79.
「それで、ここ五年くらいわたしがずっとここの管理をしてるの。掃除はしてるけど、家具もキャンバスも全部、その直前のまま。どうしても大切な場所だから、やっぱり残しておきたくって」
椅子を勧めたわたし達へソニスさんは、お茶も出せなくてごめんなさいと謝り、そしてその言葉でお話を一つ区切りました。
「……そっか」
ハーツさんはそれ以外、特に何も言いませんでした。顔を見ようとしたのですが、そっぽを向いています。
「……そうだよね。ハーツちゃんでもやっぱり寂しいよね」
「でも、って何よ。あたしだってまぁ、あのじいさんに……曲がりなりにも世話になってたわけだし」
「クソじじい、でしょ?」
「言わないでよ……昔のことでしょ」
イタズラっぽく笑うソニスさんに、ハーツさんはせめて肘をついて行儀悪く座りなおしました。
「カロルとかは何してんの?」
「さぁ……ハーツちゃんもだけど、ホント放っとくとみんな連絡してこないから」
「あたしはいいでしょ?一回は顔出したし」
「たった一回じゃん!それもだいぶ前でしょ?はぁ……」
ソニスさんは呆れたため息をつきます。
「キャンバスもってことは、二階もそのままってこと?」
「うん、掃除のときに出入りしてるだけ。入る度、なんだか不思議な気分」
「あー、そういえばあのじじい、入っただけでめちゃくちゃ怒鳴り散らしてきたっけ。まったく、大人げないったらないわ」
「ふふ、懐かしいなぁ……」
ソニスさんは背筋を伸ばして目を閉じました。一息の時間が過ぎると、
「ハーツちゃんは、これは里帰り?」
「なわけないでしょ」
「だよね、そんなじゃないだろうし」
「というか、あんたが話聞かないからでしょ。とっとと本題に入ろうとしたのにうちのマリーで遊んだりするし」
ハーツさんはわたしの方を見て、右手を上にして出します。指を曲げる動作でわたしもテルさんも、その意図することを把握し、目的のものを渡しました。
「ほら、よく話してた、あいつがガキの頃、初恋だったって子いたじゃん?」
「ん?あ、あったあったその話!」
ソニスさんは急に明るい声を出して、両手を合わせました。
「これ、その子の持ち物だったかもしれないって」
そう言ってハーツさんは、澄んだ青の小さな宝物を机の上に置きました。斜めから見ると、青の奥に、深い色でテーブルの木目が沈み込んでいます。ソニスさんはそれを顔を近づけまじまじと見つめ、
「へぇー……ホントなの?」
「ま、ある筋の話では、ね」
ハーツさんはまたわたしの方を見ます。厳密には、情報源たるテルさんを意識してでしょう。軽く濁した様子を見てからソニスさんは姿勢を正して、
「でも、確かめようはもうない、よね。おじいさんにも聞けないし」
「そうなのよねー、じいさんに直接見てもらおうって思ってたんだけど」
かなり真相に迫ったと思いますし、状況的な証拠はかなり集まっているのかもしれません。しかし結果的にはどこかたどり着けず、真実は分からず仕舞いといったところでしょう。ハーツさんのアテが外れてしまったのは残念ですが、むしろ、この場所にたどり着くまでが出来すぎた物語だったのかもしれません。
「あ、じゃあさ。せっかくだから……」
ソニスさんは階段の方を指さします。
「見てかない?」
「え、いや、別に興味ないけど……」
「いいじゃんいいじゃん!ただ綺麗にしてるだけなのも何かもったいないなー、って思ってたし!……お連れさんたちも、良かったらどう?」
ウォーレンさん、アルカさんの方も向いて、ソニスさんは手を広げます。ハーツさんがこの人には尻込みしてしまう理由がなんとなくわかりました。柔和な態度なのに引っ張って行ってしまうような強引さがあり、けれどこの人の暖かい笑みかけは、どうしてもその誘いをとても魅力的に感じさせてしまう魔法がかけられているのです。
板張りの階段に足を掛ける毎、同じ間隔で続く軋みの音、奥から、柑橘のツンとした香りが鼻を突きます。誰にも邪魔させない別世界が待っているかのようでしたが、たどり着いてみれば大股で七歩も歩けば一周できそうなくらいの小さい世界でした。絵筆やキャンバスは一か所に集められ、掃除をしているというだけあってそれらも埃一つかぶっていません。調和を乱しているのは壁に跳ねた絵具跡と、その壁にもたれたいくつかの絵。この小世界を治める一枚の絵は木製の棒で出来た脚を持ち、一枚の布でその顔を覆うようおめかしされていました。西日が、そろそろ天窓から見える頃。
「ちゃんと見たことなかったけど、こんな感じだったのね」
「ね、昔はもっと大きくて広かった気がするなぁ……」
感傷に浸るお二人の言葉を聞きながら、テルさんは部屋を見渡します。いくつかの絵をぼんやりと眺め、しかし絵の技術技法の知識が無いのであれば、ただキャンバスの奥にも世界が広がっているように見えるだけです。それでも、知っている人の絵かどうか分かりそうですか?
「うーん……よくわかんない。あいつの絵より上手いのかもだけど」
照れ屋な絵の布をアルカさんがめくります。わたしとテルさんも、隣からそれを見せてもらいました。
「綺麗な絵……」
数枚程度の花びらで成る紫色の花が大きく描かれた単純な絵で、異質なところと言えば、花びらが途中から色を失っている所でした。絵の具は固まりきっており、再び作者が現れない限り、きっとこの絵の花が完全な色を取り戻すこともないのでしょう。
「アタシだって、別に絵なんて何も分かんないし……あいつならきっとわかるんだろうけど」
そう言って、また黙って、テルさんはぼんやりと一枚一枚を流す様に眺めました。かと思えば、気分屋に一つをじっくり見つめたり。わたしにはやはりその違いは分かりません。今度の絵はどうですか?お気に召したでしょうか。
「……」
返事は返ってきませんでした。わたしに構うのも面倒ということでしょう。視界に映るものをじっくりと見つめれば、どこかの村の道でした。小さな家がひとつふたつと、まばらに空を指す木が立っているだけで、大きな特徴のある景観ではありません。山も見えず、ずっと先まで空と雲が続いている気がします。長閑で、もしかすると時間さえ止まってしまっているような……きっとそんな村です。
目の前の絵の観察に励んでいると、急に身体が重くなり、世界の全てが沈み込むように感じられました。視界が眩み、大きく歪み、抗うすべはありません。わたしの身体が足から崩れ、上体から倒れゆく。みるみる床が……。
「大丈夫か」
床が、わたしの顔面に至る前に止まりました。身体が誰かに支えられているからです。ウォーレンさんでした。何が起こったのか分からず、わたしは当惑するばかりでした。ひとまず、テルさんの状態を確認したいところです。何がどうなったのか詰問すると、
「……ッ!マリーか?」
言われてようやく気が付きました。わたしの口が、わたしの意思で開いていたことに。




