85.
「こういう時こそ、あたしがしっかりしてなきゃなのにね。なんか……怪我くらいでだいぶ心が弱っちゃってたみたい」
思い出したように顔を上げでニコッと笑って、
「きっと大丈夫だから、マリーも安心して。ウォーレンやアルカもきっと探してくれてることだろうし、それに、あたしも別に、こういうことが初めてってわけじゃないし」
ハーツさんが右腕を伸ばしてわたしの背中を撫でました。本当はわたしの頭を撫でたかったのかもしれません。座ったままでは届かないからその代わりなのでしょう。
「あたしの分まで頑張らせちゃってごめんね」
その言葉を聞いて、自分の中で何かがぷつりと切れた気がしました。緊張の糸などではありません。この人……目の前のこの人は、何を言っているんですか。この人は、何を押し殺してそんなに熱心に笑顔でいようとしているんでしょうか。なんで、なんでわたしに向けて、こんな時まで心の内側を閉ざしてしまうのでしょうか。さっきまでのどんよりと悲しそうな顔をしたハーツさんを、確かにらしくないと、普段のテキパキと自信に満ちたハーツさんを取り戻して欲しいと強く願っていました。でも、今こうして元気そうに振舞うハーツさんを見ても嬉しさなど全くありません。
喉を閊えた水よりも大量の、淀みを含んだ空気が煙の様に膨れ上がって。胸の内側の張ったこの感情が、ハーツさんの伸ばした腕を無神経にも掴んで、撫でる背中から引き剥がしていました。
「マリー……?」
ハーツさんは、急なわたしの態度の豹変に戸惑っているようです。わたしを見る目が少しでも、見放された小鹿のような目をしていた気がしました。それでハッとします。無神経なわたしのこの行いに、自分で論理的な理由付けができていない。このままではただ、ハーツさんの気遣いを無為にしてしまっただけになります。咄嗟の行動には当然ですがその後ろに続く計画は全くありません。けれど目を閉じて、少し息を吐きました。ひとつひとつ積み上げるように整理して、それでようやくわたしの想いを理解できたように感じます。ちゃんと話そうと、そう思いました。でも何処から切り出せばよいか分からずに目をしばたかせます。だから安直にも、いつかどこかの頑張り屋な魔法使いさんにしたことを思い出して、
「……えっ、ちょ、ちょっと……」
頭をわたしの胸の位置に寄せて、ぎゅっと抱き寄せました。ちょうどわたしの手が、ハーツさんの髪を撫でる位置に来ます。
「え、えっと。その、マリー……?気持ちは嬉しいけど、その……なんかこう、別に大丈――」
違う。違うでしょう?ずっと、ずっと話してくれないじゃないですか。わたしがそんなに頼りないですか。ずっとずっと、今まで一緒に歩み続けた友達なんです。あなたの笑う顔はとてもきれいだから、本心から笑えないならちゃんと泣いてほしいのです。
「……」
ここにはわたししかいません。それにいつだって、あなたの周りには怖いものなんてなかったんです。気を張らなければならないものだって、何もないんです。わたしの隣は、腕も脚も折れて心も折れて、それでも泣き言すら許さないような場所ではありません。お願いですから。自分一人で背負い込まないでください。そう言ってくれたのもハーツさんだったんですから。苦しい気持ちも辛い思いも、嬉しい気持ちと同じくらい分け合わせてください。わたしたちが一緒に旅をしているのはきっと、そのためでもあるんです。
「……な、なんか、ごめんね!いろいろ気を……遣わし……」
ハーツさんの言葉は花を萎ませたように力を失っていきました。
「……そう、よね……」
こぼれた言葉は、また影を落とした喋りになりました。
「あたしって、元々しっかり者って柄じゃないし……なんか、そりゃあ、わかっちゃうわよね。ほんと、他人にはグチグチ言うクセに、結局自分のこと後回しにして……どうしょうもないわよね、あたし」
わたしの腕を、ハーツさんの右手が掴みます。
「でもやっぱり……弱音は言いたくないの。甘えたら、マリーにもっと負担をかけちゃうだろうから。……ただでさえ、特別な魔法が使えるってだけでマリーにはいつも無茶をさせてしまってるんだから。どれだけ特別で、どれだけ強い力を持ってても、マリーは……マリーはまだ子供だから……だから、あたしが……」
そこから先に続く責任感の言葉は綴られませんでした。自分の今の状況を冷静に思えば、義務感や使命感など、今のハーツさんがそれを全うできる状態では断じてないからです。過熱した感情が、ようやく収まったようです。
「……泣いたりとかはまだ恥ずかしいけど……しばらくこのままで居させて」
それを聞いて、わたしは黙って頭を撫でました。
深い黒にこの森が呑まれても、伸びきった影をいつの間にか立ち消えさせた暖かい橙の炎が、火勢を落とすことなくわたし達を見守っていました。虫の音がする。星の音がする。ずっとずっと、心が落ち着くまでずっと、ハーツさんを胸元に抱き寄せて、わたしがこの人の味方でいよう、その気持ちでいました。
「あたしね」
ポロポロと言葉をこぼすように、
「ソニスやじいさんに挨拶なしで家出したの。理由はなんか……あんまり覚えてないけど幼稚なことだったと思う。あたしがワガママ言って、じいさんがそれで怒鳴り散らして、ソニスが仲裁に入ろうとして、カロル……えっと、別の子は知らん顔してて……いつものことだったけど、その時、もう我慢できないって、思ったの。自分一人で勝手に生きてやるって。あの町も離れて、勝手に持ち出したお金で荷馬車を乗り継いで……少しの間大きな街で便利屋みたいなことして何の気なく生きてた。これでもちょっとは有名になってたみたいでね。そしたら、どっかで聞きつけたのか急に、あたしの力が必要だって言われて……それで傭兵みたいな感じで雇われた。他にもおんなじ感じであたしのほかにも何人か集められてさ、別に仲良くする気はなかったし、やれって言われた仕事をしてれば……それでお金をもらえばそれでいいってくらいに最初は思ってた。でも」
郷愁を含んだ笑み。
「どいつもこいつも変なバカばっかりで。面白いヤツもムカつくヤツも、話がつまんないやつもいろいろ。……今思えば……」
わたしの腕を掴む力が少し強くなりました。
「大事な友達だったんだと、思うの」
声が上ずっていました。
「一人死んで、二人死んで、ってそうやってバラバラになっていって……そのうちの一人が……」
「アムシースの魔法使いだった」




