第十一話 新たな門出
あの日の騒動から、数日が経った。
朝の空は灰色に染まり、ビルの窓ガラスに鈍い光が滲んでいた。
まるで、これから処分を受けるふたりの心を映し出しているようだった。
社内の会議室に呼び出されたのは、早川英二と新人の木之本由里香だった。
二人は重たい足取りでドアを開けると、そこには神原元社長の息子であり、現社長の神原拓真が座っていた。
「座ってください」
その声には感情がなかった。
ふたりが黙って椅子に腰掛けると、拓真が口を開く。
「社内調査が完了した。今回は父――元社長神原の証言と、数名の外部証言、さらには居酒屋『えにし屋』からの情報提供もあって、事実関係が明確になった。早川、お前が部下に行った行為は、明らかなパワーハラスメントと職権乱用にあたる。加えて、木之本くん――君も、その言動は社会人として到底許されるものではなかった」
由里香が顔を伏せ、早川はただ唇を噛みしめていた。
「君たちの処分だが――」
拓真は書類を一枚、机の上に静かに置いた。
「早川英二、君は即日付で懲戒解雇とする。会社として社会的責任を果たすためにも、顧問弁護士の指導の下、必要であれば外部にも情報を開示する。」
「……っ!」
「そして木之本くん。君はまだ新人だ。だが今回の件はあまりにも酷い。通常であれば解雇に値するが、反省の姿勢と、神原前社長の情状酌量もあり、3ヶ月の出勤停止と教育プログラムの再受講、そして反省文の提出をもって処分とする」
由里香は震える声で、
「……ありがとうございます……」
と小さく呟いた。
一方、早川は無言だった。怒りでも悔しさでもない。ただ、何かを諦めたように、深く目を閉じていた。
⸻
その夜。
えにし屋のカウンターで、美沙はセリシアと肩を並べて座っていた。グラスを傾けながら、静かに呟く。
「今日、処分が出たって連絡あったの。社長から直接。…正直、スカッとしたってより、なんだか…切なかったな」
「そうですか…でも、美沙さんの仕事に対する想いを、ちゃんと見てくれていた人がいたってことじゃないですか?」
セリシアが優しく言う。
「まぁね。でも、私だけの力じゃ無理だった。セリシアちゃんが話聞いてくれて、マスター――神原さんが動いてくれたからこそだよ。…ありがとうね」
その言葉に、セリシアは小さく微笑んだ。
⸻
あの日から、季節は巡った。
梅雨が明け、陽射しは街の隅々まで鮮明に照らし出し、セミの鳴き声が真夏の訪れを告げていた。
七月も終わりに差し掛かったある日の午後。
早川が社内から姿を消してからというもの、空気は一変した。
かつてのような重苦しさも、無言の圧力も、もうどこにもなかった。
代わりに――
会議中に若手の社員が堂々と意見を述べ、上司もそれを真剣に聞く風景が当たり前になっていた。
まるで、長い冬の後に春が訪れたかのように。
その日、美沙は部長席の前に立っていた。
「……本当に辞めるのかい?」
静かに尋ねる声に、美沙ははっきりと頷いた。
「はい……」
部長――穏やかながらも実直な人物だ。
早川の暴走を完全に止めきれなかったことを、何よりも悔やんでいた。
「前回の騒動で、君には不遇な対応をさせてしまった。会社としても、私個人としても、本当に申し訳ないことをしたと思っている。
……だけど、君は優秀だよ、美沙くん。君のプレゼン資料、全部目を通した。どれも見事だった。3年目とは到底思えない完成度だった。
おそらく早川も、そんな君に嫉妬していた部分があったのかもしれないな」
彼は少し笑ったが、どこか寂しげだった。
「だからこそ……私としては、君に残ってほしい。
ずっとじゃなくてもいい。もう少しだけ、私たちに力を貸してくれないか?」
美沙は、その言葉に心が揺れた。
評価してくれていた。ちゃんと見てくれていた人がいた――
それが、たまらなく嬉しかった。
でも、それでも。
「……引き留めてくださりありがとうございます。すごく、すごく嬉しいです。
でも今回の件を通して、私、自分のやりたいことに気づいたんです。誰かの正しさを守れるような人になりたい。だから、もっと広い視野で、自分を磨きたいと思いました。
……わがままなのは承知しています。でも、今はその道を歩いてみたいんです」
深々と頭を下げる美沙。
その目に宿る意志の強さを見て、部長は――
ふっと目を細めて、ゆっくりと頷いた。
「そうか……君はもう決めてしまったんだな。
なら、これ以上引き止めるのは野暮ってものだ。……心から、応援しているよ」
「はい。今まで、本当にありがとうございました」
美沙の声は、どこまでも清々しかった。
それは、美沙が退職届を提出して数日が経ったある夜のことだった。
居酒屋えにし屋では、美沙の退職祝いの宴が開かれていた。
「美沙さん、お疲れ様〜っ!」
「乾杯ーっ!」
店内のあちこちから声が上がり、グラスが打ち鳴らされる。テーブルには豪華な料理と、美沙の好物ばかりがずらりと並んでいた。
七夕祭りの実行委員仲間、えにし屋の常連客たち、そしてあの事件の時に行動を共にした面々。皆が笑い、美沙を祝福していた。
その中に、元社長であり、今は相談役を退いた神原の姿もあった。
美沙は、手に持っていたグラスをそっとテーブルに置くと、静かに神原の元へ歩み寄った。
「相談役――いえ、神原さん。その節は本当にありがとうございました。そして……こんな形で会社を離れることになってしまって、申し訳ありません」
美沙は、深々と頭を下げた。
だが、神原はゆっくりと首を振った。
「……顔を上げなさい。謝る必要は、君にはない」
その声には、責任ある立場を退いてなお、人を支える覚悟と温かさが宿っていた。
「それに、今の私はただの喫茶店のマスターだ。えにし屋の一常連として、こうして君を見届けに来た。それだけさ。肩の力を抜いてくれたまえ」
「はい……ありがとうございます、神原さん」
美沙は微笑む。その表情は、もう以前のような疲れや迷いに沈んだものではなかった。
「……それで、これからのことはもう決めているのかね?」
神原の問いに、美沙は静かにうなずいた。
「はい。あの事件のあと……思ったんです。誰かにとっての“帰れる場所”を、私も作りたいって。あの日、えにし屋や皆に救われたように、今度は私が、誰かの心を支える場所を作りたいって……そう思ったんです」
神原の目が少しだけ細められる。
「……そうか。あの日、私が動いた理由の一つが、まさに“君のような若者が報われてほしい”という願いだった。ならば、あの時の行動も、少しは意味があったということだな」
「はい。心から、感謝しています」
言葉と共に、美沙の中にあった迷いがふっと消えていく。今の彼女の目には、確かな光が宿っていた。
その瞬間――
「マスター、いえ……悠真さん!」
カウンターの奥で料理を仕込んでいた悠真が、少し驚いた様子で振り返る。
「ん? どうしたんですか? そんなに改まって……」
えにし屋の常連たちの視線も、美沙に集まる。彼女はその中心で、まっすぐに悠真を見つめた。
「私を……ここで働かせてください!」
声には迷いはなかった。
「私、この場所が大好きです。ここに来ると、ほっとして、元気になれて、また頑張ろうって思える……そんな“えにし屋”で、今度は私が、誰かの支えになりたいんです」
一瞬、静まり返った店内。
だが次の瞬間、セリシアがにっこりと笑い、
「いいじゃないですか、マスター!」
続いてルシアが腕を組んで頷き、
「悪くない選択じゃの。ふふ、ようこそ、えにし屋へって感じかのぉ?」
悠真は、少し驚いた表情を浮かべながらも、すぐに柔らかい笑みを返した。
「……じゃあ、採用ってことで」
「えっ、本当に⁉︎」
「もちろん。歓迎するよ。美沙さん、ようこそ“えにし屋”へ」
その言葉に、美沙の目にうっすらと涙が浮かんだ。
これまで何度も「もう無理かもしれない」と思った日々。
けれど今、美沙の心は間違いなく前を向いていた。
新たな一歩――それは、えにし屋という場所から始まったのだった。
退職祝いの宴も終わり、夏の夜風が涼しく頬を撫でる。
えにし屋の前には、まだ笑顔と余韻が残っていた。
「みんな、本当に今日はありがとう」
美沙が深くお辞儀をしながら感謝を伝えると、横でルシアが豪快に笑いながら手を振った。
「気にするでない、美沙よ。美味い酒が飲めたし、礼を言いたいのはこちらじゃ!」
それを聞いたセリシアが、半ば呆れたようなジト目で返す。
「ルシアは今日に限らず、いつも飲んでるじゃないですか……」
「まったく細かいことを気にする奴じゃのぉ、おぬしは」
「それはあなたが……」
「ふふっ」
言いかけたセリシアの横で、美沙が思わず吹き出した。小さく、けれど優しく響く笑い声に、二人はピタリと会話を止め、美沙を見る。
「な、なんじゃ急に笑いおって?」
「美沙さん、笑い事じゃないです」
「ごめんごめん。でもね……なんか二人のやり取りを見てると、“えにし屋らしいなぁ”って思って……。ここって、やっぱり温かい場所だなって」
「……」
「……」
思いがけない言葉に、ルシアもセリシアも少し照れくさそうに黙り込む。
「確かにね」
横で聞いていた悠真が、優しい目をして頷いた。
その時、ふと美沙が何かを思い出したように手を叩く。
「あっ、そうだ!」
「どうしたの?」
「セリシアちゃん、これから“セリちゃん”って呼んでもいい?」
「セリちゃん、ですか?」
「うん。ほら、これから一緒に働く仲間だし。何より、私たち……もう友達でしょ? だから私のことも“美沙”って呼び捨てでお願いね」
セリシアの目が少し揺れる。そして、ゆっくりと笑った。
「……はい。わかりました、美沙。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、セリちゃん!」
ぱちん、と二人が笑顔で手を合わせる。その音が、夜の静けさに溶けていった。
「……その流れでいくと、我のことは“ルーちゃん”とでも呼んでくれるんかの?」
ルシアが期待を込めてにじり寄ると、美沙は笑いながら首を横に振った。
「えー……ルシアさんは、やっぱり“ルシアさん”かなー?」
「な、なんでじゃっ!? 我とおぬしの仲じゃろうが!」
「ふふ、ルシアさんは私のお姉さんみたいな人だから」
そう言うと美沙はふわりとルシアに抱きついた。そして、顔を彼女の胸元に埋める。
「……ルシアさん、本当にありがとう」
その声には、あの苦しかった時間を越えてきた強さと、ここで過ごす未来への希望が滲んでいた。
「ふん……まぁ、それでよかろう」
少しだけ目を細めて、ルシアがその頭をそっと撫でた。
*
その後、美沙は帰っていった。店の暖簾をくぐり、軽やかな足取りで夜の街へと消えていく。
彼女の背中を、三人はしばらく黙って見送っていた。
「これから……もっと賑やかになりそうですね」
セリシアがぽつりと言う。
「うん。楽しみだね」
悠真が頷いた。
セリシアはふと空を見上げる。
(“セリちゃん”か……)
ふと、セリシアの心にかつての親友の顔が浮かぶ。
異世界・ラグノスで共に旅をした、エルフの少女。自分を「セリちゃん」と呼び、どんな時も笑顔で隣にいてくれた、かけがえのない存在。
(元気にしてるかな……)
空を見上げる。東京の空の彼方に、あの異世界を想いながら。
今はもう違う世界で、それぞれの人生を歩いている。でも、あの絆は消えていない。
こうして、ひとつの物語が幕を閉じ、また新しい日々が静かに始まっていく。
夜が、ゆっくりと明けていく──
⸻
別の夜。
一人、公園のベンチに座る由里香の姿があった。スーツではなく、地味な私服。スマホを握りしめながら、美沙からのLINEをじっと見つめていた。
「またどこかで、ちゃんと話せる日が来たらいいね。」
しばらくの沈黙ののち、由里香は指を動かし、初めて自分の意思で返信を打ち込む。
「…その日まで、ちゃんとやり直してみます。」
風がそっと吹き抜けた。
たったひとつの小さな返信。でも、それは確かな“はじまり”だった。




