第二十二話 天命に抗う剣
ウリエルの右手に、淡い光が集まり始めた。
それは瞬く間に細長い形を取り、一振りのサーベルとなる。装飾は一切ない、ただの銀色の刃――しかし、その存在そのものが異様な威圧感を放っていた。
「――」
次の瞬間、ウリエルの姿が掻き消えた。
空気が裂ける音が響き、ルシアの目の前に現れると同時に、横薙ぎの斬撃が閃く。
その速さ、グレイの剣速など比べ物にならない。
だが、セリシアは反射的に聖剣を振り上げ、その一撃を受け止めた。
「セリちゃん!」
「セリシア!」
「セリシアさん!」
仲間たちの叫びが響く。あまりにも一瞬の出来事だった。
ウリエルは、軽く首を傾げるようにして笑った。
「やっぱり守るかー。まぁ、さっきのやりとりを見てたら当然だよねぇ」
その無防備な横顔のすぐ隣――ルシアが音もなく現れていた。
右手には、黒い渦を巻く球体。術式で魔力を極限まで圧縮し、凝縮させた純粋な魔力の塊だ。
「――ぶっ飛べっ!!」
《黒死球》。
ウリエルは反射的にサーベルを構えたが、刃は呆気なくへし折れ、その黒球は直撃した。
轟音と共に黒い竜巻が発生し、飲み込まれたウリエルの姿は完全に視界から消える。
竜巻が暴れ回った後には、大地がえぐられた深い溝が残されていた。
「……チッ」
ルシアが小さく舌打ちする。
「ルシア! 体は…!」
「全快ではないが、心配するほどでもないわい。……セリシア、気を付けるのじゃ」
ルシアは飛ばされた方向を睨む。
だが――背後から、呑気な声が聞こえた。
「うーん、やっぱり両方相手にするのは面倒だなー」
全員が反射的に振り返る。
そこには、ほぼ無傷のウリエルが立っていた。
「あれだけの攻撃を受けて……無傷……?」
セリシアが息を呑む。
ウリエルは周囲を見渡し、ふと思いついたように口を開いた。
「勇者の仲間たちよ――勇者を足止めせよ。これは天命である」
その瞬間、グレイ、リア、シェリアの表情が凍り付く。
「なっ…… !?」
「そんな……!」
「天使様…… !?」
異世界ラグノスの人族にとって、天使の言葉は絶対だった。
ましてや女神教を信奉する者にとっては、抗うことなど許されない。心の奥に刻まれた教義が、彼らの理性を締め付ける。
三人の顔に、絶望の色が滲む。
「ま、待ってください! それは――」
シェリアが必死に声を上げたが、ウリエルは冷たく告げた。
「慈悲は認めぬ」
その声音は氷のように冷ややかで、先ほどまでの軽い口調とは別人のようだった。
そして再び柔らかな声色に戻し、肩を竦める。
「もー、そんな顔しないで。さっさとお願いねー」
そう言うと、ウリエルは再び魔王へと襲いかかる。
セリシアが援護に動こうとした瞬間――
彼女の前に、グレイ、リア、シェリアが立ちはだかった。
その瞳には迷いと苦悩、そして抗えぬ命令に縛られた色が宿っていた。
「……皆」
セリシアは、目の前の仲間たちの苦悩に歪む顔を見つめ、胸を締め付けられるような痛みに襲われていた。
「セリシア……おれは――」
グレイの声はかすれていた。それでも彼は、剣を構え、勇者である彼女へと向ける。
「……すみません。セリシアさん」
シェリアは神杖を握りしめ、震える手で構えた。その瞳の奥には、抗えぬ天命への恐怖と、友を傷つけたくない心がせめぎ合っていた。
「二人とも……っ!?」
リアが言葉を詰まらせる。
シェリアが、痛みに耐えるように声を絞り出した。
「リアさん……私たちは……世界を守る義務があります。……天使様の言葉を、聞かなければ……」
「で、でも……!」
リアは二人の顔を見た。苦しみと迷いに塗り潰されたその表情は、彼女の心をさらに抉った。
「……こんなの……おかしいよ」
小さく吐き捨て、リアもまた弓を構える。
こうして――勇者とその仲間たちが刃を交える、悲痛な戦いが始まった。
⸻
その少し離れた場所。
ウリエルの猛攻は容赦がなかった。
輝く魔法陣から生み出された無数の光槍が、雨のようにルシアへと降り注ぐ。
ルシアは即座に大地を隆起させ、分厚い岩壁で受け止める。衝撃で壁がひび割れ、破片が四方に飛び散る。
その背後で、ルシアの両手は止まらない。信じられない速さで術式を編み上げ、魔法陣を幾重にも重ねていく。
光槍の嵐が止む一瞬の隙を狙い、ルシアは跳躍した。
その真上――宙に展開された魔法陣が輝く。
「――《流星》」
轟音とともに、無数の隕石が天より降り注ぐ。
爆発、衝撃、砂煙。圧倒的な物量と破壊力がウリエルを飲み込む。
これこそが、千の魔法を操る魔王ルシアの真骨頂。
膨大な魔力を持つわけではない。だが、彼女は術式構築の速さと精度、そして徹底した最適化によって、詠唱を限りなく削ぎ落とし、魔力消費を抑えつつ威力を極限まで引き上げる。
それにより、限られた魔力量であっても多彩で高威力な魔法を連続で行使できる――だからこそ、彼女は千の魔法を操る魔王と呼ばれるのだ。
さらに、ルシアは小さく呟く。
「……魔力孔、第四紋――解放」
瞬間、彼女の体から淡い赤光が脈打つように広がり、夜闇を染み渡る血潮のごとく、黒髪が深紅へと変わり始めた。
紅に染まった髪は風に揺れ、その奥で光を帯びた瞳がさらに赤く燃え上がる。
業火のような緋色が瞳孔を包み、中心には熾火のような橙が静かに灯る。
その一歩で、戦場の空気が一変し――彼女を中心に世界が塗り替えられていく。
緋眼の魔女――その顕現だった。
違う戦場――
セリシアとリア、グレイ、シェリアの三人による攻防は、互いに譲らぬまま続いていた。
「お願い……みんな! 私をルシアのところへ行かせて!」
切実な叫びが空気を震わせる。
しかし、その声に悲痛な表情を浮かべながらも、三人の手は止まらない。
リアが素早く弓弦を引き絞り、矢を放つ。
鋭い風切り音がセリシアの行く手を裂く。
避けざるを得ない一瞬、その隙を逃さずグレイが斬り込む。
冷たい銀光が袈裟懸けに迫る――だが、その刃には殺意はない。
それでも、剣は確実にセリシアを止めるための重みを帯びていた。
「っ……!」
セリシアは剣身に自らの刃を沿わせ、流れるように受け流す。
体を捻り、くるりと宙を舞ってグレイの頭上を飛び越える。
(セリシア……本当に、あの時から強くなった……)
瞬間、グレイの脳裏に初めて彼女と出会った日の光景がよぎった。
――まだ勇者ではなかった少女。
セリシア・ヴァン・アーデルハイト。
聖王国南部、辺境の小領地を治める名門アーデルハイト家の令嬢。
政治的な力こそ小さいが、領民から深く慕われる温かな家だった。
だが南部は魔大陸に近く、戦火は常に遠くない場所にあった。
彼女が十歳になる前――
魔王軍と人族連合軍の大規模衝突が起こる。
先代勇者はすでに討たれ、均衡を失った戦況は激化。
炎は瞬く間に周辺へと広がり、アーデルハイト領もその渦に呑まれた。
聖王国は急ぎ騎士団を派遣した。
その遠征隊の副団長――それが、若き日のグレイだった。
しかし到着した時には、すべてが遅かった。
黒煙立ちのぼる街、倒れ伏す領民。
焦げた木の匂いと血の匂いが混ざり合う中、わずかな生存者を救いながら領主館へ向かった。
館は半ば崩れ、屋根に穴が空き、壁は黒く焼け爛れていた。
「……間に合わなかったな」
重い息を吐き、もはや望みはないと思いながら館の扉を押し開けた。
――そこで、彼は見た。
広間の中央、二つの遺体のそばに立ち尽くす小さな影。
金の髪を持ち、全身を淡い光に包まれた少女。
その瞳は、太陽のような金色に輝いていた。
しかし次の瞬間、光はふっと消え、瞳は澄んだ碧に変わる。
力尽きたように、少女は床に崩れ落ちた。
「……!」
駆け寄ったグレイは、その身体を抱き上げる。
その温もりは確かに生きていた。
後に、彼女が新たな勇者として覚醒したと知るのは――聖王国に戻ってからのことだった。
それから――
セリシアが聖王国に保護されて間もなく、彼女の剣術指南役として指名されたのはグレイだった。
初めての訓練の日、訓練場に現れた少女は、細い指でぎこちなく木剣を握っていた。
その瞳は、まだ怯えと不安を隠しきれない。年相応の、ただの子供だった。
「……怖いのか?」
問いかけると、セリシアは小さく頷いた。
無理もない。
いきなり“勇者”だと告げられ、触れたこともない剣を持たされ、見知らぬ土地に連れてこられた。
頼れる家族も友もいない――その不安は、彼女の小さな肩をさらに縮こませていた。十歳にも満たない少女が感じる孤独と恐怖は計り知れない。
それでも――。
「でも……わたしは、この力で……誰かを守りたい」
不安の底で震えながらも、その瞳だけは真っすぐで、揺るがなかった。
(……守りたい、だと?)
両親を殺され、領地を焼かれた子供なら、憎しみや絶望に呑まれてもおかしくない。
心を壊す者、自ら命を絶つ者、そして復讐だけを糧に生きる者――
そんな例を、彼は幾度も見てきた。
だが、目の前の少女は違った。
「憎くないのか? 魔族が。……復讐したくはないのか? ご両親を殺した相手に」
グレイの問いに、セリシアは一度うつむき……そして顔を上げた。
碧眼が、まっすぐに彼を射抜く。
「……本当は、憎いです。復讐だってしてやりたい。
でも……お父様もお母様も、それは望まないと思うんです。
二人ならきっとこう言います――『弱き者を助け、守りなさい』って。
だから……私は守るために強くなります」
その言葉に、グレイは胸を刺されるような感覚を覚えた。
復讐でも、逃避でもなく――守ることを選んだ少女。
「……君は」
グレイは一瞬、言葉を飲み込み――そして決意する。
「なら、私が鍛えよう。必ず……誰かを守れるようになるまで。そして、騎士として誓う――そんな君を、必ず守ると」
それからのセリシアは、一度もその意思を曲げなかった。
守りたいという願いは彼女の力を研ぎ澄まし、剣の才を花開かせた。
やがて、騎士団長となったグレイと並び立つほどの力を持つに至り――助けを求める声があれば、迷わずその前に立った。
どこにいても、それは変わらなかった。
(……あんな少女が、俺より強くなった。しかも、ずっと変わらず“守るために”戦ってきた。それに比べて今の俺は……)
グレイの手から、力が抜けていく。
セリシアの視線の先には、守るべきもの――それがたとえ魔王であっても、揺るがぬ信念があった。
(俺は……)
その瞬間、剣を握る手がほんのわずかに緩んだ。
グレイを飛び越えたセリシアは、すぐさまリアの放つ追撃に構えた。
だが、いつまで経ってもその矢は放たれない。
セリシアはふと顔を上げ、リアの方を見た。
そこにいたリアは、まるで震える嗚咽を押し殺すかのように震えながら、静かに立ち尽くしていた。
「行って、セリちゃん……」
その声はか細く、必死に堪えた涙のようだった。
「リア……」
セリシアの声に続いて、シェリアも苦しそうな視線でリアを見つめる。
グレイもまた動きを止め、背を向けたまま静かに告げた。
「すまない、シェリア。彼女を行かせてやってくれ……」
その言葉に、少しだけ驚いた様子のシェリア。
彼女は静かに頷く。
「セリシアさん、こちらへいらしてください」
攻撃の気配は完全に消え、戦場は異様な静寂に包まれた。
セリシアはシェリアの元へ歩み寄る。
「シェリア……」
互いに少し気まずそうに見つめ合い、やがてシェリアは柔らかな微笑みを浮かべた。
「聖衣転換――」
シェリアが呟くと、彼女の姿が淡く輝き出し、身に纏う法衣が輝く光に変わっていく。
光が消えると、セリシアの身に新たな衣装が現れていた。
白を基調とした上半身の法衣には青のラインが施され、胸元には女神教の紋章である女神の刺繍が美しく輝く。
下は青いミニスカートに黒のニーハイソックス、そして丈夫なブーツが彼女の足元を固めていた。
「これなら、先程の服よりも動きやすいでしょう」
「ありがとう、シェリア」
「どうぞ。あなたのやるべきことを、全力でなさってください」
そう言ってシェリアは静かにその場を離れた。
セリシアは一瞬だけ周囲を見渡し、静かに感謝の言葉を呟く。
「ありがとう……」
そして、決意を胸にセリシアはルシアの元へ飛び立った。
⸻
短い静寂を破ったのは、リアの震える声だった。
その表情は苦悩に歪み、まるで胸の奥に棘を抱えているかのようだった。
「……みんな、ごめん」
その一言に、グレイは即座に首を振る。
返ってきた声は短くも、重みを帯びていた。
「お前が謝ることは、何一つない」
その断言が、リアの肩に乗っていた重石を少しだけ軽くした。
グレイは続けて、ゆっくりとシェリアに向き直る。
「それよりも……シェリア。君は女神教の聖女だ。天使様の天命に背くなど、君にとっては耐え難い頼みだったはずだ」
だが、シェリアはふわりと微笑んだ。
その笑みはやわらかく、同時にかすかな影を含んでいる。
「……いいえ。気にしないでください」
そう言いながらも、彼女の胸の内では静かな波が揺れていた。
(聖女になった理由……人々に希望と癒しを届けたい。それは確かに本心でした。けれど――本当の理由は、セリシアさんを助けたかったから)
勇者と魔王が姿を消したその日から、世界には不穏な影が差し込んでいた。
混乱の芽を摘み、人々の不安を鎮めるため、各国と女神教の教会は、シェリアを“聖女”として立てることを提案する。
だか、彼女はその座を受け入れる気はなかった。
しかし、セリシアが異世界にいると知った日、彼女は悟った。
今の自分の力では届かない。救うには、異世界へ渡る術と、各国を動かす力が必要だ。
そのためには、強大な政治的影響力と絶対的な信頼――聖女という立場こそが唯一の道だった。
(それでも……ウリエル様が現れたとき、心が揺らいでしまった)
天使の言葉は、女神教にとって神託に等しい。
命を捨てよと命じられれば、信徒は喜んでそれに従うだろう。
その絶対的な重みは、聖女である自分にも例外ではなかった。
だが――あの時。
リアが必死に涙をこらえたあの顔を見た瞬間、胸の奥で何かが切れた。
天命と、守りたい想い。その狭間で苦しみ続けた心が、ようやく答えを求めて動き出した。
そして今、グレイとリアが流れを変えた。
その勢いが、シェリアの中に残っていた迷いを一掃する。
視線を、セリシアが駆けていった先へと向ける。
その瞳に、もう揺らぎはなかった。
「……リアさん、グレイさん」
凛とした声が、戦場のざわめきに溶ける。
「私たちも――行きましょう」
二人は迷いなく頷いた。
三つの心が、同じ一点へと向かう。
守るべき友のもとへ。
もう二度と、大切な人を取り残さないために。




