98.
少し待つと、ハーツさんとウォーレンさんが部屋へ合流します。扉が開いた先でアングレカさんが一礼していたので、案内もあったものと思われます。気になったのはどのようなお話があったのか。ウォーレンさんとハーツさんに向けてだけ話されるお話とは何かというところですが、
「いえ、普通にマリーの身体のことの詳しい話よ。病気になっちゃった時とかにあたし達が困らないようにね」
ほとんど事務連絡のようでした。いざという時に頼れるお二人という立場ですから、把握しておくに越したことはありません。わたしを外しておいてもらえたのはある種の遠慮や気遣いだったのでしょうが、アルカさんも同席していた方がお話をより深く理解できたことだろうとは思いますが。
「それよりも、マリー」
ウォーレンさんがわたしに語りかけます。
「気分はどうだ。問題ないか」
ウォーレンさんまで同じ質問です。むしろ蒸し返される程に頭の中をかすめてしまうものですからそうならないためにもわたしは身体全身で問題なしを伝え、ついでにその証拠としてアルカさんにお話を聞いてもらったことも引き合いに出しました。
「そうか。ならば……」
ウォーレンさんはコートの中から地図を取り出し、
「今後のことを考えなければならないだろう」
そう言いました。わたしが目覚めた時、一番最初に思い浮かんだ疑問。その疑問の答えは思っていたよりかなり呆気なかったとはいえ全て得られました。ならばその次です。これからは……この村か、ベリルマリンに戻るか、あるいはまったく別の場所か、要するに定住を選ぶという選択。あるいは別の目的を立てて旅を続けるという選択。疑問の答えが次の目的地を指し示してくれなかったからこそ、真っ白な私には無数の展望が埋め込まれていました。
「私はマリーの意思に沿おう。希望を遠慮なく――」
「はいはい、気を急ぐのもいいけどさ」
ハーツさんはそこでウォーレンさんに割って入って、
「疲れたでしょ?今日くらいはゆっくりしましょ」
「……申し訳ない。確かに急かしてしまっていた」
わたしは全然大丈夫だったのですが、一度お休みするのは良い考えだと思います。それを意識すると、わたしの身体は急に重くなったように感じました。思えば、長旅の果てに戦闘を一つ交え、お話を聞いて、そして最早とっくに日を落とした時刻。疲れることは明日の朝に回してしまいましょう。
ベッドはハーツさんで一つ、わたしとアルカさんで一つで使うことになりました。普段からのことですが、哨戒の目的でかウォーレンさんは一緒に眠ってくださらず、今日もその例にもれませんでした。要望すれば偶にわたしの傍で一緒に眠ってくれはするのですが。
蝋燭の火を消して、部屋は暗闇に飲まれました。目を瞑ります。ふわふわの毛布。薄目に目を開けると、天井の模様が見えました。毛布の中、右手で左手を触ります。かなり出来の良い五本の指がくっついていて、根元を辿ればわたしの肩に繋がっている予定です。また目を閉じます。息を吸い込んで、ゆっくり吐くと、胸部が併せて動きました。
無音が煩く耳に入り込む。頭の中に存在しない雑音が混じる。考えても仕方ないと思いつつも、眠りに就こうとするたびに、頭を過る。わたしは……わたしの身体は、ただ出来が良いだけの人形でしかない。親と呼べるようなものも、恐らくいない。例えばある日突然、コップに注いだ水が話し始めたようなものなのでしょうか。ただの水が人の形を模して自分を人だと錯覚するのは、滑稽なお話にも思えました。ならば、わたしの存在意義は、まず人として生きることなのでしょうか。どこかの誰かはわたしという道具を求めている。水は水なら飲み干されるべきで、薪は薪なら燃やされるべきでしょう。歩いて、走って、旅をして、言葉を扱っても、人にはなれないのです。足を切り落として誰かの渇きを癒すか、腕を引き裂いて誰かに温もりを与えるか。それをせずに仮に誰かを、人を不幸にするか。それをせずにわたしがただ生きる理由はあるのか。わたしに意味はあるのか。わたしの意味は、本当は。
考えても仕方ないことが頭の中を焦がして煤を落とそうとしている。そのことに気が付いてわたしは、意地でも目を瞑って、勝手に進もうとしていた思考を外に追い出すことにしました。けれど何も考えないようにするというのはむしろ難しく、アングレカさんから頂いたお菓子のことや、遡って船旅で出会った幽霊さんのことや、さらに遡って港町に棲んでいた怪獣のことや、と別のことを考えて気を紛らわそうとすると、今度はその所為で思考が覚醒してきてしてしまう。
「ねぇ」
囁き声が聞こえました。
「眠れないの……?」
隣で眠るアルカさんです。まだ眠っていなかったのですか。
「手、握っておいてあげようか……?」
わたしの様子を案じてか、眠れない幼子の扱いをされているのでしょう。不服にも感じましたが、しかし、小声での取引でもあったのでわたしはそれに甘んじることにしました。わたしの両手は毛布の中で二つの手に捕らえられました。自分で触った時よりもずっと暖かく、指先からわたしには無い何かが染み渡ってくるかのようでした。
「大丈夫。今日は色々あったんだし、ゆっくりしていいんだよ」
普段のアルカさんは同年代の気の合うお友達として感じていましたが、今日のその声はどこかハーツさんの腕の中で眠った時のことを思い出しました。ゆっくり息を吸って、そして吐くと、頭の中で煤を吐いていた煙が今だけは消えたように感じられました。
きっと、こうして、わたしが……わたしというある種異質な存在がこんな異質な場所に呼ばれるのには、それ相応に意味があったのだろうと、しばらく見ていなかった光景を目の前にしてわたしは思いました。半ば沈んだ身体を起こすと、布切れのような服から水滴がぽたぽたと落ちて、しかし少し経つとあっという間に乾ききってしまう。空は青というより誰かの絵筆の書き損じで、地平に近づくにつれて掠れてほどんど白と見分けがつかない。立ち上がると、更にまた水が滴り落ちて、その足元は、緑青色に透けている。あの場所でした。




