第九話 セリシアの卵焼き
七夕祭りからおよそ一週間が過ぎた。
東京のとある高層ビル、その一角にある大手広告代理店のオフィスで、美沙は黙々とデスクに向かっていた。
あの日、屋台の明かりと短冊の願いの中で過ごしたひとときは、今でも胸の奥で静かに輝いている。
えにし屋の温かな料理、仲間の笑顔、あの夜風――
それらがあるからこそ、今の彼女は、多少の理不尽にも立ち向かえるのだ。
「……ふぅ。これで、ヨシ。最終確認も完了。後は提出するだけ、ね」
小さく呟いた瞬間、明るい声が背後から飛んできた。
「おつかれ美沙! ついに例の企画、完成だね!」
声の主は同期の安達三春。部署は違えど、いつも気にかけてくれる存在だった。
「うん、やっと、ね。いろいろあったけど……なんとか形にできたよ」
「絶対に通るよ、美沙の企画。あの熱意、私が保証する!」
三春のまっすぐな笑顔が、胸の奥の疲れを少しだけほぐしてくれた。
「ありがと、三春……」
涙が出そうになるのをぐっと堪え、美沙は資料を抱え会議室へと向かった。自分の、全てを詰め込んだ企画を、いよいよ提出するために。
⸻
数日後。
「……えっ?」
その一言が、彼女の世界を白く塗りつぶした。
「だから。さっきから言っているだろ! この企画は木之本にやらせるって言ってるんだよ!」
部長・早川英司の怒号がオフィスに響いた。
「で、でも……それは、私が一から……!」
「知ってる! 知ってるからこそだよ! お前は新人の教育係だろ!? 自分の企画を新人にやらせて何が悪い!」
怒鳴る声の裏には理屈も道理もない。ただ、自分の都合と立場を守るための言葉の暴力だけがあった。
(どうして……こんな……)
口が震え、視界が滲む。何も言えなくなる美沙を、さらに追い詰めるように、後ろから声がかかる。
「先輩〜、ありがとうございますぅ」
木之本由香里――無邪気な笑顔を浮かべた新人が、まるで勝者のように微笑む。
「この企画、私がしっかりやりますからぁ〜。先輩はまた、新しい企画で頑張ってくださいねっ!」
(は……?)
そして、とどめを刺すように、早川が口を挟んだ。
「心配いらない。彼女のサポートは俺がやるからさ。お前の苦労は無駄にはしない。……な?」
彼の口元には、薄く笑みすら浮かんでいた。
それは、あざ笑うようでもあり、すでに結果が決まっていたという確信の顔だった。
その瞬間、美沙はすべてを理解した。
(最初から……こうするつもりだったんだ)
「……っ」
こみ上げてくる悔しさ。怒り。悲しみ。そして、虚しさ。
なのに、声は出せない。叫ぶ勇気も、問いただす力も、もう残っていなかった。
周囲の空気が、自分の存在だけを無かったことにしていく。
(……なんなのよ、それ)
美沙は唇を噛み、音も立てずに席へ戻った。
その背中は小刻みに震え、何度も深呼吸を繰り返す。
机の上に残された企画書。
彼女が何週間もかけて磨き上げた、唯一の誇り。
それを静かに見つめたあと、美沙は、それをそっと閉じた。
心の中で、小さく何かが壊れた音がした――。
⸻
その夜。
美沙は、ひとり歩道橋の上に立っていた。
夜の風が吹き抜け、都会の喧騒が足元を駆け抜ける。
(……私、何やってるんだろう)
(こんなに頑張っても、報われなくて。誰にも認められなくて)
握りしめた拳は冷たく、身体の芯まで乾いているようだった。
(何のために……こんなに、必死になってたんだろう)
ふと、歩道橋の柵に手をかける。
無意識だった。ただ、このどうしようもない感情から逃げたくて。
「――美沙さん?」
その声に、ハッとして顔を上げた。
目の前にいたのは、セリシアだった。
月明かりの下、彼女は心配そうな瞳で美沙を見つめていた。
「せ、セリシアちゃん……?」
その瞬間、美沙の中に押し込めていたものが決壊した。
「う、うわぁぁぁぁぁん!」
泣き声が夜の空に響いた。
自分の無力さも、悔しさも、寂しさも、全部が涙になって溢れ出す。
セリシアは何も言わず、ただそっと、美沙を抱きしめてくれた。
その腕の中は温かく、まるでえにし屋の灯りのようだった。
「美沙さん、頑張っていたこと、私は知っています。誰に否定されようと……あなたがやってきたことは、きっと誰かの力になる」
その言葉が、美沙の胸の奥にしみ込んでいく。
――
商店街の外れ、小さな公園のベンチ。
街の灯が遠くに揺れる中、美沙は缶のお茶を握ったまま、セリシアと並んで腰かけていた。
「……はは。なんか、情けないなあ。泣いたりしてさ」
声は笑っていたが、その目元はまだ少し赤い。
「会社で……ずっと頑張ってきたつもりだったんだ。でも、今日はまるで“お前の努力は無意味だ”って言われたみたいで……なんか、ふと、全部どうでもよくなっちゃった」
そう言うと、美沙は夜空を見上げた。
月はちょうど半月。光は強くないが、穏やかに地面を照らしている。
セリシアは黙って隣に座ったまま、しばらく美沙の言葉を待っていた。
「ごめんね、セリシアちゃん。こんな……大人のくだらない愚痴に付き合わせちゃって」
ぽろり、と一筋、涙がまた頬を伝った。
するとセリシアは、そっと美沙の手を取って言った。
「くだらなくなんて……そんなこと、絶対にありません」
その声には、芯のある力がこもっていた。
「私は知っています。美沙さんがどれだけ努力していたか。えにし屋で会うたびに、愚痴の中にも覚悟がありました。どんなに辛くても、背中を向けずに踏ん張っていて……それが、すごいと思ってたんです」
セリシアの瞳が、まっすぐに美沙を見つめていた。
「私は……かつて、自分の弱さから逃げて、いろんな人を傷つけてしまいました。でも、美沙さんは、逃げずに立ち向かっている。私ができなかったことを、ちゃんとやってる」
「……そんな、立派なもんじゃないよ。私、今でもこうやって……泣きべそかいてるだけだし」
美沙は照れたように笑った。
「だけど――私、セリシアちゃんに会えてよかったな。こんな若い子に、愚痴を聞いてもらえるなんて思わなかったし……支えられちゃってるんだね、私」
ふわりと、微笑みがこぼれた。さっきまでの涙は、もう乾き始めている。
少しの沈黙のあと、セリシアが唐突に言った。
「……そうだ、美沙さん! 今日って、まだ時間ありますかっ?」
「えっ、なに急に。あるけど……」
「よかったっ。じゃあ、行きましょう! えにし屋にっ!」
「え、ちょ、ちょっと!?」
言うが早いか、セリシアは美沙の手を引いて立ち上がる。
「今日は、私が奢ります! “いつも頑張ってる美沙さんへ、ありがとう”の乾杯です!」
「……なんか、逆じゃない? 元気もらったの、私のほうなんだけど……」
そう言いながら、美沙は立ち上がった。
夜の空気が少し柔らかく感じる。
――
ガラガラ――。
古びた木戸の音と共に、居酒屋えにし屋の温かな灯りが夜の街にこぼれた。
「いらっしゃ…ああ、セリシアか。おかえり。」
カウンター奥で包丁を握る悠真が、ふと目を上げて柔らかく笑う。
「ただいま、悠真!」
セリシアは晴れやかな笑顔を浮かべると、その後ろを振り返る。
「あのぉ……こんばんは。」
小さく声を漏らして現れたのは、美沙だった。どこか戸惑ったような表情と、少し腫れた目。悠真はそれを一瞬で察した。
「美沙さん、いらっしゃいませ!」
「うん……お邪魔するね。」
その声に、どこかまだ不安が残っていた。
「こっちどうぞ、美沙さん!」
セリシアが手を引いてカウンター席へ案内する。その動きはまるで小さな子供が、大切なお客をもてなそうとするように愛らしい。
「お飲み物は何になさいますか?」
少しの沈黙。美沙は微笑んで首を振った。
「今日は……お酒はいいや。お冷、もらえる?」
「かしこまりました!」
セリシアが元気よく応え、冷たい水の入ったグラスを差し出す。その冷たさが、まるで張り詰めた心を少しずつ解かしていくようだった。
「美沙さん、今日……私から一品だけ、お料理を出してもいいですか?」
「え……それって、セリシアちゃんが作ってくれるってこと?」
セリシアは小さく頷いた。どこか緊張の色をにじませながらも、瞳は真っ直ぐだった。
「はい。美沙さんに、元気になってほしくて……作りたいんです。」
美沙は少し驚いたように目を見開いたが、やがて穏やかに笑った。
「……うん。お願い。セリシアちゃんの料理、食べたい。」
「はいっ!」
セリシアは小さく拳を握りしめ、意気込むように調理場へ向かった。悠真が黙って頷き、静かに火をつける。
美沙はその後ろ姿を見ながら、店内をそっと見渡す。時間も遅く、店内は常連客がちらほらと語らいながら過ごしているだけだった。
(やっぱり……ここが、好きだなぁ)
そう思って、物思いに耽る。
「お待たせしました!」
しばらくして、セリシアの澄んだ声が響く。
彼女がそっと差し出したのは、ふっくらとした厚焼き卵。艶のある焼き色で、湯気がふわりと立ち上り、見ているだけで心がほぐれていく。
「……うそ。これ、セリシアちゃんが作ったの?」
「はい。悠真に教えてもらって、ずっと練習してたんです。まだまだですけど……」
「いただきます。」
美沙は箸で厚焼き卵を一口。ふわふわとした舌触りと共に、ほんのり甘い優しさが舌を撫でる。
「……甘くて、やさしい味。……美味しい……」
その瞬間、張り詰めていた何かが静かに崩れていった。ぽたり、と頬を伝う涙は、苦しさからではなく、心が温まった証だった。
「美沙さん……!」
「ありがと、セリシアちゃん……。ほんとに、救われた……」
その時だった。
ガラガラ――
再び扉が開く。吹き込む夜風と共に、空気が変わった。
「へぇ〜、ここが最近噂の店?商店街にこんな店があるなんてなぁ」
「マジでこんなとこで飲むんですか〜⁉︎さっきまで高級フレンチ楽しんでだのに、余韻台無しじゃ〜ん!」
聞き覚えのある、鼻につく声。
軽薄な声。場にそぐわぬ高い笑い声。振り返ると、スーツ姿の男と、濃いメイクの若い女性が店内を見回していた。
そして、美沙の表情が固まる。
(……うそ……)
扉の向こう――立っていたのは、かつて彼女の努力を奪い、笑った女。
木之本由香里。
その隣には、見覚えのある顔。
早川英司だった。




