟いた。
「……なんとなくだが、拘束したら……誰かがひどく悲しむ気がする」
「……誰が、です?」
泉の問いに、矢島は答えられなかった。
(……誰なんだろうな)
心の奥で、昨日の出来事を思い返す。
ふと脳裏に浮かぶのは、あの瞬間、店を出た時だった。
えにし屋を出る時、確か――店主が「女の子の声がした」と言った。
その時はよくある空耳だろうと、気にも留めなかった。
だが、扉をくぐり外に出た次の瞬間、風が頬をかすめた。いや、風ではない。あの場所に漂う空気が、不思議と懐かしかった。
温かく、心地よいようで……同時に、胸の奥底にしまい込んだ古い記憶をかすかに刺激した。
まるで、封じたはずの思い出に小さな棘が刺さったように。
――だから、矢島はあの場を早く離れたくて仕方なかった。泉を置き去りにするように、商店街を足早に歩いたのだ。
「……明日、空いた時間であの店に行く。篠崎美沙と、あの外国風の男――グレイ・ヴァルフォードに、ソラマチでの件を確認する。それで事件性がないと分かれば、この件は終わりにする」
「……了解です」
泉はまだ納得しきれない表情で答えた。
矢島は窓の外に目をやる。その横顔には、誰にも見せられない寂しさが影を落としていた。




