95.
「……すご……全部、覚えてたの……?」
一つ目の紋様、アムシース近郊の焼けた村にあった紋様を書き終えてその隣の空白にインクを入れる時、ハーツさんがそう言いました。
「ふぉふぉ。覚えている、と言うと少し違うかもしれんのう」
オスカー師は髭を撫でて笑います。
「誰かを教え導くような魔法は、一本の糸のような道筋を持っておるもの。最初に糸の切れ端さえ把握すれば、あとはそれを手繰り寄せるだけ。一度使ったことがあれば再現すら容易なものじゃ」
オスカー師の見解はおそらくわたしのこの感覚を正しく説明しているのだと感じられます。文字だって最近覚えたばかりのわたしの右手は、一切の迷いなく線を重ねていきました。それこそ、わたしがかつて言葉で形容することは困難だと感じていた線の一本一本を、です。
しかしアルカさん達の村にあった二つ目を書き終えて、わたしの手はふと止まります。何も、思い出せない……。三つ目の紋様は確か、ベリルマリンの郊外の洞窟の入り口にあった黒岩。その頂上にあった紋様です。あの紋様はアルカさんと遠くから確認こそすれど実際に魔法を起動することはありませんでした。背がどうしても足りず、なるべく近くで拝むことくらいしかできませんでした。ほかの二つがスラスラと書けたものですから、これも書けるものだと思っていました。勘違いだったみたいです。……もしかしたら、子供のドラゴンの背中にでも乗せてもらえたら起動できたのでしょうか。
「あ、もしかして三つ目は結局できなかったんだっけ!」
わたしが苦戦している様子からアルカさんが閃いて、それで皆さんある程度合点が行ったみたいです。不甲斐ないような……でも、思えばこんなぐちゃぐちゃな線の塊をよく二つもスラスラと描けたものです。
「……なるほど、では実際に再現可能だったのはこの二つということじゃな」
オスカー師は二つの紋様が書かれた紙を手に取り、じっくりと眺めます。今からこれを使って何かするということでしょうか?
「うむ」
まずオスカー師は最初にわたしが渡した方の紙を示して、
「こちらの紙に記された文字列は、いわば鍵のようなものだと思えば良い。鍵がなければこの二つの紋様は何てことないただの魔法に過ぎぬ。じゃが、この鍵を使うことでこの紋様は全く別の意味を持つようになるのじゃ。開けてみるまで分からぬが、それこそがアムシースからマリー君へのメッセージであるということなのじゃろう」
オスカー師は杖に寄りかかって立ち上がると、
「アングレカ君、少し書斎に籠るから、この場を任せられるかの」
「かしこまりました。一刻後に紅茶をお持ちします」
「いやいやそれには及ばんよ」
オスカー師は手の二枚の紙をひらひらとしてノーを意味します。
「半刻で済ませるでの」
カツ、カツ、と杖をつく音が閉まる扉に遮られて、
「なんだか、ついにいろいろわかりそうな感じだね!」
「でもあんまり期待し過ぎない方が良いわよ。蓋を開けたらまた『〜〜に行け』って指示だったりするかもしれないし」
そうなれば確かに肩透かしですが、答えは実際にこの目で見るまで分かりません。少なくとも今わたしは、これまでで一番わたし自身のことに近付いているのではないでしょうか。
「皆様」
空いたカップを下げ、アングレカさんがひと声。
「この度は本当に申し訳ありませんでした。こちらの事情もあったとはいえ、対話の余地もなく強硬的な手段に転じてしまったこと、改めて謝罪させてください」
「そちらの対応は尤もなものだった。非に思う所は無いと私に関しては思う」
ウォーレンさんはわたし達全員の顔を見て、
「他の皆も、そのように考えているようだ」
と言葉を添えました。
「御心遣い感謝致します」
アングレカさんは芯の通っているかのような綺麗な礼をしました。
「ねぇねぇ、アングレカさんのお話も聞かせてよ!」
「私の、でございますか?」
「うん!せっかくならさ、ここで働き始めた経緯とかそういうの!」
わたしも気になります!先ほどのオスカーさんの語りで、「色々」の二文字で片付けられてしまっていた中に含まれる話だと思います。
「……私のお話など些事たる事にございます。取り立ててお話するに値するものなどございません」
「えぇ〜」
アルカさんは口を尖らせます。
「無茶言わないの。あくまでお仕事で色々やってくれてるんだから」
でもでも、ちょっとくらいお話したいです!オスカーさんも雑談しながら待っていてほしい、という意味を含めた言葉を残して部屋を出ていっていたことですし!
「……本当に、お話するに値するものはないのです。昔の私は行く方もなくて、そこを旦那様に……いわば拾ってもらっただけでございます」
「拾ってもらった……」
「とても昔のことでございます。しかし、その恩に報いるために私は旦那様にお使えしております」
アングレカさんは胸元に手を当てました。女中さんとしての姿勢は崩さない範囲で少しだけ安心した表情になった気もします。
何となく、オスカーさんとこの人の力関係……というか、立ち位置の関係から見てこの人がメイド業務に収まっていることが不思議ではありましたが、恩義を強く感じていることにかけて、その上での長年の付き合いというものなのでしょうか。
「なんかさ、それ素敵だなって思うなぁ……」
アルカさんがしみじみとしながら言いました。素敵なのはそうですが余程に感に入っている様子で、わたしはイマイチその理由がつかめずに問うてみると、
「だってさ、オスカーさんも行き場を失っていたところを助けてもらってこのお屋敷に住ませてもらっていたんでしょ?そんな、オスカーさんが今度はアングレカさんを助けてあげた……なんというか、そういう優しさが連鎖してる感じが素敵だなって」




