100.
部屋の隅の備え付けのお水を注いでくださり、ウォーレンさんから受け取って、わたしはそれを口に含みました。冷たさがゆっくりと頭に染み渡り思考も落ち着いていきます。それだけで呼吸も心も平静を得られてしまうのですからまったくその点は都合のよい身体です。ウォーレンさんはわたしの背中をゆっくりと擦ります。
「肉体的にも精神的にも、疲労がかなり溜まっていたのだろう」
コップに半分ほど残った水に、月明かりが緩く反射し揺れていました。震え動く水鏡。……同じ。色こそ無色透明でも、あの大きな水溜まりと同じです。わたしはあの悪夢の面影を思い出しましました。所詮は夢の中の虚ろ話。肝心の内容だって無意味な思索を続けていたというだけで、こんなものを話題に照らしても何にもなりません。
「……大丈夫か。気分が悪いだろうか」
というのに、ポロポロと口から零したくなって、そうしてわたしは夢の中の顛末をウォーレンさんに打ち明けました。本当に、言葉を発するというよりは吐いて零れ落とす様に話しました。わたしが大量に積み重なったあの光景のこともです。
「……」
ウォーレンさんは黙ってそれを聞いて、
「怖かっただろう」
それだけ言いました。私もそんな感情に陥ることがある、とおそらく当たり障りない励ましを貰い受けて、やっぱり話しただけ困らせるばかりだったと少し後悔しました。わたしが真っ当に人間なら、あんなものを見てもまがい物だと断じることができたのでしょうか。ただ不快さのある夢でしかないと相手にせずに済んだのでしょうか。こんなことで困らせてしまいたくありませんでした。
「……一つだけ、断言させてほしい」
わたしは顔をあげてウォーレンさんの顔を見ます。黒色のマスク越しにわたしの眼をじっと見つめていました。
「誰が何と言おうと、君がどれだけ自信を失っていても、君は紛れもなく人だ。生まれの由縁も体躯の特質も関係ない。立派に、ただ一人の人間だ。わたしはそう思っている」
けれど、これだけ真摯な眼差しを向けられても、わたしにはその言葉を鵜呑みにするほどの純真さが足りないようで、だからわたしはその目から逃れるようにまた顔を伏せてしまいました。わたしのことで心配させているのです。どうしてこんな簡単な折り合いをつけられないのか。気にかけてもらうまでもなく大丈夫ですと、眠りにつく前は言いました。言ったのです。でも、このままでは一番引きずっているのは自分自身です。ならば、心優しいわたしの大切な友人達がわたしの心を憂うのは当然じゃないですか。早く、早く、もはや忘れ去る。それが一番いいんです。
「……また悪夢にうなされるのが怖ければ、しばらく私が話し相手になろう。二人が眠っているし小声にはなるが、眠気が来るまで傍に居よう」
ウォーレンさんが毛布をかけるのに合わせて、わたしはベッドに横になります。考えたくないことを頭から追い出すためにも、わたしはウォーレンさんと暫く、ぽろぽろとお喋りをしました。具体的にどんな話をしたかは、明瞭ではありませんが、旅の話を思い出すような話だった気がします。そして、ちらちらと過る気味の悪い煤煙がどこか立ち消えて、わたしの意識がまた、ゆっくりと眠りに誘われていくころに、ぼんやりとウォーレンさんが、何か不確かにこう言った気がしました。
「……いつか君に、本当のことを話したい」
翌朝、わたしの目醒めは朝を通り過ぎて昼に近い時間でした。夜中に一度起きてしまったのが祟ったのでしょう。朝方の冷えて澄んでいたであろう空気は、日が空の中腹に差し掛かってしまったことで暖かさを抱えています。快適というよりはもはや起きることを強いられていると言えて、気分の良い目覚めとは言えません。
「おはよ」
頭だけがまだはっきりしない状態ですが、隣で椅子に座っていたハーツさんに挨拶を返します。わたしが起きるのを待ってくれていたようです。朝ごはんの時間ももう過ぎてしまっているでしょう。先日はわたしがハーツさんを起こす側でしたが、今日は逆になってしまいました。
「ウォーレンから聞いたけど、昨日はよく眠れなかったのよね」
わたしはこくりと頷いて、けれど、身体はむしろ眠り過ぎて元気なくらいでした。思考だけがやや判然としないだけです。部屋を見るとアルカさんとウォーレンの姿が見当たりません。わたしとハーツさんだけです。
「二人ともオスカーさんとこ。マリーが寝てる間に呼ばれたの」
呼ばれた、ですか。何か問題があったのでしょうか。不測の事態とか……。
「うーん、そんな感じじゃなかったし、多分不安に思うことないわよ」
成程。それはそれで少しピンときませんが、アルカさんはオスカーさんの蔵書に興味を持っていたようでしたのでその関連かもしれません。アングレカさんのお話にもありましたが、もしかしたらお弟子さんとして魔法を教わっているのかもしれません。
「かもね」
わたしはアルカさんのことを考えました。思えば彼女はずっと、わたしの魔法に惹かれてこの旅に同行してくださっています。帰る宛と呼べるあの村ももはや遠くに感じます。彼女は……彼女はこれからどうしたいでしょうか。オスカーさんの願いとアルカさんの想い。二つを透かし重ねると、わたしはその間に一番都合のいい答えを見つけたような気がしました。一方、わたしは……わたしはこれから何をしましょう。魔法使いとしてオスカーさんに一緒に弟子入りすると、自分の正しい居場所を考えるためにさらなる旅を続けるか、あるいは……わたしではなくウォーレンさんの御心に従ってみるとか……。
「さっ」
わたしの思慮は、非常に簡単な発語により中断されます。
「少し外を歩かない?そしたら頭も起きてくるでしょ」
これは提案でありわたしが首を縦にふるための時間が確保されているべきでしたが、手を取られて引っ張られると、為されるがままにわたしはベッドから立ち上がるしかなく、それが肯定の意味として受け取られてしまいました。
「行きましょ」




