第六話 許されない奇跡
初めてジェットコースターに乗った時のような絶叫をし続けると、人間はどうなるか。
「なんだい、このくらいのことで参ったのかい」
色んな物事につっこむ気力さえ失せる。
俺は地面に寝そべったまま大柄な魔女の声を聞いた。なかなか立ち上がれない。重力が加算されたような凄まじい全身疲労で、口を動かすことさえ億劫に感じた。
「そんな、こと、言ったって……」
叫び疲れた。驚き疲れた。
おまけに極度の空腹だ。もはやHPは1桁しか残っていない。
「あの、すいません、えっと……」
「ああ、言い忘れたね。私のことはヤオと呼びな」
「ヤオさん、すみませんが水をくれませんか」
「バハハ、情けないねえ。マーブルを見習いな」
「楽しかったです。ありがとうございます、おばあちゃん」
マーブルはぺこりとお辞儀した。その表情には一片の疲労も見えない。
「いや、あの子と比べないでください……」
俺はゆっくりと身体を起こした。
「どうだい、放浪ボウズ。この景色に見覚えはあるかい?」
言われて、辺りを見回してみる。一面を銀色の林に囲まれている林道だ。足元に広がるのは赤茶色の土で、その他には何も見当たらない。先ほどまでの山道とは違って、生き物の気配がない。恐ろしく静かな森だ。
「いや、見覚えないです」
「そうかい。マーブル、先に家に入ってな」
家?家なんてどこにある?
マーブルは短く返事をすると、銀色の林の方へ歩いていく。
十歩も歩いていない地点で立ち止まり、手を伸ばし、戸を開くような仕草をした。
え、パントマイム?
そこで再び歩き出したと思ったら――。
「は!?」
マーブルの姿が消えた。神隠しのように。
俺はマーブルの消えた地点に駆け寄った。でもそこには何もない。あちこちに手を伸ばしても、空を切るばかりで何にも触れない。
「バハハ!何を不思議がることがある。お前だって別の世界で消えてここに来たんだろ?」
「何の話でしょうか」と、マーブルの声が聞こえ――。
「ぎゃあああああ!!」
状況を理解する前に俺は叫び出していた。
「びっくりしました」
マーブルが少し目を丸くした。驚かせたのはごめんだけど、叫ばずにはいられないだろう。何もない空間からマーブルの頭だけが現れたのだから。
「なぜそんなに驚くのですか」
マーブルはそう言うと、頭の横から両腕が飛び出てきた。
「えっ?な、何だ!?」
俺はおそるおそるマーブルの腕の付け根辺りに手を伸ばすが、そこには何もない。頭の後ろにも手を伸ばしたが何にも触れない。
「マーブル、そこから出てきな」と、ばあさんが手招きする。
マーブルは少し戸惑った様子だったが、少し前のめりになったかと思うと全身が見えるようになった。そこで俺はようやく理解した。
「さて、これでわかったかい、ボウズ」
「俺には見えていない透明な家があるってことですか?でも、どこを触ってもまったく感触がなかった」
「触れている認識さえできていないのさ、お前は。これでハッキリしたね。お前には魔法の素養がない」
「魔法」
十年前にも聞いた単語だ。日常生活ではまず使うことのない単語。
「マーブルも魔法を使えないが、才能は秘めている。だから家に入れた。魔法の才能の欠片でも秘めていれば認知できるのさ」
二度も神隠しに遭う人間は相当珍しいと思うけど、どうやら俺自身に特別な力はないらしい。ということは、やはりこの神隠しは俺自身の特殊能力ではないのだ。
「何、気にすることはない。魔法を使える人間を招くのは何かと面倒くさいからね、手間が省けて良かった。ほら、これを付けな」
そう言ってばあさんが差し出してきたのは、緑のフレームの伊達眼鏡だ。百均で売っていそうな、ちゃちな作りに見えた。
「そいつをかけてみな。はっきり見えるはずだ」
言われるがままにすると、目の前に大きな建造物が現れた。
「おお……!」
思わず声が漏れた。映像でしか見たことのない、貴族が住むような邸宅だ。こういうのを館というのだろうか。正面の玄関は2m以上の老婆でも簡易に出入りができるよう、充分な高さを誇っている。玄関に付随する左右の建物にはそれぞれ五つの窓がある。この館をぐるりと一周するだけでもかなりの距離がありそうだ。
「さあ中に入りな。マーブルも――うん?マーブル!」
「はい、何でしょうか」
マーブルの声は上空からだ。
まさか、また降ってくるつもりか?と一瞬身構えたが、その心配はなかった。マーブルはなぜか木に登っていた。
「お前、そんなところで何してんだい?」
「虫を捕まえていました」
「まったく、少しも大人しくしていられない子だね。いいから降りてきな」
マーブルはするすると素早く木から降りてくる。目を見張るほどの身のこなしだ。
「何ですか、そのメガネは」
「ああ、これ、おばあさんから――」
「虫です、どうぞ」
マーブルは片手に持っていたおぞましい生物をばあさんに差し出した。
俺とヤオさんは打ち合わせをしたようなタイミングで同時につっこんだ。
「そんなの要らないよ!」
「いや最後まで聞いてよ!」
絵画や燭台の飾られた豪華な内装を観察する間もなく、ヤオさんのでかい声に押されるように正面の居間へと進んだ。四人家族がそのまま座れそうな幅広のソファに座るように促され、俺とマーブルは同じソファに座った。
「さあてと。まずは例の本について、ガキどもに教えてやろうかね。この世には触れちゃならねえタブーってもんがあるのさ。おっと、その前に」
パチン、とヤオさんが指を鳴らす。
「茶ぁくらいは出してやるよ。マーブルにも料理を出してやると言っちまったからねぇ、まぁ話し終わる頃には出来上がるだろうさ」
キッチンには誰もいない。なのに、料理の工程がどんどん進んでいく。鍋や包丁や食材が、ひとりでに動いている。透明な料理人が何人もいるかのようだ。
俺とマーブルの目の前にティーカップが飛んできた。文字通り、カップが浮遊してテーブルに着地したのだ。ポットがその後を追うように、二つのカップに並々と液体を注いだ。 カップには、謎の文字が刻まれている。
「すっげえ……」
ファンタジー映画ではありきたりな光景だけど、実際に目の当たりにするとこんなにも胸が躍る。ここが魔法の世界か。
「アペリティーだ。多少の疲労なら回復するだろう」
ティーということはお茶なのだろうか。トマトジュースのように真っ赤だが。
お礼を言い、カップに口をつけようとした時、側面に刻まれた文字が目についた。
「ヤオ・ミタマ」
そう言ったのは、俺だ。
「ほう、こりゃ驚いた。私の名前さ。その若さで魔女の文字を読めるとはね。バハハ、マーブルもまだ勉強中だってのにね」
「すごいです」
マーブルが目をぱちくりさせながら言う。口の周りが真っ赤だ。このお茶を飲んだらこうなるのか。
「おばあちゃんの字をどこで勉強したのですか」
「い、いや、わからないよ。自分でもどうして読めたのかわからない」
奇妙な感覚だ。わけのわからない文字なのに、何故か頭の中に言葉が浮かんでくる。
「魔法が使えない人間なら、誰かに教わったとしか考えられないねえ。まあ、今は置いておこう。読まれたところで不都合もない。それよりも重要なのは例の本だよ」
ヤオさんは人差し指をくいと自分の方に向けると、一冊の本が飛んできた。いや、本というより図鑑のサイズだ。
「これは例の本について紹介されている本だ。バビュロニア旅行記という。ここに書かれていることをよく読んでみな」
本のページが自動的に勢いよくめくられ、あるページで止まった。
タイトルには「空白の本」と書いてある。
そこに書いてある内容を読み終えるまでに、三十分ほどかかった。またしても見たことのない文字だったが、俺はなぜかそれを読むことができた。内容的にはそれほど時間のかかるものではなかったけど、マーブルに読めない文字や言葉の意味を解説するのに手間取った。
「ジゴクとは何ですか」
「んーと、悪人が死んだ後で罰を受けるために送られる世界のことだよ。そういう悲惨な世界になっちゃうってことだね」
マーブルはまったくピンと来ていない様子で首を傾げた。
「本の力を使ってジゴクを創るなんて、悪人は何がしたいのでしょうか」
さあ、と俺は短く答えた。
「でも、マーブルが盗もうとしているのがどんなに恐ろしい本かはわかったよ」
「バハハ、理解できたようだね。自分たちがどれほどヤバいものに手を出そうとしているか」
ヤオさんが再び指を鳴らすと、更に盛り付けられた料理が次から次へと運ばれてきた。
「食いながら話そうか」
「はい!」
マーブルが元気よく返事して、いの一番に料理に口をつけた。
「俺の分まですいません、いただきます」
とは言ったものの……。こんな状況でなければ、まず手を付けることはなかっただろうな。赤、青、緑と色とりどりの料理は、微妙な匂いを放っていた。
「おやまあ、礼儀正しい小僧だねえ。見習いな、マーブル」
「イ、イファバヒマム……」
マーブルはハムスターのように両頬がぱんぱんに膨らんでいた。
「いただきますは食べる前に言うんだよ。っていうか、口にものを入れながら喋べんじゃないよ。まったく。さて、放浪ボウズ。お前は何をしにこの国に来たんだい?」
ヤオさんがずずっとスープを啜りながら俺に尋ねた。
「いや、自分の意思で来たわけじゃないんです。わけもわからず、ここへ飛ばされてしまったというか……」
俺は緑色の麻婆豆腐のような見た目の料理を、手元のスプーンで口に運んだ。スパイシーな白身魚のような食感がしたと思ったら、口の中でほろほろと崩れていく。
「ハーブとホロウ魚と混ぜ物だ。味はどうだい」
「うまいです、すごく……」
独特の臭みはあるが、本当にうまい。俺は手が止まらなくなる。
「そりゃよかった」
バハハ、とヤオさんは笑い声を上げると、ごとんとスープの器を置いた。
「信じてもらえないかもしれないけど、俺のいた世界では急に人が消える、みたいな事件があって」
「知っているさ、神隠しだろ」
えっ、と俺は声を上げた。
「知っているんですか!?じゃ、じゃあ教えてください!神隠しは二度目なんですけど、自分の意思ではコントロールできなくて困っているんです」
俺が詰め寄ると、ヤオさんは手を振った。
「待て待て、慌てるんじゃないよ。私はそういう専門じゃないのさ。この世界で困ったことがあったらどうするか、知っているかい」
『もし困ったことがあったなら――』
俺の頭の中で誰かの声が響いた。
「賢者に聞く……?」
「そうさ。どうやら、最初の神隠しの時に良い師に出会ったようだね。魔女の言語もそいつから教えてもらったんだろうね」
「ですかね。でも俺、記憶が曖昧で」
「最初の神隠しはいつだい」
「えっと、十年前です」
「なら無理もないねえ。元いた世界に戻ると、ここにいた記憶は薄れてゆくと聞く。おそらく体質にも何らかの影響が出ていたはずだが、まぁ、いずれわかることだ。この国の賢者を探すことが先決さね」
「その、ファミファフシとは……」
マーブルが口を挟んできた。ぱんぱんの口を。
「また怒られちゃうよ。まず飲み込んで」
俺がそう言うと、マーブルはもぐもぐと音が出るほど咀嚼し、ごくごくとスープを飲み干してから、マーブルは口を開いた。
「その神隠しとは、どんな場所にも行けるのですか?」
「分からないよ。自分じゃコントロールができないんだ」
「マーブル?なんだい、今の質問は」
ずいっ、とマーブルは俺と肩が触れる距離まで近付いた。
うおおお、近い近い!
「では、もしコントロールができれば聖なる書架にも行けるのですか?」
「聖なる…?」
近い近い近い!うわ、瞳が、瞳が信じられないくらい綺麗だ。
「はい。運命の本はきっとそこにあります」
ぼそっとマーブルは呟く。
「聞こえてるよ!こら、マーブル!お前はまったくわかってないね」
宴もたけなわ、とは少し違うと思うけど、賑やかなひと時が終わると、すっかり辺りは暗くなっていた。もともと夜だったはずだけど、あの異様な明るさもさすがに落ち着いたようだ。
今日は泊っていきな、というヤオさんの言葉に甘えることにした。
「明日になったら、羅漢の里へ向かいな。この国一番の賢者は、今そこにいるはずだ」
「ラカン?」
「ああ。賢者の名前はサンドラ。屋台村の村長も兼ねている男で、羅漢の長とは旧知の仲だ。お前たちの足で、そうさね、二時間ほど東へ移動すると羅漢の里へ着く。朝から行けば間に合うだろう」
「わかりました。色々ありがとうございます」
「礼なんかはいい。それよりも、マーブルに何か吹き込まれても妙な気は起こすんじゃないよ」
ヤオさんの人差し指が俺の額に小突いた。
「妙な気なんか起こしようがないです。自分じゃどうしようもできないんですから」
「バハハ、だろうね。神隠しはそう易々と制御できる代物じゃないとは聞いている。第一、聖なる書架には誰も入れない。いつ起こるか、どこに行くのか、何もかも未知数な神隠しで立ち入っていい場所じゃない。そんな奇跡は許されないのさ」
いつも不気味な(失礼)笑顔を浮かべているヤオさんが、ゆっくりと真顔になっていく。
俺はどう返していいのかわからず、ヤオさんの顔から目を反らした。
「バハハ。さぁ、寝な」
俺はヤオさんが用意してくれた客室のベッドに寝そべった。
明日、賢者に会いに行ったら俺は帰れる。
でも、俺が帰ったら、マーブルは……。
本を盗むことは全然諦めていないようだし、きっと無茶するだろうな。なんとか俺が帰るまでに考えを改めてくれるといいんだけど、あの様子では期待できないだろう。
もし、俺が神隠し能力を自分の意思で使えたら。どうしてもそんな考えが浮かんでしまう。
そんなことを考えているうちに、がちゃり、と扉が開いた。
身体を起こして、来訪者の正体を確かめると……。
「イッチさま」
マーブルが立っていた。何の用か、と聞こうとした瞬間。
「え――」
俺とマーブルの間に、黒い球体が現れる。
それは、一呼吸の間に、みるみる膨れ上がっていった。まるでブラックホールのような果てしない闇が滲み、圧倒的に周囲の景色を飲み込んでいく。それは見覚えのある光景だった。俺がこの世界に来た時と同じ闇だ。
これも神隠しなのか?
「嘘だろ」
飲み込まれる。果てなき闇の世界へ。
「イッチさま!」
マーブルの手が差し出された。俺はとっさにその手を掴もうと伸ばす。
いや、待て。
掴んでどうする?
ダメだ!マーブルまで引きずり込んでしまう!
俺は手を引っ込めたが、マーブルの手が更に伸びて俺の手を掴む。
「これが神隠しですか?」
「分からない。前の時とは何か違うんだ」
「お願いします。私を聖なる書架へ連れて行ってください」
「ダメだ、俺の手を離して!本当にどこに飛ぶのかわからないんだ!きみを巻き込むわけには――」
「別の場所に飛んだら、また神隠ししましょう」
マーブルの姿が闇に飲まれる。けれど、手の感触はずっと残っている。
「信じてください」
ぎゅっと力を込められる。俺よりも小さな手。
「私はこの手を離しません。私にはあなたが必要です」
俺は自分よりも小さなその手を、握り返した。
どこの世界に行こうとも、この手を離してはいけない。そう思った。