92.
小さな沈黙は、切るような風の音で打ち破られます。直後に金属質な高い音。弾かれ、狭い通路の右壁に突き刺さったのは鋭利なナイフでした。投げたのは先導していた彼女。勿論、この一本で終わりません。右手に既に追加の用意があります。続け様……二本。うち一本が前方に飛んで――
「うぎゃっ!」
急にわたしの身体が後方へ引っ張られます。ウォーレンさんです。アルカさんも一緒。尻餅をついてナイフが頭上を掠め、後、雷の轟き。眼前で巨大なガラス細工が粉々に弾けます。元々天井の吊り下げ照明だったのでしょう。驚いて目を瞑り、そして目を開くと……居ない……いえ、左壁です!
ガッ。鈍く、響く音。急接近した給仕服とその腕のナイフはウォーレンさんに迫る前に止まり、ハーツさんのナイフと鍔迫り合いにチリチリ揺れる。
「やっぱり……元からその気だったってわけ……ねっ!」
体重をかけて押し戻すハーツさん。アングレカさんはそれを捌き、宙返って姿勢を戻します。ハーツさんは即座に間合いを詰め、
「……ッ!」
薙ぎ、突き刺し、そして縦に裂く。受け身に回るのも仕方ないはず。意識が散れば蹴りが腰に、重く。
「ぐっ……!」
ハーツさんと同じくらいの体躯が真っ直ぐふっ飛ばされます。流石に重いはず……ハーツさんはさらに追撃を……。
「……っ!ハーツちゃん、気をつけて!」
アルカさんが隣で叫びます。飛ばされつつも、アングレカさんは小瓶を口に咥えていました。そして、嚙み砕き……。空気が揺れる。
「……なっ!?」
理解が追いつく前に、状況が逆転していました。
「ちょっ、急にっ……何よ、これっ!?」
平易に表現するならば、アングレカさんのすべての動きが突然、倍近く早い。腕の振り抜き、ナイフの切り付け、膝蹴り。その圧倒的に人間離れした動きに、ハーツさんは処理を求められます。あり得るはずがない。あの小瓶が絡んでいることは明らかです。
「時間圧縮系の魔法……だとするとポーションの中身は……なら……」
アルカさんは自分のロッドを構え直します。集中状態、小声で何かを呟いています。心当たりがあるようです。わたしはサポートに回ります。必要な時に基礎防陣を使えるように。
銃声、弾丸は廊下の奥に爆ぜました。当たらない。再び、ガリッとガラスを噛み砕く音。直後……アングレカさんの姿が失われます。もちろんこれも魔法。
「姿消すやつまで持ってるってわけね……!」
ハーツさんは姿勢を低くして、おそらく音や振動に注意を払っています。居場所がわからなくなった。その場合、ここでわたしのすべきことも明白でしょう。
ガンッ!!と音が鳴ると、ウォーレンさんが見えない何かを弾き飛ばした後です。私が狙われなかったのは偏に運が良かったのでしょう。――――ᛢᚢᚨᛖᚱᛖ
……見えます。早くなった動きもそのまま。ウォーレンさん、背後からまた来ます!
「……っ!」
見えないだけでも大変でしょうに、それをここまで対応できるのは、今更ですがウォーレンさんもハーツさんもただ者ではありません。
受け身の先を発砲、続けてハーツさんも同じ場所を斬りつけますが、大きくタイミングを外しています。次は……ハーツさん、左!
「っと……!」
攻め手を作るにはわたしの視界を共有する必要がありそうです。颯の動きを追いかけて、攻め手を警戒。その間に何とか二人のうちどちらかにくっついて……。
「解却!」
隣のアルカさんが大声でそう叫びます。直後、アングレカさんは態勢を崩して前方へ勢いよく倒れます。まるで急に足だけが動かなくなったように。
「そこね!」
「……ぐっ!」
反応するハーツさん。アングレカさんもすぐに姿勢を戻し、一撃を受け止めます。どうやら魔法は解けたようでした。しかし、動きの早さが戻ってもハーツさんの振り抜きを往なして、軽妙な動きは変わらない。ウォーレンさんへ接近、跳躍。天井を蹴って加速。武器はナイフからいつの間にか棘付きの棍に。頭部を狙った、速度のついた重い一撃……直撃……!
「……っ!」
腕一本で止めています。コートの中に腕甲が仕込んであるのでしょう。宙を舞うメイド姿。もう一方の腕で柄握るその手を捉えます。
捕まえた。そのままぶん回し、薙ぎ切る孤を描いて壁に叩きつけます。
「がぁっ……ぁ……!」
背中を強打。壁面の大理石が崩れます。腹部を踏みつけて、その頭に向けて発砲の姿勢を取ります。優位を取りました。
「大人しくしろ、命までは取らない」
致命にも近い一撃に身体は動かないはずですが、瞳に戦闘の意志が残っています。
「どういう魂胆か、全部話してもらいましょ。それこそ、あたし等をどこに案内してたのかもね」
ハーツさんもアングレカさんに近寄り、窮鼠の抵抗により警戒を敷きます。少しでも腕を動かそうものなら、一発お見舞いされることでしょう。
「……」
メイドさんは、この期に及んでまで逆転の機を伺っているようです。これ以上動かれない方がわたしやアルカさんによる治療も少なく済むのですが。
さぁ、はっきりさせるべきです。『彼』がわたし達に用意した罠だったとして、わたし達を襲ったのはあなたの独断か、あるいはあのご老人は……。
「双方静まれっ!!!」
大音声は、耳鳴りを起こす程。杖をつく甲高い音が一つ。すぐに、わたしは背後の声の主に注意を払います。館の門扉で出会ったまま、全く同じ老人がそこに立っています。不思議なものです。両手を縛られたわけでも、きっと魔法を使われたわけでもない。なのに、わたしも、誰もその場から動こうとしませんでした。沈黙、緊張。そして、老人は……杖を手放した。
「この通りじゃ」
両手を挙げ、膝を床につく。
「降参する。わしのことはどうしても良い。罰則にも徴兵にも何でも応じよう。しかし……その子は無関係じゃ。貴公等を襲わせたのも、わしの指示あってのことじゃ。秘術も教えていない。魔導書に触れさせてもいない。必要とあらば目の前で箝口術をかけても良い。だから……頼む」
老人は、あまりにも無抵抗でした。
「その子は見逃してやってくれんか」




