第二十六話 親子丼と聖女達の決意
天界――。
その広大な空間は一つの巨大な球体の中に存在し、中央にそびえる青と白を基調に築かれた宮殿を取り囲むように自然と建築が調和していた。透き通る川が流れ、光を帯びた樹々が揺れ、天使たちが静かに行き交う。
その全ては「青き月」としてラグノスの夜空に浮かび、人々にとってはただの天体にすぎなかった。そのため、その月の正体を知る者は地上には一人としていない。
その宮殿の回廊を、一人の天使が歩いていた。
肩には何かを担ぎ、まるで荷物を運ぶかのように。
「ミカエル、それ……何を運んでいるの?」
涼やかな声に振り向けば、そこに立っていたのは一人の女性。
深い緑色の長髪は波のように揺れ、柔和な美貌に秘められた眼差しは力強くも慈愛に満ちている。彼女が身に纏うローブは、ドレスのように優美でありながら神々しさを放っていた。
「ああ、ラファエルか」
ミカエルは足を止め、担いでいたものを少し傾けて見せる。
「……えっ!?それって……ウリエル!?」
布切れのようにボロボロな姿に、ラファエルは目を丸くする。
「や、やあ……ラファエル。……元気そうだね……?」
弱々しく笑うウリエル。
「元気そうだねじゃないでしょう! あなた、一体どうしてそんな――」
「あはは……」
(言えない……勇者と魔王に返り討ちになったなんて、絶対に言えない……!)
「この愚か者は、勇者と魔王に返り討ちに遭ったのだ」
ミカエルが淡々と告げた。
「なっ!?なんで言うんだよ!?」
「ぷっ……ふふふっ……あははははは!」
ラファエルは腹を抱えて笑い出した。
「笑うなってば!」
「ごめん、ごめんなさい……でも……あぁ、久しぶりにこんなに笑ったわ」
涙を拭いながら笑うラファエル。
「まったく……」
ミカエルは肩を竦め、深いため息をついた。
「それで、これから報告に行くんでしょう?」
「ああ、そういうことだ」
頭を抱えるミカエル。
「なら、彼は私が預かるわ。どうせ暇だし――癒しと調和を司る大天使の務め、果たしてみせましょう」
「助かる」
「はいはい。さあ、行くわよ、ウリエル」
ラファエルが指を軽く弾くと、ウリエルの身体は淡い光に包まれ、半透明の球体へと変わった。それはふわりと浮かび上がり、風船のように彼女の後に続く。
二人の姿が遠ざかるのを見届けた後、ミカエルは独りごちる。
「……勇者と魔王がまさか共闘するとはな。天界はどう動くべきか……」
重々しい呟きを残し、彼もまた回廊の奥へと歩み去っていった。
あの騒動から数週間が経った。
季節は九月に入ってもなお夏の熱気を引きずり、昼前のえにし屋の店内には、じんわりとした暑さが残っていた。
開店前の静けさの中、カウンター奥の厨房からはリズミカルな包丁の音に続いて、何かが煮込まれている、グツグツという鍋の音が響く。
そこに立っているのは悠真と、白いエプロンをきゅっと結んだセリシアだった。
「うん、いい感じだよ。じゃあ、溶いた卵を――」
悠真の指示に合わせ、セリシアは真剣な表情でボウルの卵液を親子鍋へと流し込む
「火は、もう少し弱めた方がいいですか?」
「いや、このままで。白身が少し固まり始めたら火を止めて、蓋をして蒸らすんだ」
「なるほど……!」
しばらくして、蓋を開けた瞬間、鶏肉と玉ねぎの旨味を含んだ湯気が厨房いっぱいに広がり、セリシアの瞳がぱっと輝いた。
「わぁ……! ちゃんと出来てます!」
「うん、バッチリ。美味しそうだよ」
そんな二人の声と漂う匂いに釣られて、ひょっこりと姿を現したのはルシアだった。
黒色の髪を揺らし、鼻をひくつかせながら厨房に顔を出す。
「おお……なんじゃ、この食欲を直撃する香りは……」
覗き込んだ視線の先、黄金色に輝く卵が鶏肉と玉ねぎを優しく包み込んでいる。
「これは……親子丼か!?」
「はい! 大正解です」
セリシアが嬉しそうに胸を張る。
「今日のまかないはね、セリシアが作ったんだよ」
悠真がさらりと言うと、ルシアの目が丸くなった。
「なんと……お主が!?」
「はい。ただ……まだ一人では心配なので……悠真に教えてもらいながらです」
「いや、上出来じゃろう! 最初は卵焼きすらまともに作れなかったお主が……ここまでとはのう」
どこか感慨深げに頷きながら、なぜか自分のことのようにしみじみするルシア。
「ル、ルシア、そこまで言わなくても……!」
セリシアが頬を赤くする。
「でも本当だよ。セリシア、ずっと頑張ってたから」
悠真の言葉に、セリシアは小さく首を振った。
「ここまでできるようになったのは、悠真のおかげです。本当に……ありがとうございます」
セリシアの胸に蘇るのは、幼い日の記憶。
地方貴族の令嬢として育った彼女は、厨房に立つことなどなかった。だが唯一、母と一緒に母の故郷の菓子を作った時間だけは、鮮やかに残っている。
勇者となってからは、そんな「台所の時間」とは無縁の人生を歩んできた。
だが、ここで――〈えにし屋〉で――初めて悠真が作った卵焼きの味に驚いた日のことを、今も忘れられない。
味だけではない。
包丁の扱い方、火加減、盛り付けの工夫……料理という営みの一つひとつが、セリシアには新鮮で、胸を打つものだった。
それからというもの、空いた時間に少しずつ悠真から料理の手ほどきを受け、今日という日を迎えていたのだ。
温かな香りと共に広がる笑顔――
〈えにし屋〉の昼下がりは、そんな小さな成長と幸せに包まれていた。
そんな中、店の引き戸が「ガラガラ」と音を立てて開いた。
「悠真殿、今戻った」
低く落ち着いた声とともに入ってきたのは、白いTシャツにデニムの長ズボン、そして白のスニーカーを合わせたグレイだった。
シンプルな装いながら、端正な顔立ちと、鍛え上げられた体躯がその雰囲気を際立たせる。
さらに三十代半ばという年齢の落ち着きが加わり、店の中の空気すらわずかに引き締まったように思えた。
「ああ、グレイさん。おかえりなさい」
悠真が笑顔で迎える。
「お主、姿が見えんと思ったら……どこぞへ出かけていたのか?」
ルシアが腕を組みながら問いかける。
「ちょっとお使いをお願いしていたんです。足りない調味料を買いに行ってもらってまして」
悠真が答えると、グレイは軽く頷いた。
「そういうことだ」
そう言って彼は悠真の元へと歩み寄り、買い物袋を差し出す。
「ふーん……なるほどのう」
ルシアは顎に手を当て、じろりと観察するように目を細めた。
「悠真殿、確認を」
「ありがとうございます。……はい、大丈夫です!暑い中すみませんでした」
悠真が中身を確認し、感謝を込めて頭を下げる。
「ふむ。この国の……夏、と言ったか。なかなかに厳しいな」
グレイは額の汗を拭いながら苦笑する。
「そうですね。本来なら九月に入れば少しずつ涼しくなるはずなんですけど……最近はずっと暑さが長引くんですよ」
悠真の説明に、グレイは感心したように頷いた。
「なるほど。……だが、これは面白いな。国や世界が変われば、気候や四季の感覚すら違うということか」
「なんじゃ、もう暑さに負けてへばったのかと思ったわ」
ルシアがにやりと笑う。
「いや、そうではない。ただ……環境の違いを肌で感じているだけだ」
淡々と答えるグレイの真面目さに、セリシアが思わず小さく吹き出した。
「ふふっ、グレイさんらしいですね」
悠真もつい笑みをこぼし、少し真面目に問いかける。
「どうですか? グレイさん。こっちの暮らしには、もう慣れてきましたか?」
グレイは少しだけ考え込むように視線を落とし、それから静かに答えた。
「……そうだな。驚くことは、まだ数えきれぬほどある。だが……こちらでの生活にはだいぶ慣れたつもりだ」
そして、ふと柔らかい眼差しを悠真へ向ける。
「これも……悠真殿と、美沙殿のおかげだ。感謝している」
その言葉に、悠真は照れたように後頭部を掻き、セリシアは少し誇らしげに微笑む。
グレイの声音には、深い実感がこもっていた。
彼の脳裏に、この世界へ来たばかりの頃の記憶がよみがえる。
当初はただ「魔王討伐」と「セリシアを連れ戻す」という使命しかなく、この世界のことなど目に入っていなかった。だが、シェリアに「ここに残って下さい」と言われ、初めて冷静に周囲を見渡したとき――愕然とした。
見るもの、聞くもの、触れるものすべてが未知。常識など一瞬で打ち砕かれ、理解が追いつかない。
(……セリシアは、こんな場所にひとりで放り込まれたのか)
その時、彼は心底思った。どれほど心細かっただろうかと。そして、彼女が最初に出会ったのが悠真でよかったと、これほど感謝した日はなかった。
後日、グレイ自身もセリシアと美沙に連れられて東京を巡ることになった。生活に必要な品を揃えるためだったが、その一日は強烈な記憶として残っている。
「ねえ、グレイさんって何歳? 三十六? わ、私の十個上かー!」
「立ち振る舞い、すっごく綺麗だよね。あ、やっぱり貴族なの? 道理で気品あるわけだ」
「え、でもその歳で奥さんいないの? ……意外!」
美沙は興味津々で質問を浴びせかけてきた。返答に困る場面も多かったが、そのたびセリシアがさりげなく助け舟を出してくれた。
(……こちらの女性は、随分と積極的なのだな)と心の中で戸惑いつつも、次第に慣れていく自分をグレイは自覚していた。
さらに忘れられないのは――服の一件だった。
鎧姿のまま街を歩くわけにはいかず、悠真が服を貸そうとしたがサイズが合わない。唯一着られそうだったスウェットを着たところ、体格の差でピチピチになってしまったのだ。
その姿を見て、セリシアと美沙は笑いを堪え、ルシアは床を転げ回って腹を抱えて笑っていた。
不本意ながら、その瞬間から妙に打ち解けた気がする――そんな記憶だった。
「最初に“ここに残れ”と言われた時は、正直、不安で仕方がなかった」
グレイは小さく息を吐く。
「魔法も争いもない世界など信じられず……生活においても、魔法がなければ不便ばかりだろうと覚悟していた。だが――科学、だったか。こちらの世界の仕組みは……我らのそれより、はるかに便利で驚かされるばかりだ」
「ふん、堅物め。その年で未だに嫁も取れんのは、その性格のせいじゃろうが」
すかさずルシアがにやりと口を挟む。
「百を超えても結婚していないお前に言われたくはない」
「な、なにおうっ! わ、我は別に、け、結婚などしたいと思っておらんわ!」
顔を赤らめて声を張り上げるルシアに、セリシアが思わず吹き出す。
「まぁまぁ……二人とも落ち着いて」
悠真が慌てて間に入り、笑いを含んだ声で言った。
「でも、グレイさんがこの世界に慣れてくれて、本当に良かったです」
グレイはその言葉に、照れを隠すように軽く視線を逸らした。
だが、表情にはどこか安堵がにじんでいた。
その時だった。
「うむ……」
何かを察したように、ルシアが立ち上がり店の奥、厨房へと向かう。
「どうかしたのか、ルシア?」
悠真が心配そうに後を追う。
セリシアとグレイもお互いに視線を交わすと、悠真の後を追った。
奥の厨房にたどり着くと、そこには淡い光を放つ魔法陣が浮かび上がっていた。
それはかつてセリシアとルシアがこの世界に現れた、まさにその場所。
「もしかして……」
悠真が口を開くと、魔法陣から二人の影が現れた。
「皆さん、お久しぶりです」
「やっほー、セリちゃん!」
シェリアとリアの笑顔に、セリシアの胸に安堵が広がる。
「二人とも、元気そうでよかった……」
思わず笑みがこぼれる。
「その様子だと、指輪は上手く使いこなしているみたいじゃの?」
ルシアがシェリアの指に輝く二つの指輪へと視線をやる。
「ええ、この指輪を譲って頂き感謝しています」
シェリアは丁寧に答える。
「二人とも、ラグノスではどうだったのだ?」
グレイが腕を組み、報告を促すように視線を向ける。
「それを説明しに来たんですよ」
「……積もる話もあるでしょうが、とりあえず座って話しましょう」
悠真が気を利かせて促すと、シェリアは小さく会釈を返した。
「ありがとうございます、悠真さん」
一行は店内へ移り、ラグノス側の情勢を聞くこととなった。
「なるほど……当初の予定通りに進んだという訳か」
グレイは冷静に頷きながら報告を確認する。
「ええ、ですが一部で勇者の帰還を望む声もあります」
シェリアの言葉に、セリシアの表情がわずかに曇った。
シェリアはそれに気付き、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫です、セリシアさん。一部反対意見が出るのは想定内ですから」
「でも……シェリアが私のために大変な思いを……」
「セリシアさん、私を誰だと思っているんですか?」
シェリアはにっこりと笑う。
「これくらい、私にとっては“大変”のうちに入りません!」
それは「心配しなくていい」という彼女なりの優しさだった。
セリシアは一瞬言葉を詰まらせ、それから微笑んだ。
「……ありがとう、シェリア」
「はいっ!」
シェリアが満面の笑みで応えると、その隣でリアがふと鼻をひくつかせる。
「クンクン……ねぇ、なんかいい匂いがする」
リアが匂いの元を辿ると、端のテーブルに座るルシアの姿があった。
そこでは、ルシアが親子丼を頬張っていた。
「な、なんじゃ……」
リアの目と鼻は釘付けになる。
「ルシアさん、今食べてる物って……?」
シェリアが尋ねると、ルシアは無邪気に答えた。
「ん?これか?親子丼じゃ」
「オ、オヤコドン?」
「オヤコドン……?」
その瞬間、シェリアとリアのお腹が、タイミング良くグゥゥと鳴った。
「……」
「……」
二人は顔を真っ赤にし、思わず視線を逸らした。
ルシアが得意げに箸を掲げる。
「ふふん。食べたいなら、素直にそう言えばよいのじゃ!」
「ル、ルシア……」
セリシアが呆れたように、悠真と共に苦笑いをする。
「シェリアさん、リアさん。良かったら食べて行きますか?」
悠真が声を掛けると、シェリアは一瞬遠慮がちに首を振った。
「あ、いえ……そこまで甘えるわけには……」
しかし悠真は穏やかに笑って返す。
「ここは居酒屋です。料理やお酒を楽しんでもらうための場所なんですよ。今はお酒は出せませんが……せっかくいらしたんですから、ぜひご馳走させてください」
「……そこまで言っていただけるなら」
シェリアが小さく微笑む。
「ありがとう、悠真さん!」リアは子供のようにぱぁっと顔を輝かせた。
「それに今日は――うちの看板娘が腕を振るいますからね!」
悠真がにやりと目配せする。
「ま、任せてください!」
セリシアが少し気恥ずかしそうに胸を張ると、シェリアとリアが目を丸くした。
「えっ、セリちゃんが作るの!?」
「それは楽しみです」
――こうして、悠真がサポートに入りながら、セリシアは二人のために親子丼を作り上げた。
「お待たせしました……親子丼です」
湯気を立てる丼を前に、セリシアはほんのり緊張した声で告げる。食べやすいようにと、そっとスプーンも添えられていた。
「では……」
二人が手を合わせようとしたその時――。
「待て」
低い声で割り込んだのはグレイだった。
「二人とも、覚悟して食べた方がいい」
「……え?」
リアがスプーンを止め、眉をひそめる。
「この世界の食べ物は――悪魔だ。ひと口味わえば最後、もう二度と逃れられぬ。魂まで虜にされる……」
わざとらしく重々しい口調で語るグレイ。
「ど、毒でも入っているんですか!?」
シェリアが思わず身を引く。
「毒なんて入ってません!」
セリシアが即座に否定して、真っ赤になりながら抗議する。
「も、もう……グレイ!変なこと言わないで!」
「と、とにかく温かいうちにどうぞ。セリシアが一生懸命作ったんです。絶対に美味しいですよ」
悠真が慌ててフォローした。
「……そうだね!せっかくセリちゃんが作ってくれたんだもん!」
リアが勢いよくスプーンを構える。
「いただきます」シェリアも静かに口に運んだ。
――そして、二人の時が止まる。
「……」
「……」
しんとした空気に、セリシアは不安げに身を縮める。
「ど、どう……ですか……?」
「……なに、これ」
リアがぽつりと呟いた。
「こ、これは……」シェリアの声が震える。
そして二人同時に叫んだ。
「美味しいっ!!」
「な、なんですかこの味は!?」
一気に畳み掛けるように感想が飛び出す。
「卵……だよね?こんなにふんだんに卵を使った料理、見たことない!」
「このお肉……まさか若鶏!? ありえません、そんな贅沢……」
「だって若鶏なんて、貴族の宴席でも滅多に出ない高級食材だよ! それが普通のお店で!? ここって高級料理店なの!?」
「待ってください。この甘辛い味……まさか砂糖が使われているのでは?」
「砂糖!? そんな……上流貴族でも滅多に口にできないものを……!」
二人は完全に盛り上がり、早口で掛け合うように騒ぎ立てた。
その様子を見て、悠真は苦笑を漏らす。
「なんか……グレイさんがこっちの料理を初めて食べた時もこんな感じだったな」
ルシアが肩をすくめる。
「普通はこうなるんじゃ。ラグノスは戦が絶えんからの。一部の調味料や香辛料といったものは貴重。特に砂糖や黒胡椒といったものはの。それと若鶏は卵を産ませるために育てるから、肉としてはほぼ出回らん。出るとしたら老いた親鳥の固い肉ぐらいじゃ」
「でも、セリシアはそんな驚き方してなかったよな?」悠真が首をかしげる。
「わ、私は……」
セリシアは視線を逸らし、耳まで赤くなる。
ルシアがくすりと笑って言った。
「お主は好奇心に振り回されて、それどころじゃなかっただけじゃろ」
「……」
否定できず、セリシアは黙り込む。
「そ、それを言うなら……ルシアだって、私の唐揚げを食べたとき、同じ顔してましたよね!?」
セリシアが頬を膨らませる。
「なんじゃ、お主……まだあれを根に持っておったのか」
ルシアが頭を掻きながら苦笑する。
悠真はその光景を思い出して吹き出した。
「まぁまぁ。食べ物の恨みは恐ろしいって言うしな」
そんな中、シェリアの視線がテーブルの上に向けられる。
「こ、これは何ですか?」
赤いキャップの小瓶を手に取り、不思議そうに首を傾げた。
「ああ、それは一味唐辛子。あと、醤油と塩ですね。料理の味をお客さんが自分好みに調整できるように置いてるんです」
「イチミ……トウガラシ?」
「ショウユも初耳だね。塩は私たちの国でもあるけど」リアが覗き込む。
悠真はにっこり笑って説明する。
「親子丼なら、一味唐辛子を振るとピリッと辛味が加わって美味しいですよ」
「か、辛いんですか!?」
「はい。苦手なら無理にかけなくても――」
「いえ!かけます!」
シェリアは胸を張って即答した。
「……あっちゃー」リアが頭を抱える。
「使い方は簡単ですよ。キャップをこうやって開けて、少しずつ……」
悠真が手本を見せ、一味を手渡す。
「はい!」
聖女とは思えぬほど元気な返事と同時に、シェリアは――
パラパラ、パラパラ、パラパラパラパラ……
「ちょ、ちょっと待って!かけすぎると本当に辛いですから!」
悠真が青ざめる。
「大丈夫大丈夫!シェリア、辛いの大好きなんだよ」リアが呆れたように説明する。
シェリアは真っ赤に染まった親子丼を一口……ぱくり。
「ん〜っ!この辛味、親子丼の甘さと合わさって最高です!」
目を輝かせ、汗をかきながらも嬉しそうに食べ進める姿に、リアは引き気味。
「……相変わらずだよね。砂漠の国に行ったときも、辛い料理ばっかり食べてたし」
「辛いものは、私にとって癒しなのですよ」
どこか誇らしげな聖女の言葉。
「……そういうのばっかり食べてるから痔になるんだよ」
――場の空気が凍った。
「……今、なんと?」
にこりと笑ったまま、シェリアの手がリアの頭を鷲掴みにする。
「ひっ……!ち、違……!」
「誰が何になるって?」
「え、えっと……」
「私はなってません。仮になっていたとしても、もう治っているのでそんな事実は存在しません。わかりますね?」
「……はいっ!その通りでございます!!」
リアは姿勢を正し、背筋をぴんと伸ばした。
「よろしい」
シェリアが手を放し、何事もなかったように再び親子丼を頬張る。
店内の全員が無言になり――
(……痔なんだ)
(……痔だったんだ)
(……痔とは、なかなかに大変なものじゃ)
しんと静まり返った空気に、グレイの重たい溜息だけが響いた。
二人は、丼の底が見えるまできれいに平らげていた。
「ご馳走様でした」
「ふぅ〜、セリちゃん!本当に美味しかったよ!」
「お口に合ってよかったです」
頬を紅潮させ、セリシアはほっと微笑む。自分の料理をここまで喜んでくれる姿が嬉しくて仕方ない。
グレイが腕を組みながら、ふっと口元を緩めた。
「その様子だと……すっかりこちらの料理の虜になったようだな」
「ええ。セリシアさんの腕も素晴らしかったですが、それ以上に――」
シェリアが言葉を探していると、リアが手を叩いた。
「材料だよね!ラグノスじゃまず見かけないものばっかりだったし」
「もしかして、グレイさんも……?」
「当然だ。ここの料理に魅せられぬ者などいまい。しかも、これが“日常食”だというのだから驚かされる」
「こ、これが一般的な料理なんですか!?」
シェリアの瞳が大きく見開かれる。
「嘘でしょ……王国の晩餐会ですら、こんなの出てこなかったよ?」リアも頭を抱える。
この世界の「食」のレベルの高さに、二人はただただ唖然とした。
「料理に欠かせぬ材料や調味料は、こちらでは容易に手に入る。
それだけではない――この世界は、我々の常識が通じぬ世界だ」
ごくり、と二人は喉を鳴らした。視線は自然と、店の外へと続く扉へ吸い寄せられていく。
「あの扉の先に……そんな世界が」
「そうだね。私たち、ここに来たときは状況が状況だったから、ほとんど見られてないし。店にだって、魔王の転移魔法で直行だったもん」
互いに目を合わせ、同時に立ち上がる二人。
「今後のためにも、こちらの世界を知らなければなりませんね」
「うん!見極めないと!」
勢い込む二人に、ルシアがすかさずツッコミを入れる。
「ほぅ?聞こえは良いが……要するに“観光したい”だけなんじゃろ?」
「……」
「……」
同時に押し黙るシェリアとリア。耳までほんのり赤い。
その絶妙な間を破ったのは、扉の軽快な音だった。
ガラガラッ。
「こんにちはー!いやぁ、まだまだ外は暑いねー!」
入ってきたのは、美沙だった。
額に汗を浮かべ、にこやかな笑顔で手を振る。
その瞬間、張りつめていた空気が一気にほどけ、店内に穏やかな風が吹き込んだ。




