第二十九話 月下の指輪
シェリアたちが元の世界へ帰ってから、一週間ほどが経った。
静かな休日の「えにし屋」の店内に、ひとつ唸る声が落ちる。
「う〜ん……」
カウンター席に座り、眉間に皺を寄せて難しい顔をしているのは悠真だった。
「どうしたんですか?」
声をかけてきたのはセリシア。心配そうに首を傾げながら、彼の隣に歩み寄る。
「あ、セリシア?いや……実はさ」
悠真は視線を落とし、机の上に置いてある小さな袋を見せる。袋の口を開くと、中には金や銀で作られた腕輪や指輪がぎっしりと詰められている。赤や蒼の宝石が光を反射して、店内をきらりと照らした。
「この……シェリアさんから貰ったやつなんだけど……」
初めて袋を開けたとき、悠真は心底驚いた。
すぐに返そうかと頭をよぎったが、わざわざ渡してくれた気持ちを突き返すのは、彼女たちの想いを無碍にする気がして……結局は店の金庫へしまい込んでいたのだ。
だが、このままにしておくのも違う気がする。使えば裏切る気がして、けれど使わなければ感謝を踏みにじる気もする。そんな堂々巡りを続けた結果、ようやく今日、この袋を取り出したのだった。
「これ……どうしたらいいんだろうなって」
「ふむ、見せてみよ」
興味を引かれたルシアも近づき、袋を覗き込む。
「おぉ、これはまた……なかなかの品揃えじゃの」
「換金したらいいのでは?」
セリシアが素直に提案すると、ルシアも頷く。
「うむ、セリシアの言う通りじゃ」
「換金……かぁ。なんか、貰ったものを売るって抵抗あるんだよな」
悠真は宝石を見つめながら、小さく息をついた。
「そんなに気に病まないでください」
セリシアは優しく微笑む。
「みんなが“ありがとう”って思って贈ったものです。悠真がちゃんと使ってくれた方が、きっと喜びますよ」
その言葉に、悠真の胸の奥で迷いがほどけていくのを感じた。
「……そうだよな。感謝の気持ちなんだから、受け取らないとな」
「はい!」
セリシアはぱっと笑顔を咲かせる。
悠真は袋の中からひとつの指輪を取り上げた。
それは派手な装飾はないが、見たことのない文字が精緻に刻まれた金の指輪だった。
「でも、本当に……どれもこっちの細工とは違うな。これ、文字……なのか?細工がすごい」
「うむ。魔法が込められた品には、大抵こうして文字が刻まれておる。その指輪も案外そうかもしれんぞ?」
ルシアが顎に手を当てながら言う。
「へぇ……じゃあ俺がこの指輪をはめたら、魔法が使えたりして」
冗談めかして笑い、右手の中指に指輪を通す悠真。
「悠真、その指輪……似合ってますよ」
セリシアの素直な褒め言葉に、悠真は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ま、魔法が使える指輪なんてそうそう無いがの」
ルシアはわざとらしく鼻を鳴らす。
「でも、ルシアは何個か持ってたよな?」
「ふふん、あれは我が作ったものじゃ」
「え、じゃあ作れる人なら結構簡単に作れるのか?」
「普通は作れませんよ。だからこそ、魔法の指輪はとても貴重なんです」
セリシアが補足するように答えると、悠真は感心したように頷いた。
「へぇ……やっぱりルシアってすごいんだな」
「ふん、我は魔王じゃぞ?もっと褒め称えても良いぞ?」
ルシアは胸を張り、誇らしげに笑った。
そんな和やかな会話が広がっていたそのとき――
「コン、コン」
えにし屋の扉が、不意にノックされる音が響いた。
休日の「えにし屋」に客が来ることは滅多にない。
「美沙さんかな?」
悠真は扉のノックを聞き、そう呟く。
だが――。
「いや……」
ルシアの目が鋭く光った。
胸に不安を覚えながら、悠真は引き戸を開けた。
「はい?」
そこに立っていたのは二人の男。
一人は五十代ほど、ノーネクタイに少しよれたスーツ。無精髭に、癖の強い白髪。パッとしない中年の印象だが、その瞳には鋭さがあった。
もう一人は二十代後半に見え、茶髪の短髪にすらりとした体格。清潔感のあるスーツに身を包み、目つきは真っ直ぐ鋭い。
悠真は思わず声を詰まらせる。見知らぬ二人。だが、その風貌はただの客には見えなかった。
「あ、あの……どちら様でしょうか?」
若い方の男が内ポケットから手帳を取り出す。差し出されたそれに刻まれていたのは、警察の紋章。
「私たちはこういう者です」
「け、警察……?」
なぜ警察がここに?悠真の胸に冷たい汗が流れる。
「警視庁捜査一課の刑事です。私は泉。こちらは矢島刑事」
泉と名乗った若い刑事が淡々と名乗ると、隣の白髪の男――矢島が、じっと悠真を見据えた。
「突然すまんな。少し話を聞かせてもらいたい」
「は、話……ですか?」
「ええ、少しだけ」
泉刑事の声は穏やかだったが、その背後に張り詰めた空気を隠しきれない。
「と、とりあえず……どうぞ中へ」
悠真は二人を店に招き入れる。
その瞬間、セリシアはカウンターに置かれていた小袋を素早く手に取り、厨房の奥へ隠した。ルシアは奥の席に腰を下ろし、じっと二人を値踏みするような視線を向ける。
悠真は刑事たちをテーブル席に案内し、セリシアが湯気の立つお茶を差し出した。
「ありがとう、お嬢さん」
矢島刑事が短く礼を言う。セリシアは軽く会釈してその場を離れた。
「それで……話というのは?」
悠真は緊張を隠しきれず、恐る恐る口を開く。
「ええ。篠崎美沙さんに話が聞きたくて。彼女、ここで働いていますよね?」
泉刑事が問いかけた瞬間、悠真の頭の中が真っ白になった。
「え……あの、彼女が……なにか?」
「いや、彼女が何かしたわけじゃありません。ただ、我々の捜査に少し関係がありまして」
泉刑事は淡々と答える。
「それじゃ、確認させてくれ。……君は橘悠真さん、で間違いないね?」
矢島の鋭い声が続いた。
「は、はい」
「では、篠崎美沙はここの従業員で間違いない?」
「ええ……そうです」
「彼女は今、ここに?」
「い、いえ。今日は店が休みですから、来ていません」
刑事二人は店内を静かに観察する。その目は、古びた木の梁も、奥に消える通路も逃さなかった。
「今日、彼女の自宅を訪ねたんだが、ちょうど留守でね。……他に行きそうな場所をご存じないかな?」
矢島の視線が鋭く悠真に刺さる。
「い、いえ……さすがに、そこまでは……」
額に滲む汗を拭うこともできず、悠真は小さく首を振った。
「そうか……」
矢島は視線をセリシアとルシアへ移す。
「お二人もここで働いている?」
「はい」
「まぁの」
二人は落ち着いた口調で答えた。
「篠崎さんが行きそうな場所、心当たりは?」
「私は知りません」
「我も知らんの」
堂々とした態度に、矢島は小さく頷いた。
「……分かった。協力感謝する」
「え、もういいんですか?」泉が驚いたように顔を向ける。
「まぁな。――ああ、最後にこれを」
矢島が懐から一枚の写真を取り出し、テーブルに差し出した。
悠真が視線を落とした瞬間、心臓が跳ねる。写っていたのは――グレイだった。
矢島はそのわずかな動揺を逃さない。
「……知っているのか?」
「え、えっと……」
言葉が詰まる悠真。
その肩越しにルシアが身を乗り出し、写真を覗き込んだ。
「その男なら、この店の従業員じゃよ」
あまりに自然な口ぶりで放たれた言葉に、悠真は思わず息を呑む。
「……従業員、か」
矢島は写真と店内を交互に見やり、泉と視線を交わした。
「今、彼と会えるか?」
「今日は休みじゃ。休みの日まで職場に来るはずもなかろう?」
ルシアがすぐさま切り返す。
「ですが、あなた方は今ここにいるのでは?」
泉が疑わしげに問う。
「ふむ、確かに。だが――初対面の女性に休日の予定を詮索するのは、少々無作法ではないかの?」
ルシアの瞳が挑発的に光る。
「……確かに、配慮を欠いた」
矢島は苦笑し、頭を掻いた。
「では、彼について知っていることを教えてくれ」
「あ、はい……そうですね……」
悠真の喉がからからに乾く。
(……これ、何て答えればいいんだ?)
一瞬の逡巡。だが黙り込めばそれこそ怪しまれる。悠真は腹を括り、慎重に言葉を紡ぐ。
「ええっと……」
悠真は一瞬迷い、しかしすぐに言葉を選んだ。
「彼の名前は……グレイ・ヴァルフォードさん。年齢は三十後半くらいです。元々は海外に住んでいたそうで、日本に来てからは知り合いの紹介でここで働いてます」
――すべてが真実ではない。だが、完全な嘘でもない。
あえて“ぼかし”を混ぜた言葉に、泉刑事がペンを走らせる。矢島刑事は腕を組んだまま悠真を値踏みするように見ていた。
「住所は?」
「す、すみません。そこまでは……。彼、あまり自分のことを話したがらないので」
悠真は正直そうに、しかし困ったように肩をすくめる。
セリシアもさりげなく口を添える。
「グレイさんは、ちょっと無口な方ですから。私たちも詳しくは知らないんです」
ルシアも平然とした顔で頷いた。
矢島刑事は無言で三人をじっと見た後、ポケットから一枚の写真を取り出した。
「……なら、これを知っているか?」
差し出されたのは――死神を象った髑髏のタトゥーを写した一枚の写真だった。
「矢島さん?」
(どうして今この写真を?)
泉刑事がわずかに怪訝な顔を向けた。タトゥーの写真を持ち出すのは、予定していなかったのだろう。
「彼から、このタトゥーについて何か聞いたことは?」
矢島刑事の声は真剣だった。
「いえ。特には」
悠真は目を逸らさず答える。
「君たちは? 見たことは?」
矢島刑事の視線がセリシアとルシアへ移る。
セリシアは首を横に振り、落ち着いた声で言った。
「初めて見ます」
「我も知らんの」
ルシアもさらりと言い切った。
「似た様なタトゥーも見た事がない?」
三人は頷く。
矢島刑事は三人の反応をしばし観察し、沈黙する。重苦しい空気の中で、泉刑事だけが少し居心地悪そうに視線を落とす。
矢島刑事しばし考え込むと、やがて立ち上がった。
「……分かった。今日はここまでにしておこう」
「え、もうですか?」
泉刑事が驚いたように声をあげる。
「こういうのは、一度に答えを求めても仕方ない」
矢島刑事は静かに言い、軽く会釈をした。
「協力に感謝する。また来ることになるかもしれんが、その時はよろしく頼む」
「は、はい……」
二人が店を出ようとした、その時――。
(――お願い! パパを助けて!)
――耳元で、少女の切迫した声が響いた。
「……え?」
悠真の口から声が漏れる。
振り返った矢島刑事が、怪訝そうに問いかけた。
「どうかしましたか?」
「いや、今……女の子の声が」
「声?」
刑事だけでなく、セリシアとルシアも一様にキョトンとした顔を見せる。
(……え? 聞こえたの、俺だけ?)
周囲の視線に射抜かれ、悠真は慌てて頭を下げた。
「あ、いや……なんか、気のせいだったみたいです。すみません」
「……そうですか」
矢島刑事はしばし悠真をじっと見つめたが、やがて踵を返す。
二人の刑事が去り、ガラガラと扉が閉まる音が店内に響いた。
――静寂。
緊張が途切れ、悠真は一気に力が抜ける。
「……はぁぁぁ……心臓止まるかと思った……」
「ふん、まったく肝が小さいのう」
ルシアは鼻で笑いながらも、どこか満足げに腕を組んでいる。
セリシアがじっと悠真を見つめ、問いかけた。
「悠真、さっき……女の子の声が聞こえたと言ってましたけど。何かあったのですか?」
悠真は唇を噛んでうなずく。
「うん……“お願い、パパを助けて”って……。確かに聞こえた気がしたんだ」
「我は何も聞こえんかったぞ」
ルシアが即答する。
「私もです……」
セリシアも首を横に振る。
悠真は額に手を当て、苦笑いを浮かべた。
「やっぱり、気のせいなのかな……?」
「余りの緊張で気でも触れたんじゃないかの?」
ルシアはわざとらしく肩をすくめる。
「……そうなのかな」
悠真は納得しきれないまま、曖昧に笑う。
ふと、先ほどのやり取りを思い出し、表情を曇らせる。
「……それはそうと、グレイさんのこと。正直に知ってるって話してよかったのかな?」
悠真は少し心配に思う。
「あそこで下手に嘘を付けば余計に疑われるであろう」
ルシアが言う。
「なら、いいんだけど」
「でも……どうしてグレイさんのことを?」
セリシアの小さな疑問が、三人の間に重く落ちた。
「それは分からぬが……」
「取り敢えず本人達に聞いてみよう」
こうして悠真は美沙に連絡を取り、グレイの帰宅を待った。
えにし屋を出た矢島刑事は、迷いなく商店街の通りを歩いていく。
その背中を、泉刑事が慌てて追いかける。
「びっくりしましたよ、矢島さん。何も聞いてないのに、いきなりタトゥーの写真なんか見せるんですから」
苦笑いを浮かべつつ泉が声をかけるが、矢島は無言のまま歩を進める。
「やっぱり……まだ、あの事件を追ってるんですよね?」
泉が探るように、そして心配そうに言葉を続けても、返事はない。
「はぁ〜……全く」
呆れたように溜息をつき、泉は足を速めて並びかける。
「で、今回の件……どう見てるんです?」
その問いに、矢島の歩みがぴたりと止まった。
商店街のざわめきの中で、矢島の低い声だけが響く。
「――グレイという男と篠崎美沙。二人は同じ店で働く従業員で、たまたま東京ソラマチで買い物をしていた時に半グレに絡まれた。そこで彼が助けた……まぁ、ただそれだけだろうな」
矢島は煙草を咥える仕草をしたが、結局ポケットからは出さなかった。
「ただ……おかしいのは、あの場にいた半グレ連中も、周囲の買い物客も、誰一人として詳しい記憶が残っていないってことだ。それに、半グレ達の怪我についても」
矢島の声は僅かに低くなる。
「それを確かめるには、当事者の二人から直接話を聞くしかない。……もっとも、本人たちも記憶が曖昧ならお手上げだがな」
泉は渋い顔をしながらも頷く。
「そうですね。今のところ所在が分かってるのは、その二人だけ。……残りの二人の女性については、情報ゼロですし」
シェリアとリア――。
泉が口にした名を反芻するように、矢島は目を細めた。
「……泉、一応あの店にいた二人の女も調べとけ」
「え、あの美人二人もですか? まだやるんですか?正直、もうそこまで意味ない気がしますけど」
泉は半ば冗談交じりに言ったが、矢島の眼光に射抜かれてすぐに言葉を飲み込む。
「最後の確認だ。これで特に何も無ければこの件は終わりだ」
「分かりました。……でも矢島さんでも刑事の感、外す時があるんですね」
悪戯っぽく言う泉。
「五月蝿い、馬鹿野郎!」
矢島は素早く後頭部をはたき、二人は通りのざわめきに混ざって歩き去った。
⸻
その日の夕方。えにし屋の店内には、帰宅したグレイと、悠真の電話で呼ばれた美沙の姿があった。
「二人とも、せっかくの休みにごめん」
悠真が恐縮気味に頭を下げる。
「いいよ、気にしないで」
「問題ない」
美沙とグレイは揃って首を振り、全く気にした様子もなかった。
「でもさ、悠真さんから電話で“警察が来た”なんて聞いた時は、本当にびっくりしたんだから!」
美沙が肩をすくめる。
「俺も戻った時には、何事かと思ったぞ」
グレイも静かに頷く。
「二人とも……何か心当たりはない?」
悠真の問いに、美沙とグレイは顔を見合わせる。
「うーん、警察が来るようなことは、特に……」
「俺も、問題を起こした覚えはないな」
二人とも心当たりがない様子だ。
そこで、ルシアが口を挟む。
「そう言えば……あやつら、タトゥーの写真を見せてきおったの」
「タトゥー?」
美沙は首を傾げる。
「髑髏の模様でした」
セリシアが補足すると、グレイが考え込むように眉を寄せた。
「……髑髏のタトゥー。あの日、ソラマチで美沙達に絡んできた連中の腕に、それがあったはずだ」
「じゃあ、その連中に関わったから、私たちのところに調べが来たってこと?」
美沙が推測を口にする。
「可能性は高いな」
ルシアが顎に手を添えて頷く。
「しかし、その時の記憶はシェリアが消したって話ではなかったのですか? だから全部“無かったこと”になっていると」
セリシアが疑問を口にする。
「あの男たちの傷も癒やしたはずだ。多少不審な点はあっても、俺たちに辿り着くことは……普通ならない」
グレイは渋い表情を浮かべる。
その時、悠真が「あ!」と声を上げた。
「な、なんですか悠真?」
セリシアが身を乗り出す。
「監視カメラだよ!」
「なるほど。監視カメラの映像を追われたか」
ルシアが即座に納得する。
「え?どういうこと?」
美沙だけは首をかしげる。
「記憶は消せても、カメラの映像は消せん。普通の刑事なら“勘違い”で済ませたかもしれんが……あの矢島という男、勘が鋭いようじゃ」
ルシアの説明に、美沙は目を丸くする。
「じゃあ、その映像と記憶の食い違いで、私たちに話を聞きに来たってことね」
「そういうことだろうな」
グレイも納得するように頷いた。
「てことは……また後日に来るってこと?」
美沙が声を上げる。
「間違いないじゃろう」
ルシアが断言する。
「えぇぇ……じゃあなんて答えればいいのさ!?」
美沙は頭を抱えた。
「確かに……説明のしようがないよな」
悠真も唸る。
「簡単なことじゃ」
ルシアがさらりと言った。
「起きたことを、そのまま話せばよい」
「……半グレに絡まれたことを、か?」
グレイが少し驚いたように問う。
「そうじゃ」
ルシアは迷いなく頷く。
「でも、それだとカメラの映像と周りの人達の記憶が無い事の矛盾をどう説明するの?そもそも、そこが一番説明出来ないのに」
美沙が不安げに言う。
「記憶が消えた理由を、あやつらは知らぬ。たとえ本当のことを言っても、周囲の人達の記憶が消えた事を“知らない”で済ませればそれ以上は追えん」
「……あ」
美沙もセリシアも、思わず息を呑む。
「要は、答え合わせをしたいだけじゃ。矛盾の説明までは求められまい」
ルシアの言葉に、店内の全員がようやく安堵の息を吐いた。
「とりあえず……なんとかなりそうだな」
悠真がほっと肩を落とす。
「そうですね」
セリシアも微笑んだ。
だがその直後、彼女の視線がふと悠真の右手に止まった。
「……悠真、その指輪、まだ外していなかったんですか?」
悠真の中指には、金色の指輪が嵌められたままだった。
それを見て、美沙もグレイも首を傾げる。
「えっ、その指輪何? すごく高そうなんだけど」
「……シェリアが渡した袋の中に入っていたものか?」
グレイが確認する。
「そうです。試しにつけてみたら……外れなくなっちゃって」
悠真は苦笑いを浮かべた。
「えっ、外れないの!?」
美沙が目を丸くする。
セリシアが急いで悠真の手を取り、外そうとするが――
「……駄目です。全然動きません」
「俺がやろう」
グレイが代わりに力を込めた。
「うぅぅぅっ! ちょ、痛い痛い痛い!」
「……駄目だな。びくともしない」
グレイが眉を寄せる。
「これ、呪いの指輪とかじゃないよね?」
美沙が青ざめた顔で呟く。
「ふむ、呪いの類ではなさそうじゃ」
ルシアが悠真の手を取り、じっくりと観察する。
指輪はまるで皮膚に吸い付くように、ぴたりと嵌まっている。
「悠真、痛みや違和感は?」
「いや、全然。サイズもぴったりだし、血も止まってない。でも……飲食店でずっと指輪つけっぱなしはさすがにマズいかなって」
悠真は困ったように眉を下げる。
「それは困りますね……」
セリシアも悩ましげに唇に指を当てた。
「いっそ切っちゃえば?」
美沙が提案する。
「いやいや、さすがに貰い物を壊すのは気が引けるよ」
「なら指を切って外せばよい。治癒魔法で繋げば問題なかろう」
ルシアが真顔でとんでもないことを口にする。
「絶対嫌だ!」
悠真が全力で拒否し、場に苦笑が広がった。
「残念じゃの……」と何故か残念そうに呟くルシア。
「グレイさん、あの袋の中身ってシェリアさんが用意したんですよね? 外し方とか聞いてないんですか?」
悠真が尋ねる。
「いや……贈り物はほとんど彼女に任せていた。すまないが分からない」
グレイは首を振った。
「そうですか……」
「次にシェリアが来た時に聞くしかあるまい。それまでは手袋でもして凌ぐしかないの」
ルシアの提案に、悠真は肩をすくめるしかなかった。
「あ、そうだ。美沙さん。今日よかったら夜、ここで食べていってよ! 急に呼び出したお詫びに」
悠真が気を遣うように言った。
「え、そんなの気にしなくても……」
美沙は遠慮がちに手を振るが、
「美沙、折角ですから。ぜひご一緒に」
セリシアまでにこやかに勧める。
「……そこまで言うなら、お言葉に甘えようかな」
観念したように笑みを浮かべ、美沙は頷いた。
その後のえにし屋は、賑やかな食卓に変わった。
夕食を囲み、笑い声が絶えず、店内には心地よい温もりが広がっていた。
やがて夜が更け、美沙は終電に間に合うように店を後にする。
ルシアはすっかり酔いつぶれ、テーブルに突っ伏したまま寝息を立てていた。
「この女、本当に魔王なのか……?」
呆れたようにルシアを見下ろし、グレイが小声で漏らす。
時計はすでに深夜0時を回ろうとしていた。
「二人とも、もう上がって。ルシアさんは、あとで俺が連れて行くから」
悠真がそう提案する。
「いや、彼女は俺が部屋に運ぼう」
グレイはルシアを軽々と肩に担ぎ上げ、二階へ向かう。
「悠真、他にまだ残っている片付けはありますか?」
「もう大丈夫。ありがとう。……セリシアも休んでいいよ」
「では、お言葉に甘えますね」
セリシアも静かに階段を上がっていった。
残された悠真は、一人で店の裏口に出る。
袋を抱え、ダストボックスにゴミを投げ入れた後、ふと夜空を見上げた。
月光に照らされた指先。
そこには未だ外れない指輪があった。
「……本当に綺麗な指輪だな」
つぶやきながら、悠真は無意識にその指輪を掲げる。
月光を受けた瞬間――
指輪が、淡く輝き始めた。
呼吸を呑む間もなく、白銀の光が弾け、裏路地全体を満たす。
「――っ!」
思わず目を閉じる悠真。
だが光はすぐに収束した。
ゆっくりと目を開いた悠真は、息を呑んだ。
月を背にして漂う、小さな影。
それは少女だった。
背丈は悠真の腰ほどしかなく、年の頃は四、五歳に見える。 黒の奥に、淡く茶を溶かし込んだような瞳。そして、月光を映すように揺れる銀の髪は、この世のものとは思えぬほど神秘的だった。
だが彼女の身を包むのは、不思議なほど普通の服。
膝までの丈のワンピースは淡いクリーム色で、胸元には可愛らしい小さなリボンがひとつだけ結ばれ、足元には履き慣れたサンダル。
まるで近所の子どもが夏祭りの帰りに迷い込んだかのような、そんな装いだった。
その小さな足が地面に触れる瞬間、まるで羽毛が舞い降りるように静かだった。
悠真は言葉を失いながらも、思わず問いかける。
「あ、えっと……君は?」
少女は無表情のまま、けれども透き通るような声で口を開いた。
「……のぞみ」
その一言は、かすかな風鈴の音のように夜空へ溶けていった。
月明かりに照らされた路地で、悠真はただその光景に立ち尽くす。
そして、静寂だけがその場に残った。
⸻
その夜の静寂とは対照的に、都心のナイトクラブの一室――最奥のVIPルームでは、別世界の熱気が満ちていた。
黒光りするテーブルには開けかけのボトルがいくつも転がり、濃厚な酒の匂いが充満している。
豪奢なソファに足を投げ出す男がひとり。
鋭い眼光は獲物を射抜く猛禽のよう。
無造作に結い上げたサムライヘアが、粗野な迫力をさらに際立たせている。
両耳には乱雑に並ぶ無数のピアスが光を弾き、金属音のような冷たさを纏わせていた。
首から肩へと広がるのは、派手なタトゥー。
さらに両腕には――死神を象った髑髏のタトゥーが、まるで鏡写しのように対称に描かれている。
その姿は、見る者に抗いがたい圧迫感を与えていた。
男の名は 相馬仁(33)。
ここ最近、関東一円を荒らし回る半グレ集団〈ツインスカル〉の頭。
車の窃盗、闇バイト、恐喝、傷害――何でも食い散らかし、警察の目をすり抜けてきた。そんな彼の両脇には艶やかな女が二人、甘えるように身を寄せている。
しかし、その眼差しは女ではなく、目の前に立たされた四人の若い構成員へと注がれていた。
顔は青ざめ、視線は泳ぎ、背筋は小刻みに震えていた。
「……聞いたぞ」
低く響く相馬の声に、4人の体が硬直する。
「お前ら、警察の世話になったそうじゃねぇか?」
「い、いや、それは――」
言い訳しかけた瞬間、相馬の目がギロリと光り、男は口をつぐむ。
「随分だな。前にも女一人にやられてただろ?」
「そ、それは……っ」
「……あァ?」
舌打ち一つで空気が凍りつく。
4人は口を閉ざし、俯くしかなかった。
「弛んでんじゃねぇのか? これじゃ他の奴にも示しがつかねぇ」
背後に控えていた用心棒が動いた。
容赦ない拳と蹴りが飛び交い、呻き声が部屋に満ちる。
「ぐあっ!」
「ひぃっ……!」
「がっ……!」
「うぐっ……!」
ソファから一歩も動かずに相馬は眺めていた。
氷のように冷えた笑みを浮かべながら。
やがて、呻く部下たちに視線を落とす。
「で――余計なことは言ってねぇんだろうな?」
「も、勿論です! 刑事には何も……!」
「ならいい」
酒を煽り、グラスを乱暴にテーブルへ叩きつける。
「その刑事の名前は?」
「た、確か……矢島、矢島刑事って……」
「矢島……」
相馬の瞳に一瞬、別の光が宿る。
過去の記憶を呼び覚ますように遠い目をし――そして唐突に笑い出した。
「クク……はははははっ!」
「ど、どうしたんですか……?」
怯えた部下が問いかける。
「いやぁ……懐かしい名前を聞いたもんでな」
ニヤリと唇を吊り上げ、氷のような眼光で部下たちを射抜く。
「いいか。矢島の周りの人間を洗え。交友関係でも同僚でも誰でもだ。監視もつけろ。人員は好きなだけ使え」
「は、はい! で、でも……その、家族とかは……?」
「ハッ……心配すんな。あいつに家族はいねぇよ」
酒に濡れた唇から、愉悦の混じった言葉が漏れる。
――相馬仁の嗤い声が、重低音の音楽に溶けていく。
その夜、えにし屋では誰も知らぬところで、嵐の種が動き始めていた。




