55.
お仕事帰り、ハーツさんとアルカさんの側で用意があったのはまず、落ち葉と手ごろな大きさの石で組まれた焚き火でした。日落ちのこの時間を見越しての用意です。丸木の椅子も一緒にありますがどこから調達したんでしょうか。
「へっへーん!サバイバル生活の知識が役立ってるってやつだよ!」
目を離していた間に背がかなり伸びたと思ったアルカさんがぴょんと飛び降りた足元には、それまでの経過年月を思わせる丸く太い切り株が堂々佇んでいます。胴体一本、丸々が設営に活用されたと目されました。
「正直、斧の一本は借りてこようかとも思ったんだけど、アルカのお陰で手間が省けたわね」
「クロル君も切り落とした木を支えてくれたり手伝ってくれたんだ~!」
拠点に戻るたび、何かしている様子はちらちらと見ていましたが、かなりの大工事だったようです。お手柄を褒められたドラゴンは得意げに低く響く息を吐きました。わたしもその現場に立ち会いたかったです。
「転移魔法の方の進捗はどうだ?」
「あ、ちょうどそっちの話をしたかったところだったんだ。さっき確認したら解析が終わっててさ。それで……」
アルカさんは焚き火の中心から少し外れたところを示します。落ち葉を除けて作られた場所には土の上にそのまま、円形の複雑な幾何学模様が白石膏で描かれています。そこかしこに奇妙な形の文字の列が散らされえおり、その一つ一つに関係をつけるように線が入り乱れています。この時点でも既に模様として十分に整っているようには見えます。が、しかしわたしが直感的に見るにこれは、
「まだまだ描きかけでさ。向こう側の準備と調整も合わせて考えると思ったより時間かかりそう」
「具体的には?」
「十日かな。……いや、調整がスムーズに進めば六日ってとこ」
ウォーレンさんは小さく頷いて、
「申し分ないだろう」
しばらくの間はクロルさんの力で物資を持ち帰って、魔法の扉が開通すれば根本から解決です。
積荷は充分ですが、夜の視界での行動は危険を伴います。もちろん、この空で巨翼の行く手を阻むものがあるとは思えませんが、一夜の時間ならば急ぐまででもないです。アルカさんが人除けの魔法というものを拠点に使ったそうで、今晩この森のこの場所はわたし達が私有したも同然とのことです。クロルさんも安心して眠れます。暗くなってからも白石膏で引き続き魔法陣に文字や図形を書き加えたり、利き手をペンに持ち替えて手元の紙束に文字を書き加えたり。そんなアルカさんの作業を灯りの係として松明を持ったハーツさんと並んで漫然と見つめていましたが、それもどうもわたしとしては長続きせず、その辺りをぽつぽつと歩き回った後に焚き火の側に戻ってウォーレンさんの隣に座りました。
「まだ掛かりそうか」
わたしはコクリと頷きます。お夕食に、と携帯食はもういただきました。火を消してみんなで眠るような時間ですが、本日中、ベリルマリンへの帰路に着く前に、区切り良く済ませておきたい仕事をアルカさんが一生懸命進めています。もうちょっとで終わる……そうなのですが、私自身、紐もなく竜首に跨った様にぐらぐらと、限界が近くなってきました。
「明るいから中々寝付けないかも知れないが、眠りたいならば、先に寝てしまっても構わない」
首をぶんぶん振って眠りの誘いに反抗します。眠る時は皆さんと一緒に……。そうか、とウォーレンさんは呟きましたが、少しわたしの様子を見て、
「……ほら、マリー。ここに来なさい」
ウォーレンさんは自分の膝を叩いてわたしに促します。魅力的な王女様の席です。わたしが自ら動く必要もなく、両脇から抱え上げられて浮いたわたしの身体は、木屑がパチッと爆ぜる焚き火を見つめるウォーレンさんの腕の中に収まりました。
「今日は疲れただろう。まだ起きているにしても私に寄り掛かって身体を休めていなさい」
そう言われると、魔法のように全身の力が抜けて深く腰を落としました。こんなに安心できる場所も多くはありません。ハーツさんのお背中にだって匹敵します。胸の鳴りがゆっくり、穏やかになってゆきます。眼の中を揺れる火煙、火煙が目指した濃紺の空、空に遺された星々は新たな日の出を待っているのでしょうか。……いつか、わたしの記憶の始まりに在るあの火とお肉のピリリとした味を思い出しました。
「どうかしたか」
何でもないつもりでしたが、もしかしたら、疲れている中で上機嫌そうに見えたのかもしれません。
「……そういえば、ベリルマリンを出発する前にお願いされていたこれだが…」
ウォーレンさんは自分のコートの中から本を二冊取り出します。そのうち一冊は特に大切なものです。もう一冊もたぶん大切なものです。わたしはその両方を受け取って大切にするように抱き込みました。雪の中では濡れてしまうからと自室に置いていましたが、こんな遠出の際に置いてゆくのは不安です。ページを送ると、この暗闇の中でも蠢くような橙光に照らされ、文字も……読めなくもないです。
「君もずっと手荷物にするのは大変だろうから、普段はわたしが大切に預かっておこう」
ありがとうございます。わたしは、めくりすぎたページを一枚ずつ戻して、お気に入りの場所を探します。ウォーレンさんと一緒に読んだ場所や自分ひとりで頭を抱えていた場所を流し見ながら更に更に送って、言葉の波の中にわたしは囚われてゆきました。
「気に入って大切にしてもらえて、その本もきっと喜んでいることだろう」
もしも本に心があるならば……いや、本当に心はあるのでしょう。でなければこんなに暖かくはありません。
「……眠れるようになるまで読み聞かせてあげようか」
はい、お願いします!ウォーレンさんの腕はわたしの本を取り、ページを決めて、そして文字の一音一音が優しく静かに耳に届き始めました。独りで読んでいた時は聞こえなかった音。わたしとウォーレンさんの、この場所の時間の流れを遅くしてゆきます。
そこからわたしがどうやって眠ってしまったのかは不鮮明な青で塗ったように覚えていません。ただただ、天井もない濃蒼の森でぽつんと、ちらちら揺れる炎を一緒に眺めながら、大切な人の腕の中で。




