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71.

 甲板に人は居ませんでした。太陽まで死んだように世界は静まり返ってわたし達二人だけが取り残されています。わたしの左手を包む黒色の手袋が心地よく、身体の中を巡る血液が胸の辺りをきゅっと締め付けました。

 足元がほの明るいのは、見上げた空に幾つもの星が瞬いていたからです。改めて落ち着いた心で仰ぐ光片たちは美しいの一言で片づけるにはもったいないでしょうか。夜の黒を吸い込んだ海の先、どこかその辺りにある陸地を思い馳せてわたしとウォーレンさんは甲板の手摺りにもたれ掛かります。もっとも、わたしの背丈では寄り掛かるというよりも張り付くという表現の方が正しいのかもしれません。

「君は」

 ウォーレンさんから話し始めるのは、実は稀なことだと思います。

「まだ決まったわけではないが……カンランに着けば、君自身の謎を解き明かすことができる、かもしれない。それが済んだら君は……マリーはどうしたい」

 どうしたい、というのは具体的には何でしょうか。

「……いや、済まない。確かに答えづらい質問だった。聞かなかったことにしてほしい」

 そう言ってはもらえましたが、思慮を与える質問だっただけにもわたしは考え込みます。

 わたしが自分自身のことを知りたいと願ったのは、ただ一番最初に立たされた場所においてわたしが望むことができるものが他に無かったからです。灰の大地にただ立ち尽くしたわたしは水よりも透明なほどに自分自身にまつわるものを持ち合わせていませんでした。しかしそれを始まりとしたわたしの道程で、ハーツさんと会い、アルカさんと会い、クロルさんたちと仲良くなって、そして、今のわたしはここにいます。一番最初にわたしが歩みを始めた頃からもう別人とも思える成長をしたことでしょう。もうわたしは、わたしが誰なのか、誰だったのかを知らなくても充分なくらい色んなことを学んで教わったのかもしれません。

 もしかするとここから先の旅は、本当はわたしには不要なものなのかもしれません。ここで、例えばベリルマリンに戻って、わたしが誰なのかを知ることもなく一生を過ごす……というものでも、ささやかでもわたしにとっては充分な幸せかもしれません。わざわざ、カンランを目指す理由は……。

 考え込んでしまって、その様子で困惑させてしまっていないかとウォーレンさんの方を見ました。そう深刻な悩みでもないだけにこれで心配させてしまうのは申し訳ないです。ですから、大事には捉えていないという身振りをしてもみます。

「人は……」

 ウォーレンさんはつぶやくように言いました。

「自分の出自も、それまでの己の足跡も、どのような人格と思想を持っていたかも、そのすべてを有して生きている。記憶が欠けることがなければきっと全ての人間がそうだ。でもマリー、君はそうじゃない。君が持っていたはずの記憶と経歴は、全てあの灰が無責任に飲み込んでいったんだ」

 わたしの肩に手を置いて、

「君が当然持っていたはずだったものだ。それを求めることは当たり前のことだ。旅が終わりを迎えれば、マリーはきっと、この旅を続けてよかったと……きっとそう思えるはずだ」

 わたしはこくりと頷くことにしました。心の中のどこかが、身勝手だと過剰に糾弾するよう働いていたのかもしれません。その通りです。両の手で髪を触れば、この白束の由緒を問いたくもなり、するすると解けて空っぽになった手のひらを見れば、その上で繰り広げられたいくつもの魔法の理由を尋ねたくもなります。むしろ……そうです。彼……彼が、カンランなどという場所を指し示さず、直接わたしの素性を明かしてさえくれたらよかったのに、そうしなかったのです。このまま引き下がってしまえば、彼に文句だって言えないでしょう。

 ウォーレンさんに少なからず気持ちの支えをいただいてしまいました。困った時はいつも、冷静に考えをまとめていただけます。貰ってばかり。ならわたしも何か力に……そうです、それなら……。

「……私がしたいこと、か?」

 カンランでの事が済んだならば、わたしはウォーレンさんの用事に付き合う、というのはどうでしょうか。ウォーレンさんのしたいこと、何でも言ってください!ウォーレンさんの助けになるようなことなら、何でもしたいです!

「……しまったな。やはり困る質問だったらしい」

 ウォーレンさんは顔を背けてしまいました。珍しい反応をされてしまうと、わたしの心の中のさらに別のどこかが、ウォーレンさんの逃げ道を失くしてしまおうと働いてしまいます。愛しさ感じてそれをちょっと、あくまでほんのちょっとですが虐めたくなるなんて。いつか誰かがそんな感情を抱いたと言っていた気がします。

「そう、だな……確かに、私がした質問だ。私が答えられないのでは筋が通らないだろう」

 徐々に甚大に捉えられてしまっていることに気が付き、わたしは良心の呵責を覚えて答えていただかなくても大丈夫ですと言ったのですが、いや、君に対して失礼はできない、と突っぱねられてしまいます。や、やってしまいました……。やっぱり悪いことはするべきではありません。

「……そうだな、その。敢えて考えるなら、だが」

 しどろもどろにウォーレンさんは言葉を続けようとしていました。

「料理が、少し気になっている。簡単なものならどうにかなるが、食事の時の幸せそうに食べる君の様子を見ていると、少し複雑なものも学んでみたいと感じた。ハーツに教えを乞うのもいいのかもしれない」

 思いの他、ずっと可愛らしい返答をいただきました。ウォーレンさんの手料理もいつか食べてみたいです!

「期待に答えられる出来のものが振舞えるかは分からないが、君が望むのなら尽力してみよう」

 お店の場所はどこが良いか、ハーツさんやアルカさんも手伝ってもらえるでしょうか、そもそも何の料理のお店にしましょうか、考えるだけでもわくわくします。

「店を経営する所までは考えていないが……」

 わたしの頭の中ではすでに、リッチな外観の料理店の扉を叩くと、白いコック服を身にまとったウォーレンさんが手塩にかけて作った料理を、わたしがお運びする所まで完成していました。



「ねえ」

 その空想を一時中断するに至ったのは、二人だけだった世界に聞こえた第三者の呼び声です。

「ねえ、こっち」

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