87.
「……リー、マリー」
いつから眠ってしまったのかは覚えていません。ハーツさんとの会話が最後の記憶ですが、その時点でも既に夜は深まっていたはずで、わたしにしてはかなりの夜更かしだったと思います。呼び掛ける声と揺する手に起こされて、わたしはハーツさんのお膝から身体を起こして返事をします。目覚めの直後で気抜けた声が出たかもしれません。
「しっ……静かに」
人差し指一つをピンと立てるハーツさんに、事態も把握していないにも関わらずわたしの意識は急に明瞭になり、思わず両手で自分の口を塞ぎます。その挙措を見て、
「起きたばっかりでごめんね、あの、透明になれるあれって、今できる?」
わたしは口を押えたまま首肯します。その意図はあまり理解できていませんが、求められて拒む理由も特にありません。指先から、身体を水のように透明にする感覚で魔法の力を研ぎ澄まします。頼まれたのはわたしかハーツさんか、指定はありませんでしたが両方に魔法をかけるくらいは容易いです。
「……できた?」
できました。
「オッケー」
ハーツさんは昨夜から寄りかかけていた木の背後を気にしているようです。耳を澄ませば、落ち葉と雑草を踏む音が規則的に聞こえました。誰か、いる……?ハーツさんは木の幹を頼りに、おそらく片脚だけの力でゆっくりと立ち上がります。その経過、
「いい?合図したら、全力で走って。足止めはあたしがやっとくから。透明になってたらほぼ確実に撒けるはずよ」
まるで自己犠牲的な提案を真っ直ぐ承諾できるわけがないのは、誰だって同じだと思います。大声にならないように抗議すると、
「大丈夫。あたし結構強いのよ?」
右手のナイフをくるりと回して笑みかけます。昨日の夜のような、ある種責任感からくる声色ではなく、強い自信を含んでいるように見えました。
「それに……」
ハーツさんは左肘をうまく使って姿勢を整えます。
「挫けてられないから」
鋭い目つきは集中の顕れです。大きな迷いや後悔を振り切って、霧を晴らしたような心地なのでしょう。
が、正直わたしはかなり狼狽していました。前日から聞く怪我から考えても、当然ですが彼女は直立すら怪しい状態にあり、視覚上の主導権を握っているとはいえそれが身体上の不利を覆すものとは思えません。これは……まずいです。昨夜の語らいによりハーツさんの心の迷いが吹っ切れたのは良かったのでしょうが、むしろ今はそれが裏返って、危険な全能感にまでつながってしまっているのかもしれません。大丈夫?……いえいえ!絶対大丈夫ではないです!今のハーツさんの容体なら、場合によってはわたしでも倒すことができます。だというのに、聞く耳を持ってくれそうもありません。一種の興奮に陥っているのでしょう。もしかしたら、一時的に怪我の痛みすら感じていないかもしれません。
足音の大きさが接敵の時間を予告しています。ぼーっとしているわけにもいきません。そこでわたしはようやく、探しの魔法を思い出します。むしろ一番最初に使うべきだったはずでした。
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せめて情報が増えるだけでもきっと異なりますし、そもそもうまくやり過ごせる可能性も……ん?いや、これは――――
「今!」
ハーツさんにナイフの柄で背中をとんと押されます。わたしがその場から二、三歩歩いた直後、わたしの背を掠めるようにナイフが通り過ぎたことでしょう。振り返ると、切っ先は丁寧に相手の首筋の高さを狙い……。
「……なっ……!」
受け止められていました。
「……ウォ、ウォーレン……?」
「ハーツか」
刃は黒手袋につかみ取られ、ピクリとも動かないようです。そう、ウォーレンさんです!わたしは腰元に抱き着くと、
「マリー……そうか、あの魔法か」
流石に透明だったわたしにまでは気が付かなかったようです。むしろ不可視のハーツさんの斬撃に反応できたことの方が驚きかもしれません。ウォーレンさんはわたしの頭に手を乗せると、
「無事で良かった」
といいました。撫でるこの手に勝る多幸はありません。
「ウォーレン、な、なんでここに……ひゃっ!」
攻撃の手段と目的を失ったハーツさんは気持ちの糸が切れて、足から崩れ落ちるように、背後へ倒れそうになるのを、
「大丈夫か?」
ウォーレンさんが肩から支えます。今になって痛みが戻ってきたのかもしれません。
「う、うん……」
ウォーレンさんはすぐに手を引っ込めるつもりだったようですが、もたついて自力て立てないハーツさんを見て、
「……脚をやったか」
と言って、座りこませる方へ誘導しました。ハーツさんの武勇伝を語る、またとないチャンスです。この川の中で手負いになりながらもずっとわたしを庇ってくださった功は是非とも知ってもらいたいです。
「……そうだったか」
ウォーレンさんはお尻を付いたハーツさんと目線を合わせると、
「本当にありがとう」
とお礼を言いました。ハーツさんは、一気に魂まで抜けてしまったように先ほどまでの緊張を失って、呆然としています。しかしウォーレンさんは気にせず、
「上流でアルカが拠点を設営している。一度そこまで移動しよう」
ウォーレンさんは屈んだままハーツさんに背を向けると、
「腕は回せるか?」
「え、えっと……うん」
ハーツさんはウォーレンさんの背に倒れ込むように覆いかぶさって、右腕をその肩に回しました。もう片方の腕はウォーレンさんが誘導します。
「……重いとか、言わないでよ」
「マリーを救ってくれたんだ。それしきで音を上げはしない」
「……そういうことじゃないっての……」
女性一人は易々と持ち上がり、
「申し訳ない、マリーは自分で歩けるか?」
大丈夫です!問題ありません!




