70.
「大丈夫?」
ハーツさんの膝の上、わたしは目を回すような気分の悪さをどうにか和らげようと新鮮な空気を胸いっぱいに取り込もうと必死でした。
「初めてだから仕方ないわよね。まっ、船酔いも経験のひとつってことにしときましょ?」
旅立から数刻。素敵な街に胸を張っての別れを告げてから、わたしは生まれて初めての感覚の波に揉まれていました。せめて別れ際に情けない姿を見せることがなかっただけ幸運だったとも言えますが、これではせっかくの海原の景色を楽しむことができません。
「……と、どう?ちょっとは楽になったかな」
わたしの額と手に触れて、アルカさんが呪文を唱え終えると、下腹部のむかつきと喉元に迫るような異物感は和らいでゆきました。以前から独学で治療に関連する魔法を研究していたと口述していましたのでその成果というわけです。とはいえ万全とまでは行かず、元気もかなり吸い取られてしまっています。
荷馬車に乗るよりも明確な上下左右の揺れがありますが、これでも海は穏やかな方だとのことです。船出のタイミングもかなり調整したそうで、カラリとしたこの晴れ空が荒れる兆しは全くありません。これが雪でも降ってしまった日には船員全員が凍え死んでしまっただろうと簡単に予想がつくだけに、あの滞在の意味が遅れて理解されてきました。それこそ船の上はいとも簡単に雪に閉ざされた街と化してしまうはずですから。
「しばらくは陸地を伝って移動し、その後ベリュール海を横断する際に長期的な船上生活を送ることになる。不便さや辛さも多々あるだろうが、今のうちから少しずつ慣れて、備えとしておこう」
新たな踏ん張りどころということです。気を紛らわせるために別のことを考えることにしました。記憶の中のごちそう達を呼びよせてみましたが、胃の中がひっくり返りそうな今の状況ではむしろ視界の揺らぎと嘔吐感をより強調するものでこの作戦はあまりよくありません。次善策として抱きしめていた本を取り出して現実から文字列の中への逃避を図ろうとすると、
「それはやめといたほうがいいわよ」
没収されてしまいました。どうしてこれほど優しい人にこんな酷なことができるのでしょうか。反抗する意志を見せて本を取り返したかったのですが、その元気も今のわたしにはありません。
「船が着くまでの間休んでましょ」
結局目を閉じて心が安らぐ時間を待つしかないようです。ただ、こんな風に身体が重たいようなときは大抵……。
「……ん、眠れないの?」
身体自体はかなり重く、意識を手放すのは簡単だと思うのですが、こんな時にこそあの夢を見ることが多い気がします。どうしようもなく水底に引きずり込まれていくあの夢。最初に見た時こそ抵抗感や恐怖感はなく、むしろ平然と受け入れていたほどの何ともない夢だったはずなのですが、徐々に生々しさや引きずり込まれていく時の感覚、水の中へ沈んだ後の息苦しさが理解され、今のわたしには至上の悪夢です。できればあんなものはもう見たくないです。
「そう……分かったわ」
ハーツさんは膝に置いたわたしの髪を撫でて、
「起きるまでずっと一緒にいてあげるから。どんな悪い夢見ても、あたしがちゃんと、一緒にいてあげるわね」
夢の中まで駆けつけてくださるのでしょうか。そんな確証もない一方で、ゆっくりとお腹を撫でられると安穏さに全身を包まれて、わたしの心音が眠りのためにゆっくりと拍を打ち出しました。なら、絶対に……絶対に夢の中まで駆けつけてください。
「うん、約束ね」
安眠の権利を得たわたしはそこから想像外に悪夢らしい悪夢と縁遠い睡眠活動にいそしむことができました。起きたかと思えばハーツさんの背中だったり、また起きたかと思えば揺れる船の上でハーツさんに膝枕してもらえていたり。特にその中途の記憶は判然としません。しかし、身体がこの乗り物に慣れるごとに、疲労を感じやすかった身体も体力をつけ、日中も充分保つようになりました。覚醒時間が睡眠時間を追い越して、自由に歩き回れるようにもなります。オマケに、船上での活動範囲が限られているだけに歩くと言っても疲れ果てる程では当然なく、他に身体を大きく動かすこともありません。元気が有り余ると、天上に綺羅星が散らされても少しの間は目が冴えたままでいられるのです。
「でも、大きくなりたかったらちゃんと寝なきゃだめよ?」
「君はまだ幼い。そのうちは充分に睡眠を摂るべきだ」
私の夜更かししたい気持ちに反して大人達はそのように申されますが、それでも睡魔が私に襲いかかってくれないならばどうでしょう?できないものはできません。眠れなければ眠らないのも選択の一つでしょう。
暗闇に閉ざされていく世界のことについて、わたしが知ることはクローゼットに閉じこもったあの冷たい夜のことが主です。拠って夜の世界のイメージはあまり良くありません。しかし、あの肌を刺した冷たさも記憶から遠ざかった挙句にはこの船の上の小さな世界に斯様な孤独感も同乗しているはずがありません。
明るい夜という言葉は背反を孕みますが、それでもまさに星の明るい夜でした。そんな夜にわたしの目が醒めてしまったのはただの偶然と考えてもよいのでしょうか。船室のベッドで上体を起こしてみれば、隣のハーツさんはわたしとアルカさんのお腹に腕を置いて寝息を立てています。寝姿を見ることなど今後はないかもしれません。初めて見る顔。わたしはいつも先に寝てしまって最後に起きる方でしたから。すると、わたしの心臓にこの暗い世界を探索する好奇心が芽生える事は自然ではないでしょうか。
ならば、船室のドアを開けて廊下を歩いたこともきっと自然なことなのです。強くなった海の匂い。長く間延びした波の音。木床を靴で鳴らす音だけがあまりに響くので、何かへの警戒を兼ねてわたしの歩みは途端に慎重になりました。隣室の扉を開きます。
「……起きていたのか」
ウォーレンさんは、わたしのことを待っていたようにベッドにも付かず、銃器の手入れを行っていました。
「眠れないのか」
わたしは首を縦に振ります。このまま夜明けを目指す気もなく、ただ、身に余った元気を消耗するための小さなお散歩をしているという意図を理解してもらいたいです。
「そうか」
ウォーレンさんは銃を仕舞うと、
「なら、私も付き添おう」
と。
2025.07.26 一部改稿




