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数時間後、マサミが仕事部屋から出てくるとバスルームに入る。シャワーの水音が聞こえ、しばらくしてパジャマに着替えて出てくる。
「もう寝るんですか?」
「うん」
マサミ、ベッドにもぐりこむ。
「寝台は居間においてあるんですね」
「ベッドルームは仕事部屋にしてるから」
「俺もお湯を使わせていただいてもよろしいですか?」
「シャワーしかないけど」
「ええ、浴室は先ほど覗かせてもらいました。シャワーがあるなんて洋式のホテルのようでモダンですね」
男、マサミの反応がないのに慣れてきた様子で一人で話し続ける。
「生活に必要な物がないと困りますからね、この男の持ち物を一緒に持ってきました。街中のホテルに泊まってたんです。部屋にあったもの全部トランクに詰めてきました」
男、持ってきたスーツケースを開けると一番上にあった電気シェイバーを取り出して不思議そうに眺める。
「あの、これはなんですか?」
「ひげをそる機械よ」
男、疑い深そうにシェイバーを見る。
「今夜はひげをそらなくても構いませんか?」
「私はかまわないけど」
男、スーツケースの中をかき回す。
「下着が見当たりませんね」
マサミ、ビキニタイプの下着を指差す。
「これじゃないの?」
「ええ? これはまたずいぶんと小さいですね。締め付けられるのは苦手なんですよ」
マサミ、トランクスを見つける。
「こっちは?」
「それならよさそうですね。しかし派手ですねえ。こういうのが流行りなんですか? 寝巻きはどれでしょうか?」
「パジャマはないみたいね。このTシャツと下着で寝たら?」
「そうします。歯ブラシはこれですね。他人の歯ブラシを使うのは気がすすみませんが……」
「……でもこの人の歯ブラシなんでしょ? 嫌だったら洗面台の下の引き出しに新しいのが入ってるよ」
男、嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。俺、おかしなところで神経質なんですよ」
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しばらくして男がバスルームから出てくるとマサミの寝ているベッドの横に立つ。 マサミが眠たそうな目で男を見上げる。
「ああ、あなたの寝る場所がなかったね」
「ご一緒してもよろしいですか?」
「このベッドで?」
「ええ、夜伽を勤めさせていただかなくてはなりませんから」
「夜伽?」
「夜のご奉仕は重要なお役目の一つなんです」
「そうなの?」
男、言葉に力をこめる。
「そうなんです」
「じゃ、どうぞ」
「ど、どうぞ?」
マサミ、不思議そうに首を傾げる。
「だって今、それがあなたのお役目だって言ったでしょ?」
「は、はあ……」
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翌朝、マサミ、男の腕の中で目覚める。そっと抜け出そうとするが男が目を覚ましてマサミの腕をつかむ。
「行くな」
「え?」
男、はっとしてマサミの顔を見る。
「す、すみません。寝ぼけていたんです」
「そう」
男、慇懃な笑顔を浮かべる。
「夕べはいかがでしたか?」
マサミ、ぼんやりと男を見る。
「うん」
「うん?」
「よくわかんない」
「はあ?」
マサミ、裸のまま起き上ると電気ポットの電源を入れバスルームに入る。しばらくしてシャワーを浴び終わって出てくると引き出しから服を取り出す。 男、下着を身に着けるマサミを怪訝な顔で見つめる。マサミ、男の視線に気づき顔をあげる。
「どうかしたの?」
「い、いえ」
マサミ、沸いたお湯をコーヒーカップに注ぐ。 マサミ、男がまだ見ているのに気づく。
「ああ、コーヒーと紅茶はその棚の上よ。ええと……」
「なんですか? 俺に質問ですか?」
「あなたの名前、知らないわ」
男、嬉しそうな顔になる。
「名前はないんです」
「ないの?」
「ええ 、ないんです」
「そうか」
マサミ、コーヒーカップを持って仕事部屋に入ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「なに?」
「ないんだったら不便よね、とか、つけてあげようか、とか思わないんですか?」
マサミ、男を不思議そうに見る。
「だって、あなたの名前でしょ?」
「あ、あなたは俺の主人なんですからあなたがつけなきゃならないんです」
「そうなの?」
「そういう決まりなんです」
「……おばあちゃんはあなたの事、なんて呼んでたの?」
男、一瞬たじろぐ。
「……や、弥右衛門と」
「やえもん?」
「ええ」
「じゃ、それでいいわ」
「えええ?」
「変えないほうがあなたも楽でしょ」
「も、もっと格好いい名前はどうですか?」
「どんな名前が格好いいの? ……アレキサンダーはどうかな?」
男、慌てて口を挟む。
「い、いえ、弥右衛門で結構です」
「うん」
マサミ、仕事部屋に入るとドアを閉める。
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弥右衛門の叫びを聞いてマサミが仕事部屋から出てくる。
「何かあったの?」
「卵が、卵が爆発したんです」
「ああ、電子レンジに入れたのね。布巾ならそこの引き出しに入ってるから拭いておいて」
「こ、この機械は危険ではないんですか?」
「卵と生き物以外は入れても大丈夫だと思うけど」
「はあ」
弥右衛門、電子レンジを不安そうに眺めるがマサミが仕事部屋に戻ろうとするのに気づき慌てて声をかける。
「ええと、今日はお洗濯をしたいんですが洗濯場はどこですか?」
「洗濯機ならバスルームにあるよ」
「洗濯機? この家には洗濯機があるんですか?」
「うん」
「あと掃除道具の場所も教えて下さい。まさか真空掃除機があるなんて言わないでくださいよ」
「……掃除機ならあるけど」
「マサミさんは財閥か何かのお嬢さんだったんですか?」
「どうして?」
「洗濯機や掃除機なんて庶民に手の届くモノではありませんよ」
「それは戦後の話でしょ? おばあちゃんが死んでからもう五十年以上経ってるのよ」
「ええ? そんなに?」
「だっておばあちゃんはおかあさんがまだ小さいときに死んじゃったから」
「そ、そうか。そりゃ、そうなりますよね」
「気づいてなかったの?」
弥右衛門、寂しそうにマサミを見る。
「なんだか自分が浦島太郎になったような気がしますよ」
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同日の晩、マサミと弥右衛門が夕食を食べている。
「今日はすみませんでした。洗濯機も掃除機も使い方はわかったので明日からはお手をわずらわせることはないと思います」
「うん」
「家事もずいぶん簡単になりましたね。文枝さんにお仕えしていた頃は洗濯と炊事で半日はつぶれたもんですよ。これじゃ俺の仕事もたいしてなさそうですね」
ドアをノックする音が聞こえる。マサミがドアを開けると男が立っている。
「今、いい? 」
「うん」
男、弥右衛門に目をやる。
「誰、あれ? 」
「ああ、同居人 」
「……いいや、俺行くわ」
男、階段を降りていく。
「マサミさん、恋人がいらっしゃったんですか?」
「ええ? ああ、ただの知り合い。別に付き合ってるわけじゃないからいいよ」
「俺に遠慮したようでしたよ」
「いいのよ。あの様子じゃセックスしたかっただけでしょ」
「…け、結婚前の女性が恋人でもない男性とそのような関係を持ってしまって構わないんですか?」
「あなただって私と寝たでしょう?」
「俺は人間ではありませんから」
「でも、それ、死んだ人の身体、貰ってきたんでしょ? 人は人じゃないの?」
「……そう言われればそういう気もしますけど」
マサミ、弥右衛門の顔をじっと見る。
「人間はセックスしたからって汚れたりしないよ」
「は?」
「ごちそうさま」
マサミ、食器を流しに持っていくと仕事部屋に入ってドアを閉める。 弥右衛門、慌ててドアをノックする。マサミが顔を出す。
「どうしたの?」
「すみませんでした」
「どうして謝るの?」
「さきほどは僭越でした」
「僭越? どうして?」
「マサミさんの交友関係に口を出してしまって……」
マサミ、困った顔をする。
「あなたの言ってること、わからないわ。……もういい?」
マサミがドアを閉めようとするので弥右衛門が慌てて話しかける。
「な、何か一緒にしませんか?」
「何かって?」
「仕事ばかりされてるでしょ? たまには息抜きなんてどうですか?」
「もうすぐ締め切りなの。今夜済ませてしまうわ」
マサミ、弥右衛門の顔を見上げる。
「そうか。あなたはすることないのね。テレビでも見る?」
「テレビ?」
「私はほとんど見ないからしまってあるの。ちょっと待ってね」
マサミ、部屋から出てくると小さなテレビを戸棚から出してテーブルにのせる。
「テレビジョンまであるんですね。放送が始まった頃には文枝さんと街頭テレビを見に行ったもんですよ。当時は庶民には高嶺の花だったんですがねえ」
マサミがテレビのケーブルを繋ぎ電源を入れると音楽番組が映る。
「こ、これはなんですか? この人たちはどうしてわめいてるんですか?」
マサミ、チャンネルを変える。
「今はああいう歌が流行ってるの」
「歌? 歌には聞こえませんでしたよ」
「ドラマならいいかしら。英語の放送だけどわかる?」
「ええ、イギリスにはずいぶん長い間いたんですよ。その後、アメリカにも渡りました。二百年近く前の話ですけどね。あの頃には日本と戦争になるなんて夢にも思いませんでしたよ。あれ、絵に色がついてるんですね。本物みたいだ」
マサミ、弥右衛門にリモコンを手渡す。
「これはなんですか?」
「これでチャンネルを変えるの」
マサミ、弥右衛門が理解していない様子なのを見てリモコンのボタンを押してみせる。
「うわ」
「じゃ、仕事するから」
嬉しそうにリモコンのボタンを押す弥右衛門を残してマサミ、仕事部屋に戻る。