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ピーナッツ牧場に連れてくぞ

作者: 森川めだか

ピーナッツ牧場に連れてくぞ

             森川 めだか


 「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」どうやってもそう読める。

男はしきりに自分の着ている黒のコートの前襟を掴んでヒラヒラとその内側を見ている。

黒のコートの内側はキルティングになっていて、ちょうど前を開けた時に目に付くような位置に、ボタンホールとボタンホールの間に、「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」と黄色い糸で縫われた文字がある。

ピーナッツ牧場に連れてくぞ・・?

 男はそれまでの記憶をきれいさっぱり忘れていた。気が付いたらこのコートを着て、この街外れと思しき通りに立っていたのだ。

冬の、寒い日。

そう、冬。寒い。言葉までは忘れてはいないようだ。

また男はコートの内側をひねって、その浮いた文字を見た。

「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」

何の意味だ? さっぱり見当がつかない。

俺はここまでどうやって来た? 男は道を振り返ってみた。ごくありふれた道路。

車? 電車の音は・・しないな。徒歩? 歩きでここまで来た? そうすると俺は夢遊病者か徘徊人か? 車でここまで連れて来られた? だって車がない。自分で運転してきたのならあるはず。待てよ、そんなに体が冷えてない。じゃあ、車でここまで連れて来られて降ろされた後か、自分で運転してきた車が近くにあるのか。

 つまり俺は話に聞く記憶喪失、ということだけは確かなようだ。

男は歩き出した。周りをグルグル歩き回って、どこかに自分の運転してきたような車が道にないか探してみた。

見当たらない。

 男はまたコートの内側の文字を確かめて、表地を丹念に触ってみた。

ピーナッツの殻やクズみたいな物も付着していない。どうやら俺はピーナッツ牧場から来たのではないようだ。

 俺の名前? そうだ、俺の名前こそ忘れてる。「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」という名前であることは考えられない、第一、それは人の名前ではありえないだろう、そう、トムだのボブだのが当たり前で「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」というのは・・、つまり、・・台詞だ。台詞、俺は俳優か?

いや、違う。どこにもカメラなんてもんもないし、俺とすれ違った奴らだって俺の顔見ても何とも感じなかったみたいだな。

 得意のジョークか? 俺が記憶を失くす前、例えばこんなことが考えられる。俺はバーで悪酔いしていっときこんな記憶喪失になっている。悪酔いした俺をバーの人が困って車でここまで来て放って放置した、そんな可能性も考えられる。

そして、この「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」という台詞じみた言葉はそんな俺が得意にしていた十八番のジョークみたいなもんだった・・。いくら考えても答えは出ない。

思い出せるまで考えるか、待つか。どちらにしても同じだ。

 男は頭を振ってみた。どうやら酒に酔ってもいないし二日酔いもないみたいだ。次に腹を触ってみた。大して空腹というのでもなし、食欲もない。

はてな?

帰るにしても道も分からないし家も覚えていない。どうするべきか。

男は近くを歩き回った時に道などを聞けるような店がなかったか思い出してみた。なかった。短期記憶、いや、コートを着て立っていたまでの記憶がないだけで、それからは覚えている。

 男はポケットの中を探し回ったが、まるでクリーニングしたて、みたいな感じで何も入っていない。コートのポケットはもちろん、シャツやパンツ、バッグもない。ティッシュやハンカチ、身分証、なし。

 連想はどうだ。この靴の底に付いているのは泥だ、その下は轍。それに草、葉っぱ。どうやら俺は植物には興味がなかったらしい。

それに鳥が飛んでいる。空は・・、薄曇り。夜明けというより黄昏に近い。そう、黄昏に鳥が飛んでいくというあの慕情。今日は黄昏が赤くならなかったらしい。

いや、待てよ。今のは連想だ。なぜ俺がそんなことを知っている。黄昏が赤くなる記憶があるからだ。

だが、それまでだ。記憶の糸は無闇な海に溶けるようにプツリとそこで切れてしまう。どうやら知識程度の記憶は保たれているらしいが、具体的な自身の生活は記憶していないらしい。

良かったのか悪かったのか・・。

中程度の記憶障害。

手がかりはこの・・、「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」の文字を男はまた覗いて見た。


 向こうから人が歩いてくる。

薄汚いねずみみたいな男だ。ねずみ・・、ねずみ・・何も浮かばないな。

そのねずみのような男はへつらうような、人懐っこい笑顔を向けてきた。

「昨日、雨が降っていたか?」

「へ? 旦那、何て言ったんですかい?」

「いや、この泥・・」記憶を失くした男は靴の裏の泥を見せた。

「へい、昨日は雨でしたね。それが何か?」

「実は・・」

男はそのねずみのような男に自分が記憶喪失であることやこれまでのことを手短に話した。

「ほう、そりゃ困りましたね」

「それで、これなんだが」男はコートの裏の「ピーナッツ牧場に連れてくぞ」の文字を見せた。

「ほう、変わったコートですねえ」ねずみのような男はその文字を見て、コートを見た。

「何か、その、この言葉に心当たりはないか?」

ねずみのような男はしばし指を顎に当てて考えていたが、

「ない、・・でもありませんよ」

「えっ! 是非、教えてくれ、どういう意味なんだ、これは?」

「旦那、ちょっとそのコートをあたしに貸してくれませんかね、いや、あなたはここにいてもらえますか、ちょっと・・、心当たりに聞いてきます」

ねずみのような男にコートを脱いで渡すと、ねずみのような男はそれを持ち、訝しげに男を振り返り、振り返り見ていると、急にそのコートを自分が羽織り、向こうへ走っていってしまった。

帰ってくることはなかった。

盗まれたのだ。だまされたのだ。

男はようやく気付くと、仕方ない、いいコートだったもんな、あれはギャバジンだった、そう、上質なギャバジンだったからな・・。


 路頭で寒さに凍えていた名もない、コートも着ていない男は保護され、精神病院に入院させられていた。

 精神病院での暮らしは安穏だった。

人の善意にすがって生きれば何とか生きられるものだ。

「どうですか、今日のお加減は」

「いいよ、とてもいい、最高だ」

看護士がホットコーヒーを持って来てくれる。日常生活は問題なく一人でできる男は「チャンと」している患者として優遇されていた。

ただ、名前がないだけで、血圧、体重、いずれも問題なし。健康体だ。

妄想もその他問題点もなし。医師からも信頼を置かれていた。

「まあ、何かショックなことが起きてそれを思い出したくないから記憶にフタをしているとか、どっかの血管が一部ブチ切れたとか可能性は色々考えられますがなあ。精神分析をしようにもこれほど記憶がないとなると・・」

 男は治療としてはほとんど見放されていたが、安定した幸せなるものを感じていたといっていい。

ここには危険がない、自分もしっかりしている、それまでの記憶がないだけで引っ越したと思えばいい、男は気楽だった。


 そんな日々が続いたある夜半のこと、馬鹿みたいに眠りこけていると、人の気配で目が覚めた。

自分の、ベッドの脇の椅子に誰かが腰かけている。男だ。黒いスーツを着ている。帽子は椅子の脇にかけてある。

「ああ、起こしてしまったね。すまない、君に面会の方が来て、どうしてもと言うので上げてしまった」医師もその黒スーツの男の後ろに立っていた。

自分はベッドのライトをつけた。

「精神病院とは皮肉なもんだね」黒スーツの男はまずそう言った。

「あなたは誰ですか? 私のことを知っているんですか?」

「ああ、よくは知らないが知っているとも」

黒スーツの男はベッドに寝ている男の耳に顔を近づけて囁いた。

「ピーナッツ牧場に連れてくぞ、マイヨ」

「マイヨ? それがこの人の名前ですか?」後ろにいた医師も聞いていて、その黒スーツの男に聞いた。男は肯いた。

「マイヨ、へえ、マイヨ、何か思い出したかね?」

マイヨは怯えていた。ハッと我に返ったように全てを思い出したのだった。

「どうしたのかね? ピーナッツ牧場とはどこへ連れてくというのです?」

黒スーツの男は言った。

「いや、別に秘密でも何でもないですよ。反対の世界ですよ。言っても分からんでしょ?」

「患者がこんなに怯えている。患者を怯えさせるようなこと言っちゃいかん。一体、あなたは誰なんですか」

「まあ、・・善良な一市民といったところですかね」黒スーツの男は帽子を手に取った。

「ごまかしちゃいかん。一体・・」

「嫌だ! 嫌だ! もうピーナッツ牧場だけは・・」マイヨは半狂乱になって叫んだ。

病院中の明かりがついた。

「こいつは現実の認識が途方もなくズレているんですよ。心理学的には、イカれてるんだな、こいつは」黒スーツの男は立ち上がった。

「君、どういうことだね? これは。帰っちゃいかん! 誰かこいつを奥へ・・、ああ、君、安定剤を、みんなみんな、落ち着いて! 大丈夫だ、早く安定剤を、誰かこいつを捕まえといてくれ・・」

皆がパニックになる中、黒スーツの男は悠々とドアの前で一礼して帰っていった。

マイヨが強い安定剤を打たれ、それでもわめき続けて、仕方なく体をベッドに縛り付けられたのはもう夜明けのことだった。


 マイヨ、と名札がつけられた男が精神病院で暮らしている。

しかし、データバンクに問い合わせてもそのような人物は該当がないという答えだった。

彼は、何を聞いても、「ピーナッツ牧場だけは嫌だ」と言って聞かない。

機械のようになり、毎日決まった時間に決まったことをしていなくてはパニックになり「ピーナッツ牧場は嫌だ!」と叫び続けるので重篤な病室に移された。もはや、あの面会者が来る前のあの名のない頃の落ち着いた人間ではなかった。

 そんな試練のような日々がマイヨに続いたある日のこと、朝食が決まった時間に運ばれてきた。

いつもの女の看護士が言う。

「この上に載っているのは食べやすいようにすりおろしたピーナッ・・、あっ!」看護師は慌てて口を閉じた。

マイヨは白目を剥き、一旦硬直したかと思うと、バッとその顔を両手で塞いだ。

「大丈夫ですか、マイヨさん、マイヨさん?」

手をどけてみると、マイヨの顔は別人のようになっていた。

「ああ、大丈夫。もう大丈夫、全てが大丈夫だよ、キャンディ。いつもありがとう」

その笑顔は柔らかで穏やかで、マイヨが一瞬にして正気に戻ったことを意味していた。


 マイヨはその後、「チャンとした」生活に戻り、病室も元の病室に移され、キャンディと親睦を深め、結婚し、退院した。

今は丘の上の一軒家で暮らしている。

子供もキャンディの間にできた。ボブという男の子である。

キャンディは結婚して出産しても看護士を続け、マイヨもコンピューターが得意だったのを活かし在宅で勤務していた。

 キャンディはマイヨに色々な話を聞いた。

自分が裕福な生まれだったこと、子供時代がとても幸せだったこと・・。

しかし、ある時期になるとピタリと話を止めてしまう。

あえて、それにキャンディは触れないようにしていた。

キャンディのお腹の中にはマイヨとの第二子である娘がいる。

幸せな結婚生活と誰もが思っていた。


 ある日、友達と遊んできたやんちゃ盛りのボブがソファでくつろいでいたマイヨの元へドアを開けた勢いそのままに飛び込んできた。

「ハハハ、元気だなあ、ボブ。今日は何して遊んできた?」

「えーとねえ、トムと山でキイチゴを探してきたのさ、口の周りが真っ赤になるくらい! それからトムの家へ行ってビデオゲームをしたんだけど、負けてばっかしさ! つまらなくなったから外で駆けっこしようと思ったら車がワンサカいたからさ、できなかったの」

「いい子だ。車の周りで遊んだら危ないからね」

「それでね、パパに「言づて」があるよ。パパに言ったら分かるって」

「誰に言われたんだい?」

「車の中にいて僕らのことずっと見てた人」

「知らない人と話をしては危ないよ、そう教えてきただろう?」

「うん、ごめんなさい」

「で、何もされなかったかい?」

ボブはそのつぶらな瞳で肯いた。

「良かった。で、その言づてというのは何だい?」

「えーとねえ、何だっけな・・。君のパパはマイヨさんだね? って言われたからうん、って言っただけさ。ホントだよ、そしたらね、そのおじさんが言ったのさ、あ、思い出した」

ボブはマイヨの耳に口を近づけた。

「何だい、ベイビー」

「ピーナッツ牧場に連れてくぞ、この野郎」

ボブが満足してパパの胸から離れて息をついた。

「・・だった」

ボブがその時、目にしたパパの目は一生忘れることができないものだった。

その後の絶叫は、産休を取って家にいたキャンディにも聞こえたし、丘の上にこだました。


 また、歳を経て精神病院に舞い戻ったマイヨをキャンディは献身的に世話をした。

子供のように頭を撫でてやり、毎日のように愛を囁く。子供のことを事細かく話してやり、マイヨの話してくれた言葉一つ一つを優しく繰り返して話して聞かせた。

 それでも一向にマイヨの状態は元には戻らなかった。

「お願いします、あの人にピーナッツのすりおろしを出して下さい」キャンディはクリスマスの日にキッチンへ注文しに行った。

 その日の夕食には、ボブと娘の、マイヨの子供たちも呼んでやり、キャンディは恐る恐る食事を運んだ。

ベッドの上では目も口も開け放した別人のようになったマイヨが寝ている。

「マイヨ、子供たちが来ましたよ」

「パパ!」

「・・パパ」

マイヨの目は動かない。微塵も反応を示さない。

「あなた、これはピーナッツのすりおろし・・、ピーナッツのすりおろしですよ・・」耳元で囁いてやり、スプーンに載せたピーナッツのすりおろしをキャンディはマイヨの口元へ運んだ。


 それから発狂したマイヨはベッドから飛び上がり、クリスマスの飾り付けをはねのけ、脱兎のごとく病院のドアを蹴破って外へと逃げ出した。

「ピーナッツ牧場に連れてくぞ・・、はあはあ、・・ピーナッツ牧場に連れてくぞ・・」まるで自分の背にシールで貼られているみたいに後ろを振り返り、振り返り、マイヨは馬のようにいななき、道なき道を疾走した。

戻ってきたのはあの、コートを着て立っていた泥だらけの轍の道である。

ピーナッツ牧場・・、それは世界が反対から見えるところ。

来るぞ、来るぞ、「奴ら」が来るぞ。

マイヨは追ってくる車を探した。

それから逃げるように途方もなく走り続け、車がワンサカ通るクリスマスの通りに出ると、誰も彼もが「ピーナッツ牧場に連れてく」ように見えて、回れ右をしてまた走り続けた。

轍の中へ突っ込み、立ち上がれないでもがき、わめくので口まで泥が入ってくる。

轍の中にいるのも怖いので飛び跳ねるように立ち上がり、それからケンケンをして、大騒ぎの病院へ帰った。


 驚いたのはキャンディとボブである。娘はよく知りもしないパパに怯えて泣き出している。

「昨日、雨が降ったかい?」マイヨはキャンディの顎を上げキスをした。

それからボブを抱き上げたマイヨは、「ベイビー、キイチゴは美味しかったかい?」と尋ねた。

「ええ」

「うん」

キャンディとボブは同じように返事をし、キャンディは涙を流し、娘の髪に手をやった。


 それから死ぬまでマイヨ一家は何回か引っ越しはしたが、安穏として暮らした。

キャンディは定年になるまで看護士を続け、ボブは立派な整備士になった。娘はすっかりパパっ子になり、今でも結婚相手を探している。

マイヨはもうピーナッツを見ても何とも思わなくなり、在宅ワークを続け、仕事を辞めた後はキャンディと都会を旅行し、孫にも恵まれ、キャンディに看取られ亡くなる時に、心から「愛してる」と囁きその幸せな一生を遂げた。

キャンディも後を追うように静かに亡くなり、「ピーナッツ牧場」は影も形もなくなったのであった。




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