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喉奥の異物を吐き出そうと何度も咳き込みます。わたしの意識はそこから再開しました。横を向いた口から信じられないほどの水を吐き出して、身体の中に必死に空気を取り込もうとすると、胸のあたりが焼けるように痛くなります。
「落ち着いて、ゆっくり。ゆっくり息を吸って吐くの」
優しい声が聞こえて、その声に従って、落ち着いて、ゆっくりと息を吸って、吐いて、また少し咳き込んで、でも無理にでもゆっくり吸って、吐いて。それでようやく呼吸が楽になりました。目を開くと、
「……よかった……無事ね」
ぐしゃぐしゃに濡れた髪のハーツさんが、わたしの顔を見つめていました。安心してか、ハーツさんはそのままぐったりと伏しました。
川岸、半分ほどが浸かっていたハーツさんの身体をズリズリと引き揚げて、近くの太い木の幹に寄りかからせます。
「ぐっ……ぅぅ……」
なるべく優しい運び方をしたかったのですが……引きずっている最中に何度か痛みを堪える様子がありました。急流の中で身体にいくつか怪我を負ったと思われます。ただ強く意識されたくないようで、本人は努めて平静を装っています。
するべきことを考えます。まずは……火、だと思いました。魔法を使って手の上に浮かべるだけでは火力が足りません。ウォーレンさんの焚き火の作り方を思い出します。たしか……火をつけるための太い枝が数本と、それを援護する細い枝や木の切れ端をたくさん。道具の助けも欲しいところですが、主要なものはこれくらいなはずです。つらい所とも思いますがハーツさんにもお聞きします。
「……そう、ね。ひとまずそれと……あとは、石を組んでその中で点ければ多分大丈夫。枝や葉っぱはなるべく乾いたものを選んで」
助言に倣い、びしょびしょの手を簡単に乾かしてから、枯れ枝や落葉を集めて山を作り、それを石で囲みます。あとは、意識を手のひらの上に……集火。目を離せば消え入りそうな小さな火を徐々に太い枝へ伝えていき……やった!うまくいきました!パチパチと強く爆ぜた火の粉が飛び、不安定に大きく燃え上がったり、火勢を急に落としたり。しかし、なんとか絶えることなくちりちりと燃え続けています。暖をとり、水気を切る用意ができました。
ずぶ濡れのハーツさんの服を脱がせます。身体を拭くものがあればよかったのですが、今は持ち合わせておらず……いえ。脱がせた服を火から離れた場所でぎゅっと絞り、ぱっぱと滴を払ったら、不十分ですがひとまずそれを布巾に代用します。お気に入りだったらごめんなさい。服を脱がせて初めて知ったのですが、ハーツさんの首に紅い色の宝石が付いたペンダントがぶら下がっています。あの川の中で無事でいられたのは、もしかするとこのペンダントがお守りになっていたのかもしれません。
わたしも自分の上はぽいと脱いでしまい、軽く水気を取ってからハーツさんの服と一緒にそばの木に引っ掛けておきました。お気に入りの靴もポイポイと脱いで、火の傍、燃え移らない程度の距離で乾かします。おそらく夜までには間に合うでしょう。
「ごめんね」
ハーツさんはそう呟きました。謝ることはありません。わたしは当然のことをしているだけです。むしろ助けてもらった側です。あの後ハーツさんがわたしのことを川の激流の中で必死に護ってくれていたことは意識がなかったとしても前後関係を照らせば簡単に推測できます。ハーツさんと違ってわたしはただ全身ずぶ濡れになっただけで、目立った負傷も一切ありません。
「それもありがとうだけど……あたしが提案したからさ」
ハーツさんは右腕で頭を押さえて、
「ごめんなさい、本当に。やっぱり大人しく川が落ち着くのを待つべきだったわ」
それについても、ハーツさんは全く悪くないです。完全にわたしがドジだっただけです。あのままもう少しの間船の上で気を抜かずにいられたらきっと無事に対岸へたどり着けたはずです。ハーツさんも言っていましたが、まさに頑張りどころだったのです。それを乗り越える直前で失敗してしまったのはわたしであり、わたしがハーツさんを手負いにしてしまったのです。本当にごめんなさい。
「……ごめんなさい」
ハーツさんは顔を上げてくれませんでした。
質問すれば答えは返してもらえて、左腕と右足がほぼ動かないことが分かりました。間違いなく折れているだろう、と。わたしに治療能力がないことは今後の反省点です。アルカさんは不得意だと自称されていただけに教鞭を執ってもらうことを遠慮していましたが、有事の備えとして優先されるべきでした。
探しの魔法を使い周囲の状況を把握します。歩ける距離に人はおらず、疎らに木が立つ地形がやや流れの早い川に沿って続くだけです。ウォーレンさん達といた場所からかなり離れたことは間違いないでしょう。もっと、もっと遠くまで探してみればもしかすると見つけられるかもしれませんが……今ここで鼻血を出して倒れてしまうわけにもいかないので、力の使い方には慎重であるべきです。
ある程度服が乾いたので、夜に備えて再び着直しました。川に混ざっていた泥が乾いて服の内側にもこびりついていて、いつもと比べそれがたまらなく不快ですが贅沢も言っていられません。ハーツさんの服も、腕と首を通す手伝いをしました。自分で着るのはこんなに簡単なのに、他人に着せようとするとどうしてこんなに難しくなるのでしょう。かなり手間取ってしまいました。
焚き火の炎は問題なく燃え続けています。気になって弄ると、ボロッと木組みが崩れて、一瞬炎が力を失います。特に対処も要らず再び持ち直しましたが、かなり肝が冷えました。もうこれ以上触らない方が良いのかもしれません。寒さは天敵です。簡単に心細さや苦しさの傷口を大きく開くのです。上に一枚と暖かい焚き火があれば何とかなるでしょう。
少しずつ日暮れが近づき、川辺の森は簡単に黒い影に覆われます。膝を抱えて座って炎を見つめて、これからどうするかを考えます。川の水流の方向から対岸に漂着したことは把握できます。ウォーレンさんやアルカさんは、今頃きっと懸命に探してくれていることでしょう。となれば、動けないハーツさんを背負って移動することもできない以上はわたしもハーツさんと一緒にここで大人しくしておくのが正しそうです。
ハーツさんの顔を見ます。普段の気丈で堂々とした面持ちが、今は神妙に地面か焚き火の火を見つめるばかりになっています。焚き火の炎で乾き始めて毛先がぱさぱさになった髪も、雰囲気を変える手伝いをしているかもしれません。改めてですが、ハーツさんの判断はかなり正しかったと思います。旅の最中で一つの村に居座り続けることはあまりに首肯しづらく、加えて実際、本当はこの川は渡れたはずだったと思うのです。運命か何かの弾みが悪く、そしてわたしのドジが招いたこの事態。なのにハーツさんが責任感を抱くのは筋が違うというものです。けれど、何も話すことなく日の光が斜めにわたしの影を伸ばしていくその間隙がわたしには居た堪れず、思いついたように、空腹を紛らわす何かを探してきます、と宣べて立ち上がろうとしました。
「……ホント、ごめんなさい」
わたしの足は歩みにまで至りませんでした。ハーツさんの言葉よりも、口調にどうしても引っかかってしまったのです。イヤに、急に声色を明るくして。抱えていた灰色をすべて呑み込んだようにして。
2025.10.20 一部改稿




