第七話 不可侵の書架
意識はまばらだった。目が覚めているような、夢の中にまだいるような。現実とまどろみの間を何度も行き来しているような感覚だ。眠っていたわけではないのに、遠い昔の夢を見ていた気がする。
自分の身体を起こし、辺りを見回すと、そこには無数の本が並んでいた。
一瞬、大きな図書館かと思った。自分がもともと暮らしていた世界のどこかにある図書館。
でも違う。この異様な雰囲気は、どうやら現実のものではない。
前後左右に広がる黒いフレームの本棚は、俺の身長より遙かに高く、天井と同化しているように見えた。首を90度近く曲げて見上げる。脚立か何かなければ、一番上にある本は取れない。
しかし、高さ以上にこの左右の広がり方が異常だ。本棚も廊下も、左右ともに先が見えない。
棚の後ろに行こうと思ったら一体どれだけ歩かされる羽目になるのか。ここもまた頭がおかしくなりそうな光景だ。
さらにはこの静寂。耳が聞こえなくなったのでは、と錯覚しかけるほどの無音は、かえって居心地が悪かった。
ここが『聖なる書架』なのか?
同じ一日で二度目の神隠し。
それも、元の世界に帰るどころか、更なる異界へ飛んだ。
「あーもう!わけがわからん!ホントに一体どうなっているんだ!?」
俺は一人喚き散らした。
自分の意思とは無関係に生じる別次元へのワープ?
こんな使い勝手の悪い特殊能力があるか?いや、俺に魔法の才能はないと判明したばかりだ。誰かが俺をあちこちに飛ばされている?一体なんのために?
頭の中はたくさんの「なぜ?」で埋め尽くされるが、どうせ考えても答えなんか出やしないことはわかりきっている。
「おーい、マーブル!いないのか?」
神隠しの直前、マーブルが差し出してくれた手を俺は掴んだ。掴んでしまった。そのままの状態でここへ来てしまった。
マーブルはここにいるのか、いないのか。わからない。
これまでの神隠しは周りに人がいなかった。
神隠し現象は俺以外の人も連れて行くのか?考えたこともない。まったくの未知数だ。
「マーブル!!」
いくら大声を出しても、すぐに静寂に包まれる。返事は返ってこなかった。
俺はその場で仰向けになった。
「俺一人だけこんなところに来てどうしろってんだよ……」
身体を大の字にする。天井がかなり高い。学校の玄関から三階を見上げた時くらいの高さはあるかもしれない。地震か何かが起きて本棚が倒れたら、死ぬな俺。
いつまでもこんなことをしていても仕方がない。とりあえず、出口を探してみるか。
少し歩くと、右側の本棚が途切れていて、棚の後ろ側へ回り込める道があった。人一人は通れそうなスペースだ。そこを通ると、また別の本棚が広がっていた。
当てもなく歩いていると、また本棚が途切れている道があり、通るとまた別の本棚が……の繰り返しだった。一体どんだけ本があるんだ?
ゲームのダンジョンのような構造をイメージした。真っ先に頭をよぎったのはループだ。どれだけ歩いても気付かないうちに元の場所に戻ってしまう、そんな不安感はあったが、本棚にある本の背表紙はどれも違っている。
しかし弱った。このまま歩いても出口が見つかりそうにない。
俺はだんだん焦りを感じ始めた。
ちょっと待てよ。
この状況、やばくないか?
このままここから出られなかったら、あと二日か三日で餓死するんじゃないか?
胸の内に広がる不安感に耐え切れず、俺は駆けだした。
本棚の途切れる道ではなく、もっと奥、廊下の突き当りまで行こうとした。
しかし、廊下は長すぎる。行き止まりがなく、左右にはずっと本棚が貼り付いている。
「ん!?」
見覚えのある本の背表紙を見つけて、俺は自身にブレーキをかけた。本棚から本を抜く。
「まさか……」
本棚から本を何冊か抜き、廊下の真ん中に積んで走ろうとしたが思い留まった。本が積んであるだけなら、この道の先にも同じ光景があるかもしれない。そう思い、靴を脱いで本の横に置いた。そしてダッシュする。
本棚の途切れている道から奥へと、本棚の後ろ側への移動はループじゃなかった。
でも、本棚の後ろ側に進むのではなく、廊下をただまっすぐ進むのは?
しばらく走っていると、そこには俺の靴があった。本も積んであるままだ。
思った通りだ。この廊下はループしている。
いや、ループというより、もしかしたらこの廊下は円形なんじゃないのか。
「うーんと……」
俺は頭の中でバウムクーヘンをイメージした。樹木の年輪のような模様に、中心はドーナツ状の穴がある。
もしかして、ここはこういう構造になっているんじゃないか。
廊下が長すぎるせいで意識しづらいけど、実は微妙にカーブがかっているんだ。
俺が目指すべきなのは、どこか。バウムクーヘンの外側か、内側の穴の方か。建造物の全体像がわからないから、どちら側に出口があるのか見当もつかない。
とりあえず、本棚の後ろ側にどんどん回っていこう。廊下を横ではなく縦に進めば、とりあえずは別の場所に行けるはずだ。
そして、ある程度奥に進んだら、廊下を一周してみればいい。さっき走った時よりも一周の距離が短いと感じれば、内側に進んでいる証拠だ。逆に距離が長くなっていれば、外側に進んでいるってことになる。
「よーし、よし。大丈夫。俺は冷静だ」
やっぱり一度目の神隠しの経験値はでかい。自分でも不思議なくらい冷静だ。
それから本棚の途切れた通路を進むこと計八回。三十分くらいは経っただろうか。
よし、これだけ進んだら、一旦廊下の長さを測ろう。
先ほどと同じように、俺は靴を脱ぎ、廊下を横に走った。
それにしても、ここは一体どういう場所なんだろう。ここが例の書架かどうかは知らないけど、来訪者がいないことは確かだ。インデックスのない無数の黒い本棚だけが無機質に並ぶ空間。これではどうやって目当ての本を探すんだろう?
けっこう進んだけど誰にも会わないし、本を取り出しても読む場所がない。椅子もテーブルも見当たらない。さらに違和感をとり挙げると、照明らしきものはどこにも見当たらないのに、白く明るい空間がどこまでも続く。この明るさが地味に精神を削る。どことなく、お前の一挙手一投足を見逃さないぞ、と言わんばかりの圧を感じる。不自然なくらいの明るさ。
そんなことを考えているうちに、俺の靴の地点まで戻ってきた。
肝心の距離は……?さっきまでと変わらない気がする。
おかしいな。けっこう歩いてきたつもりなのに、外周の距離の違いがまだわからないとは。
バウムクーヘンの『層』がよほど多くあるのか?
本棚の途切れた通路を更に進む。違和感が増大していく。
やっぱり変だ。この通路、一体いくつあるんだ?
もう合計で二十回も通ってきたぞ。確実に一時間以上は歩いた。それなのに廊下の長さが変わっていない。
俺の考えが間違っていたのか。廊下は円形じゃなく、ただ真っすぐ伸びていて、ある地点で元の位置に戻るようループする。左右に終わりのない本棚が備え付けられた廊下が何本も平行線のように伸びている。それだけの空間。
それなら、まっとうな出入り口なんてないんじゃないのか?
魔法か、特殊な能力でしか出入りのできない空間なんじゃないのか?
「魔法……?」
そうだ。ヤオさんに案内された透明な館。眼鏡をかけると姿を現した。いや、館は最初からそこにあった。俺が認識できていないだけだったんだ。俺は魔法の才能がない、ただの人間だから。
ここもそういう風に造られているとしたら?
本当は出入り口への道が示されているのに、魔法の使えない俺には見えていないだけだとしたら?
「え、待って」
だとしたら、詰んでない?これ。
いや待て。待て待て。落ち着け。
魔法うんぬんはあくまで仮説だ。まだそうと決まったわけじゃない。
状況を整理しよう。
①出口を示す手がかりはない。
②廊下はループする。
③本棚の途切れた通路を進むと別の廊下へ出る。
④ニ十本以上の廊下はどこも同じ長さでループする。(つまりバウムクーヘンではない)
⑤どの廊下の本棚も読めない本だらけ。
⑥そろそろノドが乾いた。三日間水を飲まないと死ぬらしいと本で読んだことがある。
「…………やばくね?」
どうしよう。ちょっと、本気で困った。
やっぱり詰んでない?これ。
とりあえず、別の廊下に進み続けるしかない。ないけど、なんだかもう出口が現れる気がまるでしない。魔法、というワードがすごくしっくりきた。たぶんそう、マーブルみたいに魔法の才能がある人間にだけ見えているものがあるはず。
俺には魔法の才能がないとヤオさんに太鼓判を押されたばかりだ。つまり、俺が脱出する唯一の方法は神隠ししかない。起きるかどうかもわからない神隠しを期待して、死ぬまで待つしかない。文字通り死ぬまでだ。飲み水が見つからなかったら三日間がリミット。
「いや無理!」
一度疑念が膨れ上がると、不安と焦燥はもう止まらなくなる。
「マーブル……」
あの子さえいれば、また状況が変わったはず。
神隠しを引き起こすことだってできるかもしれない。
あの時、俺は確かにマーブルの手を掴んだんだ。
「マーブル!!本当にいないの!?返事をしてくれ!!マーブル!!」
あられもない声を張り上げた。体裁を気にする必要はゼロだ。わずかでも助かる可能性があるなら、それに縋る以外にないだろう。
「マーブル!!」
困った時の神頼みなんて普段ならまったく効力を発揮しないけど、今回ばかりは違った。
「……!……!」
かすかに声が聞こえる。
幻聴じゃないだろうな。頼むからそういうのはやめてくれよ。
「マーブル!?マーブルだよな!?そのまま大きな声を出してくれ!!」
「……!……!」
聞こえた!さっきとは違う言葉に聞こえた。俺の声が聞こえているんだ。
「俺がそっちに行くから!その場所から動かないで、大きな声を出してくれ!!」
声を振り絞る。返事を期待したが、今度は聞こえなかった。
でも間違いない。マーブルがいるんだ!
俺がそう確信した時。
「イッ・チ・さ・まーーーー!!!!!」
音の衝撃が全身を叩いた。俺は思わず竦んだ。ビリビリと空気の震えが伝わってくるほど、ものすごく大きな声。ガラスが粉々に砕け散るイメージが鮮明に浮かんだ。
そうか、と俺はなぜか納得した。
さっきの俺の声にマーブルが返事をしなかったのは、息を吸っていたからだ。この叫びのために限界まで肺を膨らませていたからだ。
「マーブル!マーブル!」
負けじと大声を上げながら、通路を進んだ。声がでかすぎて、マーブルの位置は結局わかない。自分が元いた場所の方に戻るべきか、進むべきか、判断がつかなかったけど、もう大丈夫だと思った。
「イッチさまー!!」
「マーブル!」
だんだんと二人の声が近付くのがわかった。
そして、たぶん通算で四十以上の通路を進んだ頃、その瞬間はふいに訪れた。
向こう側の通路から、ぬっと姿を現した人物。雪のように白い髪を鮮やかに彩る三原色。
マーブルだ。
「あっ」と、マーブルは俺を指差した。
「マーブル!良かった、無事だったんだな――」
俺は心から安堵し、涙が出そうになった。マーブルへ歩み寄った。けど。
強い衝撃が顔面を叩き、「まぶっ!」と俺は滑稽な声を発してひっくり返った。
え?え?殴られた?なんで?
「なな、な、何するんだよっ」
別の意味で泣きそうになった。
「探し疲れました。一体どこに行っていたのですか」
マーブルは腰に手を当てて、いかにもご立腹といった様子だ。
「え?あれ?なんで俺が迷子みたいになってんの?」
鼻に手を当てながら立ち上がった。
「探しものは見つかりました。しかし、私一人では取ることができません。イッチさまがいないと取れませんのでついてきてください」
「探しもの……」
って言ったら、あれだよな。
例の本しかない。
俺は鼻血を指で拭った。