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第十五話 昼下がりの涼味とスマホ講座

昼下がりの商店街。


まるでコンクリートが溶けてしまいそうな陽射しの中、居酒屋「えにし屋」の木製の引き戸は、わずかに冷気を漏らしていた。


中へ一歩足を踏み入れると、外の熱気が嘘のようにひんやりとした空気が迎えてくれる。クーラーの音と、木の床がきしむ小さな音。そして、出汁の香りと微かなしょうがの匂いが混じった、心地よい“日本の夏”の匂いが漂っていた。


テーブル席では、セリシアとルシアが並んで賄いのそうめんを啜っている。


「……ふぅ。冷たくて、つるりとして……まるで水の糸を飲んでるみたいです」


セリシアは涼しげな顔で、透明なガラス鉢から白いそうめんをすくう。つゆには刻み葱とおろし生姜、とろろ昆布が浮かび、見るだけで喉が鳴りそうだった。


「うむ。見た目こそ素朴だが、食べてみると深い味わいじゃな。特にこの“薬味”……よい仕事をしておる。口に含むたびに、舌の奥がじんと冷えるわ」


ルシアはそう言って、満足げに氷入りのつゆを一口。目を細めるその姿には、暑さへのささやかな勝利があった。


「やっぱり、こう暑い日は冷たいものが最高だよね。……それにしても、最近は夏の終わりが遅くなってきた気がする。今年はお盆を過ぎても、しばらく暑さが続きそうだなぁ」


「“オボン”とは?」


箸を止め、セリシアが首を傾げる。


「お盆っていうのはね……」


と、悠真が厨房から出てきた。タオルで汗を拭きながら、壁のカレンダーを指し、手に麦茶のピッチャーを携えて。


「日本では、先祖の霊がこの世に帰ってくる時期なんだ。仏壇にお供えをしたり、みんな実家に帰ったりね」


「なるほど……先祖の霊……黄泉からの一時帰還、ですか」


「我がいた世界でもあったぞ。“祖霊の夜”と呼ばれる祭りじゃ。灯を焚いて、食事を供える……似ておるな」


文化の違いと共通点が混ざり合うその話に、ほんのりとした静けさが流れた。


そして、2人がそうめんを食べ終えたころ。


「――あ、そうだ。2人に渡したいものがあるんだ」


「渡したいもの?」


セリシアが目を丸くし、ルシアが片眉を上げる。


「まさか、珍しい酒か?」


「いや、違うよ」


悠真が笑ってカウンターの奥から取り出してきたのは、2つの箱。開けると、中から新品のスマートフォンが姿を現した。


「これは……!」


セリシアがそっと手に取り、ガラス面を指でなぞる。


「……スマホじゃな」


ルシアも手に取り、まるで神器でも扱うように眺める。


「本当はもっと早く渡すつもりだったんだけどね。忙しくてタイミング逃してて……でも、こっちの世界で生活する以上、連絡手段は必要だし。いろいろ楽しむためにも、持っててもらった方がいいからさ」


セリシアがぱっと笑顔を咲かせた。


「ありがとうございます、悠真!」


「ふふ……我も使いこなしてみせようぞ」


2人の表情には、嬉しさとほんの少しの緊張が混ざっていた。


「それじゃ、簡単に使い方の説明を――」


と言いかけたその時。


ガラガラッ。


「こんにちわー。あっついねぇ、今日も!」


現れたのは、美沙だった。明るいブラウスに汗をにじませ、手でパタパタと仰ぎながらカウンターに腰を下ろす。


「麦茶ある? あとで飲んでいい?」


「冷蔵庫に入ってるよ。ご自由にどうぞ」


悠真が応じると、美沙はふと、セリシアたちが手に持つスマートフォンに目を留めた。


「……あれ、それって……スマホじゃん? あれ?今まで持ってなかったよね?」


「うむ、ついさっき悠真からもらったばかりでな」


「これから、使い方を教えてもらうところです」


美沙は少し驚いたように見えたが、すぐに表情をほころばせ、明るく笑った。


「へぇ~……なるほどね」


一瞬、何かを言いかけたような気配を見せたが、彼女はそれを飲み込み、手を挙げた。


「じゃあ、私が教えようか?」


「ほんと?助かるよ。俺より美沙さんの方が詳しいだろうし」


「もちろん!アプリのこととか、任せて!」


「では、お願いするのじゃ」


「はいっ、美沙、よろしくお願いします!」


セリシアの声に、美沙はにっこり微笑んだ。


(――たぶん、2人ともスマホは初めてなんだろうな。でも、そういうのって、無理に掘り下げるものじゃないよね)


心の中でそっとそう呟きながら、彼女は自分のスマホを取り出した。


「じゃ、まずはこの“スワイプ”から。画面をこうやって、指で横に動かすとね……」


セリシアの指が恐る恐る画面に触れ、ぬるりとページが切り替わる。


「……わ、動きました!これが、スワイプ……」


「おぉ……滑るように動くとは……不思議じゃのう」


「そうそう。で、これが“アプリ”。一つ一つにいろんな機能があるの」


「ふむ。これは電話、これは手紙、これは……“写真”?カメラか?」


美沙はにやりと笑う。


「そう!カメラもあるんだよー。じゃあ自撮り、いってみる?」


「ジトリ……?」


「こうやってスマホを持って、自分でパシャって撮るの。――はい、チーズ!」


カシャッ。


画面に映った三人の顔。セリシアは驚いた顔で、目をつぶっている。


「う、うわぁ……!わ、私、変な顔してます!」


「ふむ、我は……よし、戦場でも通用しそうな顔じゃ」


「じゃ、フィルターかけてみようか」


美沙が画面を操作すると、セリシアとルシアにウサギ耳とほっぺの赤みが追加される。


「ひゃっ⁉︎ わ、わたし、耳が生えてます⁉︎」


「なんと……幻術か!? しかし、悪くないの」


笑いと驚きの中、美沙はそっと言った。


「今は、そういう楽しみもいっぱいあるんだよ。あとSNSっていう、写真を他の人と共有できる場所もあるしね」


セリシアとルシアは、少し戸惑いながらも頷いた。


新しい世界の扉が、そっと開かれた瞬間だった。


そして、スマホ講座の続きは、LINEの使い方へ――。


「これがスタンプ!“ありがとう”とか“了解”とか、言葉の代わりにポンッと送るの」


「喋らずして感謝が伝わるとは……!」


「ふむ。この筋肉男、良い表情じゃな」


ルシアが送信したのは、屈強な男が敬礼するスタンプ。


「なぜそれを選んだの……?」


と、美沙が肩をすくめる。


その様子を厨房から見ていた悠真は、ふと口元を緩めた。


2人の笑顔と、目を輝かせる様子。そして美沙の、さりげない気遣い。


スマートフォンという“この世界の道具”が、彼女たちの手の中で、少しずつ“日常”に変わっていく。


――えにし屋の昼下がり。小さな進化と、ひとさじの優しさが、確かにそこにあった。


時を同じくして——


異世界ラグノス。

五つの大地が広がるこの世界の中央に位置する「中央大陸」には、人間、エルフ、ドワーフ、獣人といった多種多様な「人族」が暮らしていた。

彼らは時に争い、時に手を取り合い、複雑な歴史を紡ぎながら生きてきた。


だが、北風と陽光が交錯する、その大地のはるか南。

灼熱の砂漠と瘴気が吹き荒ぶ大地——「魔大陸」が存在する。


そこは、魔族たちの支配する世界。

そして、その玉座に君臨していたのが、魔王ルシア。


幾世代にも渡り、彼女は“恐怖”の象徴としてラグノスに君臨し続けた。

彼女の力はあまりにも絶大であり、これまで幾人もの勇者たちがその討伐に挑んでは帰らぬ者となった。


しかし、ただ敗北したわけではない。

彼らの犠牲は決して無駄ではなかった。

彼らの命を賭した戦いによって、魔族が中央大陸の奥深くへ侵攻することだけは、辛うじて阻まれてきたのだ。


だが、状況は膠着していた。

人族もまた、魔大陸の中枢にまでは辿り着けず、光と闇の境界線は幾世代にも渡って変わることなく続いていた。


——その流れを、ひとりの少女が変えた。


その名は、セリシア・ヴァン・アーデルハイト。

歴代の勇者の中でも突出した力と精神を持つ、まさに“神に選ばれし者”。


彼女は仲間たちと共に、幾多の試練を乗り越え、魔大陸の深奥へと突き進んだ。

炎の谷を越え、瘴気の森を抜け、ついに彼女は——魔王ルシアが座す「魔王城」の玉座の間に辿り着いた。


だが、その瞬間——歴史を覆す出来事が起こる。


勇者セリシアと魔王ルシア。

光と闇、対極の象徴であったふたりが、激闘の渦中にて、忽然と姿を消したのである。


両者が同時に消えたその衝撃は、まさに天地を揺るがした。

それは希望の灯が消え去ると同時に、恐怖の刃が鈍くも鋭く突きつけられる瞬間だった。


それから——数ヶ月。


勇者も、魔王も戻らぬまま、世界は静かに軋み始めていた。


人族と魔族の均衡は、勇者と魔王という「存在」によって保たれていた。

だが今、その両者がいない世界は、まるで重力を失った天秤のように、どちらへ傾くとも分からぬ“不穏な空気”に覆われていた。


魔族は動かぬ。

人族もまた動けぬ。


戦うべき敵も、導くべき光も失われたこの世界は、ただ静かに、大きな何かが動き出す気配だけを孕み続けていた——。



聖王国エルディア 白亜の議事堂


中央大陸西部――女神を信仰し、聖術と神官の権威で栄えてきた国、聖王国エルディア。

王都中央に建つ白亜の大議事堂には、今、ラグノス中の重鎮が集結していた。


女神教の教皇、各国の王族、亜人の族長。

そして、かつて“勇者パーティ”として魔王に立ち向かった英雄たち。


その中に、一人の少女の姿があった。


白銀の聖衣をまとい、神殿の光をその身に宿すかのような聖女――

シェリア=エルネス。


彼女は女神教に仕える聖職者であり、天より響く声を聞く者。

卓越した魔術の才を併せ持ち、勇者セリシアと共に幾多の困難を乗り越えてきた戦友として知られている。

その功績はもちろんのこと、何よりも人々に与えた慈悲と癒しの力が広く称賛され、聖王国において最も尊い位、「聖女」の座にまで押し上げられていた。


「――其方の報告に、間違いはないのだな?」


沈黙を破ったのは、聖王国の第一王女。

厳格なまなざしが、まっすぐにシェリアを見据える。


シェリアは静かに、しかし確信をもって頷いた。


「はい。かの戦いの跡地に残された転移魔法の痕跡を解析した結果、確定的な結論に至りました。

――勇者も魔王も、現在この世界には存在していません」


「……!」


「彼らは、“異なる世界”へと消えたのです」


一瞬、空気が止まる。

重く、長い沈黙が議場を支配した。


その沈黙を破ったのは、女神教の最高指導者、教皇マルシア七世だった。


「……聖女シェリアがそう申すのであれば、我らは信じよう。

彼女は天の声を最も近くで聞く者。女神が遣わせた導き手に他ならぬ」


再びざわめきが起こる。

各国の代表者たちが口々に意見を交わし始めた。


「ならば、今こそ魔大陸へ攻め込むべきでは?」

「いや、魔王が消えたとはいえ、魔族全体を相手にできる力は残っておらぬ」

「逆に今、人族の中で戦端を開けば、内部崩壊すらあり得るぞ!」

「だが魔族側も、動いていないわけではあるまい。……何かを、企んでいるのでは?」


声が交差し、場の秩序は崩れかける。


そのとき。

低く、よく通る声が、静かに場を制した。


「――沈黙を保て」


声の主は、中央大陸東部を治める大国・帝国の皇帝だった。

剣の如き鋭さを宿すその眼差しが、列席者を静める。


「重要なのは、勇者と魔王が共に異界にいるという事実だ。

もし――勇者は戻らず、魔王のみが帰還したならば……この世界は、再び闇に飲まれることとなろう」


誰もが、その言葉の重みに押し黙った。


やがて、聖王国の女王が毅然と立ち上がる。


「ならば我らのとるべき道は一つ。

異界へと渡り、魔王を討つ。そして勇者を連れ戻す」


その言葉に、空気が一変する。


「勇者が戻れば、再び我らに希望が灯る」

「それこそが、我々人族の勝利である」


その流れを受け、帝国皇帝がゆっくりと席を立つ。その一挙手一投足に、場が緊張を深めていく。


「聖女よ――異界への転移は可能か?」


呼びかけられた聖女シェリアは、手元の術式文書に視線を落とし、静かに口を開く。


「解析の結果……魔王が用いた転移魔法には、既存の理論を超えた高度な次元干渉術式が組み込まれていました。完全再現は――正直、現状では不可能です。しかし、転移先の座標は既に特定済み。魔王の術式には及ばずとも、我らが教会に伝わる転移魔法を基に改良し、異界へ渡ることは可能と判断します」


「……では、すぐに転移できるのか? それと、何人まで送れる?」


「即時の転移は不可能です。元々この魔法は、各教会や都市間の移動に用いられる短距離用の術式。次元を越えるためには一から構築し直す必要があります。さらに、発動には宮廷魔術師十数名分にも匹敵する莫大な魔力が必要となるため、魔力の収集にも時間がかかります。そして……この規模の術では、送れるのは三名が限界です」


皇帝は重く頷き、その視線を会議の場に巡らせる。

そして、厳かな声音で告げた。


「各国の軍を送りだせないのならば……少数精鋭の勇者パーティを送り出そうと思うが、異論はないだろうか?」


部屋の空気が一瞬で張り詰める。

各代表の目が鋭く光り、それぞれが短く頷く。

誰もが、この決断の重大さを理解していた。


沈黙を破り、帝国の皇帝が厳かに告げる。


「――聖王国騎士団長、グレイ・ヴァルフォード」

「――エルフ族から、リア・フローリス」

「――そして、女神教の現聖女である、シェリア・エルネス」


やがて、聖女は静かに立ち上がり、神殿の光に包まれるように一礼した。


「その任、確かにお引き受けいたします。

必ずや、魔王を討伐し――勇者セリシア様とこの世界へ戻って参ります」


女王が高らかに宣言する。


「では、異界への門を開く準備をすぐに開始せよ。

我らが未来は、選ばれし三名の勇士に託された――!」


彼女たちはまだ知らない。

勇者の仲間たちが、今まさに“自分たちを探して世界を越えようとしている”ことを。


それぞれの世界が、静かに交差を始めていた。

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