第二十四話 勇者と魔王の夜明け
ルシアは上空から戦場を見下ろし、聖域結界が崩れ落ちるのと同時に、膝をつくウリエルの姿を確認した。
隕石の嵐が止み、世界は一瞬だけ時間を忘れたかのように静まり返る。
「……ようやく、終わった様じゃの」
ルシアはふわりと降下し、ウリエルの前に立つ。
息は荒く、羽は乱れ、しかし生命の灯はまだ消えていない。
その深い傷と、信じられぬものを見る瞳が彼の敗北を物語っていた。
「バ、バカな……この僕が……負けた……?」
「ふむ、あれで死なぬとは……天使の生命力も大したものじゃ」
「ルシア!」
駆け寄るセリシアが彼女の隣に立ち、視線をウリエルに向ける。
「それで……彼を、どうしますか?」
その問いに、ルシアは鉄扇を抜き、音もなく振り上げ刃の縁を光らせる。
「まぁ、此処でトドメを刺しておくのが無難じゃろうな」
「ま、待ってください! ルシア!」
セリシアの声と同時に、ウリエルの顔にも動揺が走る。
「ま、待て! ぼ、僕を殺すのか!?僕を殺せば天界が黙ってないぞ!」
「おお、そうか。ならば速やかに殺そう。天界に知られる前に始末すれば問題ない」
にやりと笑うルシア。
その笑みに、ウリエルの背筋が凍る。
「ひっ……!」
「だから、待ってください!」
セリシアが割って入り、ルシアの手を押さえる。
「冗談じゃ」
「もうっ……!」
小さくため息をついたセリシアは、ウリエルの前に歩み出た。
「貴方に……聞きたいことがあります」
「……ぼ、僕に?」
「先ほど貴方は、こう言いました――『勇者と魔王、どちらかが消えれば助かる』と。それはどういう意味ですか? あなたの言う、ラグノスのシステムと関係があるんですか?」
「ぐっ……そ、それは……」
口ごもるウリエル。
「我も全てを知るわけではないが……天界はラグノスで何をしておるのじゃ?」
沈黙。
ルシアが鉄扇をわざと鳴らし、低く囁く。
「早く喋った方がいいんじゃないかの? 首と胴が仲違いしたくはなかろ?」
「ま、待て! しゃ、喋るから!」
観念したウリエルは、唇を震わせながら言葉を紡ぎ始めた。
「ぼ、僕達天使は……ラグノスで――」
その瞬間――
「――それ以上は、少し困るな」
低く、響き渡る声。
同時に天が裂け、純白と黄金が混じる光柱がウリエルを直撃した。
「離れるのじゃ!」
「くっ!」
咄嗟に飛び退く二人。
光が収束した後には、深く穿たれた大穴と……その上に佇む新たな影。
そこに浮かんでいたのは、一人の男の天使だった。
空に浮かぶ金色の長髪、四枚の翼を広げ、威厳に満ちた天使の姿。
──まさに天界の威光。
体格はウリエルとは異なり、屈強で圧倒的な存在感を放つ。
その顔は冷静かつ威厳に満ち、まるで荒野の静寂さえも畏怖しているかのようだ。
その男は静かに空を舞いながら、肩にウリエルを抱えていた。
「ミ、ミカエル〜」
そして、情けない声を漏らすウリエル。
そんなウリエルにどこか呆れた顔をしても、その瞳には少しの怒りも混じっている。
「全く、貴様はいったい何をやっているのだ……」
ウリエルを肩に抱えながら、ミカエルは低く呆れた声を漏らす。
「ミカエル……」
その声を聞いて、セリシアの胸がわずかに震えた。
「何じゃ? お主も何か思うところがあるのかの?」
ルシアの言葉に少しセリシアは驚く。
「ル、ルシアも……?」
「……ああ、この声は、今でも覚えておる」
「私も……聞いたことがあります」
セリシアの声は穏やかだが、瞳は真剣そのもの。
二人の口から、同時に言葉が零れる。
「私が勇者の力を与えられた日」
「我が魔王の力を与えられた日」
しかし、二人はそのことに驚きはない。
空から見下ろすミカエルの口がゆっくり開く。
「二人とも、私が与えた力を十分に引き出せてなによりだ。ただ……我々の思惑とは違った形になってしまっているようだがな」
「やはり、貴方が力を……」
「我が名は大天使ミカエル。正義と戦いを司る者だ。どうやらこちらの身内が少々迷惑を掛けたようだな……すまなかった」
「ちょ、な、何で謝ってるんだよ、ミカエル! 僕をこんなんにしたのはあいつらだろ!?」
肩に抱えられたまま、暴れるウリエル。
だが、ミカエルは静かに、しかし確実に怒声を響かせる。
「黙れ。もともとお前に頼んだのは監視だったはずだ。それを無視して勝手に動くからこうなるのだ」
「そ、そんな〜」
「それに、天使はそう簡単に死なん! 怪我など数週間もあれば治るだろう」
天使の声が、まるで説教する親のように響き、威厳が少しずつ薄れていく。
――妙に滑稽な印象――を覚えずにはいられなかった。
そして、ミカエルははっと我に返ったかのように咳払いを一つ。
ごほん、と空気を整え、セリシアたちの方へ向き直る。
「さて……我々はこれで失礼するとしよう」
ルシアは鉄扇を構え、警戒を緩めない。
「我らが簡単に行かせるとでも思っておるのか?」
ミカエルは肩の力を抜き、静かに答える。
「こちらに君達と戦う意志はない」
ルシアは鋭く睨み返す。
「それを信じろと言うのか? ウリエルは我を殺す気だったぞ?」
ため息を一つ、ミカエルは肩に抱えたウリエルの尻を軽く叩いた。
「あいたっ! うぅ……」
見るも無惨なウリエルの姿に、セリシアとルシアは何とも言えない表情を見せる。
「それはこれが勝手にやっただけだ」
言葉の端に、揺るがぬ余裕が混じる。
だがその視線は鋭く、二人を射抜くようだった。
「それに、君たちに力を与えたのが誰か忘れない事だ」
(たしかに……私やルシアに力を与えたのなら、その力はウリエル以上……)
(疲弊した状態で挑むのは無謀なのかもしれんな)
二人の態度を見て、ミカエルは満足げに頷く。
「どうやら分かってくれたようで、なによりだ。いずれ、近いうちに会うことになるだろう」
「それはどういう意味ですか!?」
セリシアが問いかけようとするも、ミカエルは答えず。
「では、また会うのを楽しみにしてるよ」
ミカエルとウリエルは風のように消え去る。
光と共に消えゆく大天使――その圧倒的な存在感は、去った後も空気に微かに残り、戦場に静かな余韻を刻んだ。
「ふぅ……全く、この短期間で色々ありすぎて疲れたわ」
ルシアはそう言って、肩の力を抜く。
紅く燃えていた髪はゆっくりと黒へと戻り、瞳の緋色の光も消えて、元の深い紅に落ち着いた。
「彼らは……一体ラグノスで何をしているんでしょう」
セリシアは視線を落とし、思案に沈む。
「まぁ、今考えたところで答えは出まい」
ルシアは淡々と告げるが、その声は妙に落ち着いていて、セリシアの焦りを少し和らげた。
「……そうですね」
そんな二人の間に、突如甲高い声が割って入った。
「セリちゃーーん!!」
振り向けば、リア、シェリア、そしてグレイが飛翔しこちらへ向かって来るのが見える。
着地するや否や、リアは勢いよくセリシアの胸に飛び込み、無事を確かめた。
「ねぇ、大丈夫!?怪我はない!?」
真剣なその瞳を見て、セリシアはふっと微笑む。
「大丈夫。……心配してくれてありがとう」
「そっか……よかった」
リアも笑顔で返す。その背後から、シェリアとグレイも歩み寄った。
「無事ですか、セリシアさん」
「大きな怪我はないな?」
その様子を、ルシアは少し離れた場所から穏やかに眺めていた――が、次の瞬間、グレイの鋭い視線が突き刺さる。
「……魔王ルシア」
その呼び声に、リアとシェリアも同じように視線を向ける。セリシアは不安そうに口を開く。
「み、皆……?」
ルシアの目が細くなり、真剣な色を帯びる。
「なんじゃ? まだ我と戦うつもりかの?」
短い沈黙の後、シェリアが一歩前に出た。
「いえ、その必要はないでしょう。……貴方からは殺気が感じられませんから。リアさん、グレイさん、それでよろしいですね?」
二人は納得しきれない表情のまま、渋々頷く。
「ああ……」
「うん……」
セリシアは胸を撫で下ろした。
シェリアは視線を戻し、改めて問う。
「それでセリシアさん……一体何があったのか、説明していただけますか?」
「うん。実は――」
語り出そうとした瞬間、ルシアが手を挙げて遮る。
「おい、こんな所で長話をするもんじゃなかろう」
「……た、確かに。ルシアの言う通りですね」
セリシアは言葉を飲み込み、少し頷く。
「皆には、落ち着いた所でちゃんと話したいです。それに、悠真と美沙の所へ戻らないと……きっと心配してますから」
「そうじゃな」
ルシアも同意するように小さく頷いたが、その目は鋭く光っていた。
「それに――今、我らはとても重要な事を忘れておる。それも合わせてどうにかせんといけんじゃろ?」
「重要なこと……?」
首をかしげるセリシアと仲間たちに、ルシアは呆れたようにため息をつく。
「これじゃよ……」
四人の視線が足元へ向く。
そこは、崩落したビルの屋上。ルシアが空間を解除し、元の場所へ転移させたのだ。
ビルの下では、消防車や救急車、パトカーがひしめき合い、現場は騒然としていた。
サイレンの喧噪、隊員たちの怒号、避難を促す声――まるで先ほどの戦場の余韻が、形を変えてなお響き続けているかのようだった。
「あっ……」
「……」
「うぅ……」
「むっ……」
戦いは終わったはずなのに、現実はまだ、容赦なく動き続けていた。
「時間は、さほど経っておらん」
ルシアが淡々と告げる。
「我が作り出した空間では、此方とは流れが違う。こちらから見れば、一瞬の出来事に過ぎぬはずじゃ」
セリシアは小さく頷いた。だが、その視線はなお崩壊したビルから離れない。
焦燥と責任の色を宿したまま、唇をかすかに震わせる。
「……どうしましょう」
勇敢に剣を振るい、命を懸けて戦った勇者の姿は、もうそこはいなかった。
残されているのは、瓦礫と混乱、そして言葉を失った者たちの沈黙だけだった。
「取り敢えず、悠真と美沙と合流しようかの」
ルシアが指先を弾くと、転移魔法が展開され、次の瞬間――。
「えっ!?」
「な、何!?」
驚きに目を見開く悠真と美沙が現れた。
「悠真、美沙!」
セリシアが勢いよく抱きつく。
「うわっ……セリシア?」
「セリちゃん!?」
二人は事態をまるで把握できず、困惑する。
「うむ。どうやら二人とも無事の様で良かったわい」
ルシアは一安心したように笑う。
「え、ルシア?というか……ここは?」
「ここって、確か喫茶さくらのマスターのビル?」
「詳しい話は後じゃ。今からこの事態を収める」
そう言うと、ルシアはシェリアの方に顔を向ける。
「教会の娘――名はシェリアと言ったか?」
不意に名を呼ばれ、シェリアは肩をびくりと震わせる。
「え、あ、はい?」
「お主らの教会で使う聖魔法に、人の記憶を消す術があったじゃろう?」
「えっ……あ、はい。一応は……」
「なら、その聖魔法をこの一帯に掛けてくれ。範囲は……そうじゃな、祭り会場も含めて――」
ルシアはしばし考え込み、指で大きな円を描くように宙をなぞった。
「ざっくり、この場所を中心に川向こうまで。ぐるりと、だ。後,悠真と美沙の記憶は消すで無いぞ」
「……」
「我はその範囲で結界を張り、一時的に時を止める。その間に倒壊した建物を元に戻し、怪我人を治す。セリシア、お主は――」
「ちょっと待ってください!」
シェリアが慌てて遮った。
「そんな広範囲なんて無理です!そもそもこの魔法は、心の傷を負った人に対して個別に行うもので……周囲全員に、なんて……。それに、さっきの戦いで魔力もほとんど残ってません。一人にかけるのだって厳しいくらいです!」
ルシアはそんな抗弁を聞き流すように、懐から小さな金細工を取り出した。
「なんじゃ、仕方ないのう……なら、これを貸そう」
差し出されたのは重厚な意匠の白と黒の二つの指輪だった。
「ちょっ、話聞いてます……?」
渋々受け取った瞬間、シェリアの瞳が大きく見開かれる。
「こ、これは……?」
ルシアは穏やかに説明する。
「白の指輪は、魔法陣の展開を補助する装置のようなものじゃ。少しの魔力でも魔法陣を起動できるよう助けてくれるはずじゃ。そして黒の指輪は、展開範囲を広げる術式を魔法陣に組み込むためのものじゃ。これらを使えば、この一帯に聖魔法をかけることは可能かの?あと、指輪をはめていないと効果はないぞ」
シェリアは指輪をはめ、慎重に魔力を流し込む。
小さな光が手元で揺れ、魔法陣が徐々に構築され、その輪郭が宙に浮かび上がる。
「……ええ、これなら何とか……」
ルシアは満足げに頷き、今度はセリシアへ視線を移す。
「セリシア、お主は聖剣で同じ範囲の因果律を操作せよ。内容は任せるが、違和感のない形で頼むぞ」
「えっ、ちょっと待って……!」
彼女の戸惑いをよそに、ルシアは動き出した。
「――では、いくぞ」
乾いた音を響かせ、ルシアが両手を打ち合わせる。瞬間、彼女を中心に半球状の結界が広がった。
空気が、音が、全てが凍り付く。
人も動物も、川の流れさえも――一瞬で停止した。
「う、嘘でしょ……」
リアが息を呑み、グレイが低く呟く。
「……魔王」
「ねぇ、悠真さん私達夢を見ているのかな……?」
「いや、これは現実だよ」
悠真と美沙もただ呆然と、その光景を見つめていた。
「手早く済ますぞ。この結界は長くは保たん。限定的に時を切り抜いとるゆえ、他との時間差が開けば開くほど、隠し通すのは難しくなる」
その言葉にセリシアとシェリアは顔を引き締め、同時に動き出す。
ルシアは数十人の怪我人を同時に癒しながら、崩壊した建物を逆再生のように修復していく。瓦礫が宙に浮き、元あった場所へ吸い込まれるように戻っていく。
シェリアは両手を胸の前で重ね、指輪に意識を集中させる。
途端に、空気が震え、白と黒の指輪に導かれるように彼女の足元から複雑な紋様が幾重にも広がっていった。
「……どうか、この光で……」
彼女は震える声で、しかし確かな想いを込めて祈りを捧げた。
次の瞬間――。
魔法陣がふわりと淡い金色に輝きを放つ。
その輝きは柔らかな波紋となって広がり、夜の街を静かに包み込んでいく。
怒号も、ざわめきも、恐怖も……すべてが和らげられていくようだった。
まるで世界そのものが優しい夢に抱かれるかのように。
セリシアは聖剣を地面に突き立て、深く息を吸う。
(……原因と結果を変える。お願い、聖剣……力を貸して)
剣先から光の波紋が広がり、結界内を満たしていった。
その場にいた悠真と美沙はただただ、ことの顛末を息を呑んで見ていた。
――やがて、全ての作業が終わる。
「ふぅ……どうやら終わったようじゃな」
「ええ。このまま事態が落ち着けばいいのですが……」
セリシアが修復されたビルの屋上から下を覗く。
まだ人々で賑わっているが、その騒がしさは先ほどの混乱ではなく、珍しい光景を見物する野次馬のそれに変わっていた。
セリシアが変えた因果は「誤報による緊急出動」。
集まった消防車やパトカーはただの見世物となり、崩壊の痕跡も消えた今、その真実を証明するものはない。映像や写真が残っても、やがてはフェイクとして片付けられるだろう。
「これで、さくらのマスターにも迷惑はかからんじゃろ」
ルシアの何気ない一言に、セリシアや悠真、美沙は微笑んだ。
――この魔王は、何だかんだでこの世界を守っている。
「そうですね……では、私たちも帰りましょうか」
「そうじゃな。生ビールを一杯、一気に飲みたい気分じゃ」
「えにし屋に!」
「えにし屋で!」
二人の声が重なった時、悠真と美沙に笑みが溢れ、長かった夜に、ようやく終わりの気配が訪れた。




