46.
ハーツさんのこんな表情は初めてで、それこそドラゴンの怖さなんて引っ込むくらいでした。ただ担いで連れて行ってくれるだけ……そんな風にはどうしても受け取ることができませんでした。押し殺された黒い心が、澄んだ瞳孔と震えた唇から伝わります。スタスタとわたしのもとに近寄ってきたハーツさんに、何を驚いているのかもわからないままわたしは片手を突き出して簡単な通行止めを示します。
「え、どうかした?」
一番の怖さは、ハーツさんがその黒い心に無意識に従っているようだというところでした。取り乱していた思考をゆっくりと組み上げていき、そうすることでこの今のハーツさんに聞くべき大切な一点を問い質します。
「その子をどうするつもりか、って……?」
わたしは腹ペコ元ドラゴンの腕を引っ張り上げて手繰り寄せます。わたしの元を簡単に離れないように。ハーツさんはわたしの質問とわたしの通行止めからひとつ帰結を出したようで、
「……えと、その。帰してあげるの、その子のお家に」
自分の腕をさすりながらハーツさんは答えました。わたしの耳に小さい雑音と高く刺す音が混ざります。直感に相当する聴覚反応ですが、そんなものがなくても簡単に推測できるくらいです。わたしも見くびられたものです。
「マリー……?」
両手を広げて立てば、ハーツさんの進路は断たれました。わたしの明確な通行止めの意思表示はまず間違いなくハーツさんに伝わるはずです。
「マ、マリーちゃん……」
アルカさんも元よりこの子に関連する事情を理解していたということでしょうか。忌避的で弱腰な態度には実は相応の理由が持たされていたのかもしれません。
「……」
ハーツさんは、少しずつ目の色を濁らせて、
「そうよね、賢いもんね。ごまかせないわよね」
わたしを貫くように見つめました。通せんぼうのわたしは場合によってはこの眼光に打ち抜かれて再起不能となっていたことでしょう。しかし、運良くレンガ片の足場はわたしの踏ん張りに耐えてくれました。
「マリー」
この子に何をする気ですか。
「ドラゴンはホントに危険なの。マリーは優しいからお友達になりたいって思ってるかもしれないけれど、手遅れになる前にすべきことはしなきゃいけない」
そんなことは訊いていません。何をする気かと聞いているのです。
「いちいち言わせないで。ね、マリーは賢いんだから分かってるんでしょ。お願いだから言うことを訊いて」
わたしに言えないのなら、悪いことだという認識があるわけです。あなたのその手を取れば、わたしも悪事に加担したことになります。
「ねぇ、マリーお願いだから……」
何度言われても―――
「マリー!!」
身体が強い叱声に反応して跳ねます。何重かの服の内側でも、胸のあたりが焦りでのたうち回っているのが感じられます。瞳が開き、こちらを見るハーツさんは、いつしかわたしと約束事をしたときと同じくらい真剣で、しかしあのときよりもあまりにも目の奥に暗い光を含んでいます。でも、退けません。わたしがハーツさんに意思共有を命ぜられたのなら、ハーツさんもわたしに意思共有すべきです。そして、その意思が間違っていたら咎めるべきです。大切な人だから。
私の両の肩に手が乗りかかります。力は入ってないのに重く、心が揺れればわたしを簡単に倒してしまうことでしょう。
「強い言い方、したくないの。どいて」
最後通告です。そもそも身体をひょいと持ち上げられて終わるこの一連です。わたしに論駁上の勝機はありません。それが大人とわたしにある差なのだと感ぜさせられます。でも状況が好転する予感もないのに腕を下ろせないのは、目の前のこの人が、大人ではなくハーツさんだと信じているからです。
「ハーツ、居たか。すまない、海を探したが……」
さらに一人増えます。
「こちらにいたのか」
ウォーレンさんには二度手間を取らせてしまいました。しかし今はそのことを棚に上げてしまいます。こっちにいたのか、と呟いて、
「……なんだ。どういう状況だ、ハーツ」
「ウォーレン、あんたからも言って聞かせて。この後ろの子は……」
ウォーレンさんが自然とわたしの方を見ます。ウォーレンさんであっても例外はありません。広げた腕を気を緩めて降ろしてしまわないようにまた伸ばします。ドラゴンがどんな生き物なのかは知りませんが、関係ありません。
「マリー」
大人は通せません。悪い大人なら、尚更です。ウォーレンさんが、わたしの前へ、ハーツさんと代わって立ちます。踏み乗ったレンガが乾いた高い音を立てました。荒い動悸がわたしを揺すり、眼前、強い無力感を感じます。風前の灯火とは、比喩ではなく現在のわたしのことです。
左肩に手がかかります。その手にわたしが連れてゆかれないよう、必死に堪え……。
「大丈夫だ」
ウォーレンさんはそれだけ言いました。その言葉だけで、わたしの冷や汗は簡単に引っ込みました。抑揚もないその一言で、張り詰めて伸びきっていたわたしは両の腕を少しずつ降ろし、肩のその手にゆっくりと従いました。
大丈夫、なんですか。それだけ聞くと、やはりウォーレンさんはうんと頷いて、少年の様子を確認しました。顎を軽く持ち上げて顔を覗き、額に手を当て、首元を撫で上げて、
「成程」
そして、腰に手を回して肩へ担ぎ上げました。
「食事は今日の私の分を充てよう」
「はぁっ!?」
戻ろう、とウォーレンさんはわたしの手を引きます。ハーツさんと一緒でわたしもその行動が飲み込めないのですが。
「どうした?……もしかすると、彼の親もまだ居るのか」
そういうわけではないのですが……。
「待ちなさい!」
不満のある方がいます。わたしと不満のぶつけ合いをしていた方です。ナイフの切っ先を向けられると、歩みが止まります。
「どういうつもり?」
「何だ」
「わからないの?その子は……」
「竜種だろう。気道の側に竜鱗を確認した」
「そうじゃないでしょ!起きて暴れたらどうなるかわかってるの?子どもだからって安全なんて、そんなこと全然ないの!」
いつになく、今までになくとても感情的で、黒を湛えたままに瞳孔を揺らし、訴えかけます。
「それこそ、マリーだってこの子に殺されるかもしれないわ。今すぐじゃなくても、成長して大きくなったヤツに消された街だってアタシもいくらでも知ってる。アンタも流石に知ってるでしょ?なら今からでも……」
「抑々」
遮ってウォーレンさんは続けます。
「私はマリーを護り、そして、マリーの世界を護る。後者は先日になって頼まれたが」
わたしを見て、
「この子も、マリーが護って欲しいと言うその世界だ。もしも結果マリーが危険に晒されたとして、それからも私が救い出す。端的にはそんな契約だ」
改めて詳述し整理されるとかなり理不尽な契約です。我が儘な契約者は少し反省しました。
「アンタ、ふざけてんの……?」
ハーツさんは声が震えていました。
「手遅れになってからじゃ遅いのよ!ちゃんと考え――」
「君こそ、冷静になるべきじゃないか?」
ウォーレンさんは鋭い目でハーツさんを突き刺します。
「君の言う敵とはこの小さな少年が一人、それもかなり疲弊した状態で戦意もない。それを君は保険で殺すのか」
「それは……」
珍しく、ウォーレンさんが言い争いで勝ち星に近付いていました。
「でも、だけど……!」
「安心しろ。もちろんこの街もマリーの世界の一部だ。何があっても私が全力を以て護ろう。それに君もいる。アルカにも少し手伝ってもらえればその上はない」
「……」
押し黙って、心の中の痒いものを取り出そうとしてハーツさんは髪を掻きむしりました。唇を噛み千切りそうなくらい歯を立てて、瞳を揺らして、手のナイフが揺れて、
「だぁぁーもうっ!こういう時に限ってホントよく口が回るわよね!」
それは、褒めているのか?と尋ね返していましたが、回答は得られなかったようです。
「……分かったわ。でも、街の真ん中に連れてくのはどうしても反対。食べるものはこっちに持ってくる、アタシとアンタの二人で常に監視しとく。それでどう?」
「マリー、どうだろうか」
落とし所としては充分でしょう。わたしは首を縦に振ります。ハーツさんは腕を擦って足元を見ています。




