期待はしない。
「全く、今更何を言っているのかしらねぇ」
心底バカバカしいという顔をしているのは、ジュリエッタの同僚であるアンリ女史だ。
ジュリエッタは今17歳という年齢だがすでにこの図書館に勤めて3年ほど経っている。普通の女性ならば学園に通っている年頃だが、実家が当てにならず幼い頃から学園の寮に1人で放り込まれていたジュリエッタは持ち前の学力で学年をスキップしまくり、14歳の時に念願だったこの大図書館に就職した。
実は卒業前の最後の試験の時、1年間首席の座を争っていた王太子に直談判し、「この大図書館に就職させてくれなかったら卒業試験に手を抜いてギリギリのラインで卒業します。今まで首席を争っていた年下の少女が最後の試験で急に点数を落としたら周りの皆様はどう思われるでしょう?」「くっ!!この卑怯者!!」というほのぼのとした交渉を経てこの図書館への就職を実現させた。
早く自立&この図書館に自由に出入りする権利が欲しかったジュリエッタは使えるコネは全て使う派だった。
ちなみに最後の試験は意地で王太子が勝利した。とても僅差だったがそれでも勝った王太子は、この就職先の斡旋と引き換えに婚約者のオリヴィアの相談役になるように要請された。オリヴィアは年上だがジュリエッタのことを可愛がってくれた方だったのでジュリエッタも抵抗なくそれは受け入れた。
今でも月に1回は必ずお茶会をするし、必要とあれば月に何度もオリヴィアのもとを訪れたりしている。
だがそれは同じ図書館で働く人たちには秘密のことだった。
大図書館ではジュリエッタはただの司書として働いている。王太子からの斡旋も表向きは可も無く不可もない家からの紹介という形にしたので、大図書館を管理する文化庁の長官くらいしか知らない事実だった。
ジュリエッタは本に触れるのは好きだが、仕事中は与えられたことを淡々とこなし、早く仕事を終わらせて本を読みたいだけなので当然出世にも興味はない。
それは目の前で図書館の館長の言葉に呆れている女性も同じだ。
というより、もはや遅いのだ。
アンリ女史は40歳くらいの女性で、この図書館に長く勤めている。結婚はしているが子供がいないので時間に縛られることもなく毎日一緒に仕事をしているのだが、女史はすでに出世に興味を失っていて、つい最近、自分の趣味で調べていた幻獣たちの詳しい解説図鑑を作り、出版されたばかりだ。
最近は働く女性が多くなってきたとはいえ、出世は男性重視なのが現状だ。それはいくら上が言ったところで直らない。推奨しているはずの国にしたって重要なポストは男性ばかりなので説得力はない。
アンリ女史はこの大図書館に就職して長く、知っている人からみれば館長よりよっぽど仕事が出来る女性なのだが、男性と身内しかひいきしない館長にあきれ果て、そろそろ辞めるかどうするか真剣に迷っていた。
ジュリエッタはそんなアンリ女史に出版業界の人間を紹介し、アンリ女史の幻獣への尽きぬ興味を図鑑という形で世に送り出したのだ。
アンリ女史からは大変感謝された。収入源が1つしかないという状況から脱したアンリ女史は大図書館の仕事は真面目にやりつつその気になれば辞められるという立場になったのでずいぶんと気が楽になっていた。
そんな中、館長が急に朝礼で変なことを言い出したのだ。
「出世する為には、一人で仕事をこなしてミスのないように。それは女性だってそうだ。そうすれば上に行けるんだ」
その言葉を聞いて、アンリ女史は心の中で
「いや、アンタ、出世は男性限定でやってきたことじゃん。ってゆーか、今までは男性だったら能力なくてもどれだけミスしても年数経てば上げてんだから何を今更言ってんの?それにアンタ、今までさんざん女性の司書は替えの利く存在だ!って私たちの前で言ってたじゃん。それにアンタ、1人じゃ何も出来ないじゃん」
と無表情で思っていたのだそうだ。
大図書館の館長は年配で、口ぐせが「~してやった」という、いかにも恩着せがましいことを言う人だ。本人にそこまでの能力はないのだが、良いとこの出身者ということで優遇され館長になった人で「お前らと違って俺は何でも出来るんだ!」と豪語して部下に散々お膳立てと後始末をさせている。
使った物を元あった場所に戻さないし、なぜか花を生けてある花瓶を毎回、柄がない裏面や横にするので常に花がおかしな方向に向いている。始めは気が付いた誰かが直していたのだが、最近では誰もが放置している。花瓶はそのうち一回転して真正面を向くのでそれまで待つか、というのが共通認識となっている。
そして、何かある毎に口先だけで嘘を並び立てるので、聞いているとだんだん話の辻褄が合わなくなっていき、あからさまな嘘だと誰もが理解出来るのになぜか本人の中ではその嘘が本当の出来事になっている不可解な脳の持ち主だった。
さらに、男性しか地位を上げない人物としても有名だった。
アンリ女史の中に最初の頃にはあったがんばって出世したいという気持ちはすでに遠く彼方へ消え、もはや自分の趣味に時間を費やしたいと願っていた。先輩たちを含め、女性は誰1人として今まで出世していないのに、何を今更。それに定期的に館長は「給料を上げてやりたい」「でも予算がない」と言ってお気に入りと身内の給料だけ上げているのを知っていたのでこの館長の言葉には信頼性が一切なかった。
「アンリさん、館長、また変なことを言ってましたね」
「そうね、ジュリ。本当にする気がないのによく言えるわよねぇ。不思議なんだけれど、こっちが見限って離れていっているのを知らないはずなのに、ものすごいタイミングで急に歩み寄ろうとして来たわね。気持ち悪い」
アンリ女史は出版したおかげで多少なりともお金が入ってきていたので、職場に対しては最低限今の給料を維持して早く帰宅させてくれればいいや、程度の思い入れしかなくなっている。
もちろん仕事はやるが、出世させられて拘束されるのは嫌なのだ。下手に役付きになって精神的苦痛を味わうくらいなら、家に帰って好きなことをしていたい。その方がストレスの為にも良い。
「否定出来ないですね。アンリさんが離れていっているのを感じ取ったんでしょうか」
「あの勘はすごいわよね。今までいろんな機会があったのに、まさかの見捨てた瞬間だものね。さすが勘だけで生きてきた男は違うわね」
良いとこ無しの館長だが、勘と運と媚だけで今の地位にある人なので変な勘が働いているようだった。
「ジュリはどう?出世したいの?」
「いいえ、私のモットーは『仕事と家庭は私がいなくても回っていく』ですから」
「……見事に自分を蔑ろにしてる言葉ね」
「でも事実でしょう?」
「否定出来ないところがイヤねぇ」
事実ジュリエッタの家族は彼女を蔑ろにして幸せそうだし、就職先のこの大図書館でもジュリエッタは下っ端の仕事をずっとしている。給料は生きていけるくらいはあるが贅沢は出来ない。代わりはいくらでもいる、そう言われているのだ。
「その年齢にしてその達観した精神はどこから来るの?」
まるで年を経た神官の言葉のようだ。確かにアンリから見てもジュリエッタが本以外に執着している姿を見たことがない。多少は洋服やバッグなどのお気に入りはあるがそれだけだ。
「うーん、長年の経験??ですかね」
「長年の経験って……そこまで生きてないでしょう?」
「そうかも」
ふふ、と小さく笑って誤魔化したが、ジュリエッタには前世があるので今の年齢よりは経験値というものを持っている。
ジュリエッタの前世はそこそこ都会でそこそこ田舎という場所で生まれ育ったごく普通の女性だった。
ジュリエッタの前世の女性が生まれた時代は、ちょうど中間期みたいな時代だった。
世の中は男性だけでなく女性も働いていたがまだまだ格差は多く、祖父母の世代は嫡男至上主義、父母はそこまでではないがやはりまだまだ長男という存在が大切にされていた。そんな中、そこそこ田舎で2人目の子供として生まれたジュリエッタは微妙な存在だった。一応、長女であるが上に兄がいたので何事もあちら優先。同じ女性ということで祖母と母的には多少蔑ろにしても良い存在だったらしく、自分たちもそうだったのだから、というような扱いをして見事に嫁姑戦争を幼い頃から見せてくれた。
おかげで子供のジュリエッタが描いた絵は黒一色で塗りつぶされていたらしい。
そもそも名前だって祖母は生まれてすぐに亡くなった自分の娘の名前を付けようとしたし、それに反対して母が付けた名前も若くして亡くなった母の姉からとった名前だった。
ある日、墓参りで墓石の後ろに刻まれていた名前でそのことを知った時は「どっちにしろ早死にしろってことか」と呆れて呟いてしまったほどだ。
そして死んだ年齢も30歳はいっていないと思う。
別にトラックにぶつかった思い出もないし病気の思い出もないので、心臓発作でも起こしたのかも知れないが、何にせよ早死にはした。
まぁそんなこんなで前世から割と蔑ろにされて生きてきたので今世で蔑ろにされたところで全く平気だった。前世も出世とは無縁だったのでそこそこの生活が出来れば問題はない。
唯一問題があるとすれば、前世の異世界の記憶持ちなのをいかにして隠すかということだけだ。
平々凡々に生きて来たのにここに来てまさかの特殊能力持ちだった。
「いつかジュリを一番に想ってくれる人の出会うといいわね」
「うーん、今のところいらないです。それにきっと最初は良くてもすぐに私は二番以下に下がりますよ」
「決めつけはダメよ。ジュリのこと、ずっと一番に考えてくれる人がきっといるわ」
「じゃあ、期待しないで待ってます」
アンリの言葉にジュリエッタはそう返した。
誰かに期待しない生活の心地よさを知ってしまっているジュリエッタはアンリに曖昧な笑顔を見せるだけに留めた。
そう、ジュリエッタは知っている。
期待しなければ、絶望することもないのだということを。