99.
ここはどこか、そう考えることすらわたしは辞めていました。周囲を観察。人影どころか物陰すらありません。しかし夢の中だとしたらこの観察も特に意味のないものかもしれません。今は無駄なことをあまりしたくない気分でした。
さっと流していましたが、服装が眠った時のものから明らかに変わっていました。薄い布一枚が人間が服だと認識して着用可能な形に切り取られたような程度。所によっては小さな穴も開いています。見覚えの記憶を辿っていけば、わたしが一番最初に着ていた服がこんな感じだったかと思い起こしました。いや、ここまでボロボロの服でもなかったようにも思いますが。
水嵩は足首くらいまであり、足を動かすのは負担にならない程度ですがちゃぷちゃぷと水が跳ねるくらいです。足場の透明さから水の上に立っているような感覚を覚えます。そのくせどうしてか濡れることはありません。水に触れた油の気分はこんな感じなのでしょうか。
これまでの夢の結末を思い出します。『彼』に会ったあのケースは特殊として、他は二回。共にわたしの足元の水が溶け出したようにわたしを飲み込もうとして、そして、その底に沈んでいたもぞもぞと蠢く何かに飲み込まれて終わる。きっと今回も。わたしは足元の水の先を見つめますが、透けた緑青でも底の底はやはり見えません。わたしを食べたいならとっとと食べればいいのに。前は飲み込まれることを怖がって抵抗もしましたが、夢が終わるならさっさと受け入れてしまった方が気楽でもあります。
何もない空間、何もない場所。わたしは濡れてしまうことも気に留めず、というより濡れてしまわないからこそ気にもせず、お尻をこの大きな水溜りに付けて座りました。代わり映えもなければただただつまらない空間です。何に向かってかもわかりませんが急かす言葉を空気に投げつけました。何も起こりません。
地面に広がる水、あるいは水のような液体。これもわたしの正体に関わっているものなのでしょうか。そう考えるとこの色は何か不思議な実験の材料として打ってつけであるように思います。アルカさんが小瓶に入れて持ち歩いていそうな。いつしか出会った、薬品に詳しい魔法使いの男の子が調合していそうな。両手で受けて掬い上げます。指の間からこぼれながら、透かした緑青色を取り出すことができました。魔法の世界では、この水とわたしの扱いは同等です。親戚の親戚くらいにはいるのでしょうか。そう空想したところでここが夢の中であることを思い出しました。
掬い上げた緑青色の親類を開放して、両手を付いて水面を見ます。こうも何も起こらないとまた、わたしの頭の中に煤煙を立てて何かが入り込んできます。痒み、またはそれ以上の煩わしさを起こす頭の中の塵を払いたくて、わたしは髪を搔きむしります。何か、何か無性に気味が悪い。自分の内側が何か無性に気味が悪い。いやいや、結局、わたしの身体のことなんて、いくら考えて駄々をこねてもどうにもならないのです。ならばとっとと気持ちとして受け止めてしまうべきです。そうするべきなのに、どうしても、頭の内側に蟲が集っているように感じます。出来の良い五本の指も、生命が抜けたような白い髪も、全部、全部、何か嫌だ、いやだ、いやだ。
空間を揺らす轟音がわたしの頭の中の歪みを是が非と止めてくれました。足元の水が吸い込まれるように動き出します。しかし今回は足場まで崩れることはありませんでした。水嵩は減り、浸かり切っていた足先が現れます。水の流れに呼ばれるように、わたしは立ち上がってその方向へ歩きます。先ほどと比べれば不快さや気味の悪さは落ち着いていますが、それでも気持ちが万全というわけでもありません。第一こんな生気のない場所にいるから心が滅入ってしまうのです。とっととおさらばしましょう。
水位が一切変わりません。どこかで水が完全に引き切り透明な床が姿を見せるかと思っていたのに。それがある所から少しずつ流れに角度が付き始めました。先を見れば、その終は滝と殆ど変わりません。流水の中と思えば進むにはあまりにも危険であるはずですが、不思議と水はわたしの足首を引きずり込もうとはしません。もはや深い懸念も不要でしょう。ただの夢です。
進みすぎて転落なんて、そんなおまぬけをしてしまわない場所で立ち止まり、わたしは滝底に目を向けます。水が溜まってるかと思えばそうでもなく、底の底の方に、何か……ある。流水に叩かれています。蠢いているようにも見えますが、生き物なのか何なのか。わたしを飲み込んだ黒い塊の正体か、あるいはまた別のものか。
目を凝らしてみると、大きな一つの塊というよりは何かが大量に積み重なって山になっているものと思われます。何でしょう、砂山というわけでもありません。丸太くらいの大きさの白い何か……何かが折り重なっている。足を踏み外して落ちないよう注意し、目を顰めます。もう少し近く……。
あれは……あれは、全部……。
わたしだ。
信じられないほど胸が激しく動悸しています。天井は、あの忌々しい青から最後に見た天井の模様に変わっていました。頭は冴えても未だ部屋は暗い。身体を起こすと、毛布が身体からずり落ちました。
「んっ、うぅん……」
隣から寝息が聞こえます。アルカさんでした。起こしてはいけないと思い、物音を立てないよう気を付けていると、部屋の奥、月光の届かない扉の前から、誰かがわたしに気が付いてベッドに近づきます。目覚めに判然としない視界がゆっくりと光を取り込む毎に、ベッドの隣に立った彼の正体を認めます。
「目が覚めてしまったか」
ウォーレンさんです。わたしに聞こえるくらいの小声です。
「悪い夢を見てしまったか」
わたしは、ひとまずこくりと頷きます。
「そうか」
ウォーレンさんはわたしの髪に手を当てて、
「安心しなさい、君はもう夢から覚めている」
その言葉だけでは、夢か現実かは区別できないものかと思いますが、せめて安心させてあげようというウォーレンさんの気遣いでしょう。その気遣いを無駄にしたくない気持ちでわたしは自分の心を落ち着くことを期待して、実際に、胸を裂くような強い動悸は徐々に収まっていきました。しかし、最後に見えたあの光景は、わたしの目の奥底に強く焼き付いていました。




