第五話 大きな魔女に連れられて
『バビュロニア旅行記』第三章より抜粋
『(中略)・・・我々の住む世界。あるいは、まったく異なる別の世界においても、同様に歴史は存在する。その始まりと終わりのすべてが記されている「運命の本」は、二種類に大別することができる。すでに確定した歴史が記録された本と、これからの歴史が綴られることを待つ本――すなわち空白の本である。これらの本は世間一般には「神の書物」として認知されている。
空白の本に、誰が、どのようにして歴史を書き込んでいるのか。それは大いなる謎だ。ただし、判明していることもいくつかある。特筆すべきは、資格を有する者が正しい道具を用いることで空白の本に歴史を書き込むことができるという点であろう。
大規模な自然災害や伝染病、戦争でさえも、空白の本に書き込まれた歴史は実現する。一部の地域では空白の本を「魔王の書物」と呼んで恐れているのはそのためだ。ゆえに「運命の本」は決して聖なる書架から持ち出してはいけない。それは幻想の王でさえも許されざる行為だ。
もしも、空白の本が悪人の手に渡れば、この世は地獄と化すのだから。』
かれこれ二時間は経っただろうか。
長い長い山道を歩き続けると、ぼんやりとした紫色の明かりが見えた。この世界に来た時に見た屋台の提灯だ。
「はぁ…はぁ…や、やっと着いた……」
疲労困憊の俺はへろへろと腰を降ろして地面に尻をついた。
「いえ、私の隠れ家はまだ先です」
俺よりも数十歩先にいるマーブルが平然と答える。
「ま、まだ歩くの……。あとどのくらい?」
「あと一万四千歩です」
「……それって、どのくらいの距離?」
マーブルは俺の後ろに視線を投げ、少し考える様子で言った。
「今まで歩いた距離と同じくらいです」
ということは、まだ半分しか歩いていなかったということですね。
気が遠くなって仰向けに倒れた。
あの、とマーブルが俺の顔を覗き込む。
「走ればあっという間ですよ」
「……あの、申し訳ないけど無理ですよ。どう見ても無理でしょう。歩かせてください」
二時間ほど前のこと。
マーブルは俺に本泥棒の協力を要請した。その本に書かれたことは実現するという国宝。盗んだ者は死刑だという。そんなリスクの高すぎる計画に、なぜ俺の協力を求めたのか。俺が困惑しながら尋ねると、マーブルは思いがけないことを口にした。
「イッチさまが神隠しの能力を使えるなら、きっと本のある場所に導いてくれると思います」
俺は更に混乱した。
「どうして神隠しのことを知っているの?」
「さっきの人が紙を見せてくれました」
マーブルにぶつかった人物のことだ。そいつは一言も喋らずに、メモが書かれた紙をマーブルに見せたという。
「『あの男は神隠しでこの世界にやって来た。あの男を頼れ』そう書いてありました」
「た、頼れって……」
意味が分からなさすぎる。誰がどういう意図でそんなことを?
「顔は?そいつの顔は見なかった?」
それが、とマーブルは眉をひそめた。
「顔がなかったです」
「え、何それ……超怖いんですけど」
「イッチさま。私はお腹がすきました」
「え、どんなタイミング?」
マーブルは切なそうな顔でお腹をさすっている。その動作を見ているうちに、こちらも急激な空腹感に襲われた。昼休みにおにぎりを食べてから何時間経っただろう。
とりあえずどこかで腹ごしらえしようと俺は提案した。マーブルは自分の住処が屋台村の方角にあると言うので、ひとまず屋台で腹ごしらえをしてからマーブルの隠れ家へ向かうこととなった。マーブルはそこで自分の計画について説明するという。
しかし、屋台村には笛を持った衛兵がまだ巡回しているのではないかと気になって聞いてみたが、マーブルは問題ないと断言した。何がどう問題ないのか、確認してみると、
「お腹がすきすぎました。食べない方が危険です。私の食事の邪魔をする者はただではおきません」
という頼もしいお言葉が返ってきた。
「私の隠れ家は狭いですが、二人が眠れるくらいのスペースはあります」
親やきょうだい、一緒に住んでいる人がいないのか尋ねると、おばあさんと暮らしているが今日は一人だという。
そこで俺は何度も尋ねた。どこの誰ともわからない男を泊めても本当にいいのかと。
「問題ありません。三度もそう言いました」
それに、とマーブルは続けた。
「遠慮は無用です。私とイッチは共犯になりますから」
「いやまだ決まっていません。勝手に共犯にしないでください」
そんなやり取りを経て、現在に至る。
ようやく呼吸を整えた俺は、土埃を払いながら立ち上がった。
「それにしてもすごい体力だね、マーブルは」
そう声をかけると、マーブルは乾いた瞳でこちらを向いた。
「お腹がすきました」
「考えるとますますお腹がすくよ」
「あとほんのちょっとで屋台です」
「そうだね、ちょうど金も手に入れたことだし……一応確認だけど、もし衛兵の連中に見つかったらどうする?」
「見つかりません。衛兵、いませんから」
マーブルは仏頂面で答える。この子、もしかして空腹時に機嫌が悪くなるタイプかしら。
それから少しの間、お互いに無言で歩いていると、ようやく屋台が目視で確認できる距離まで近付いた。
「ようやく着きました。さあ行きましょう。食べましょう」
俺は木々の間から村の様子を見渡す。衛兵の姿は確認できない。
「待って、マーブル。衛兵はいなさそうだけど、ここは慎重に行動した方が」
「その必要はないよ」
静かな、けれど重厚な一声が背中に刺さる。
振り返ると、ほとんど同時に、俺の目線は上に上がっていく。そこには、百七十センチの俺をゆうに超える背丈の、着物の老婆が仁王立ちしていた。パーマがかった紫色の髪が風で揺れる。
「おばあちゃん」
マーブルが目を見開く。
えっ、と俺は声を上げた。
「ば、ば、ばあちゃんって……」
いや確かに老婆だけど。でかい!
「だーれがババアだい?」
ドスの利いた声にびりびりと震えたのは、空気だけじゃなく俺もだ。
「えっ、いやっ、そんなこと言って――なっ!」
俺が言い終えるよりも早く、老婆は俺の首根っこを掴んでいた。
「マーブル。何だい、この小僧は」
「イッチさまです。放してあげてください」
「イッチ……?聞かないね。本名か?」
「イヌブサイツシと言っていました」
「イヌブサ、やはり聞かない名だね。んん?その恰好は……」
大きな目がぎょろりと動き、俺の全身を観察する。
「ちょいと失礼するよ」
老婆はそう言うと、俺の腰のベルトを掴み、ひょいと片手で持ち上げた。
70キロ近い俺の身体をだ。
「マママ、マーブルさん?こ、こちらのお方は……」
「私のおばあちゃんです」
「そうだね。そう聞いていたね。でも明らかに普通のおばあちゃんじゃないね」
「おばあちゃんは魔女です」
「へえ、そうなんだ。それは初耳だね。まぁ、聞いていたところで何ができたわけでもないんだけどさ。あの、俺を持ち上げるの、やめてくださるように言っていただけませんか?」
「先ほど言いましたが、無理です。おばあちゃんは私の言うことに耳を貸してくれません」
「あ、そうですか……」
「そうか、お前は放浪人だね。久しぶりの客人ってわけだ……バハハ」
老婆のサディスティックな笑みに寒気が走る。
「あ、あの……」
俺はおずおずと声を出す。
「このまま大人しくしてな。なあに、悪いようにはしないさ。マーブル、肩に乗りな。家に戻るよ」
老婆はそう言うと、くいっ、と自分の背に親指を向けた。
「いいえ。私はイッチと屋台を食べます」
マーブルは毅然とした態度でばあさんの誘いを断った。
おお、マーブルさん!と俺は心の中で拍手を送った。屋台を、という言い方が気になったけれど。
「そうかい。せっかく家で料理を振舞ってやろうとしたのに残念だねえ」
「わかりました。乗ります」
躊躇なしですか、マーブルさん。
マーブルは老婆に肩車をしてもらう形になった。
「さーて、お前たち。舌ぁ、噛むんじゃないよ……ふんっ」
どごん、と何かを叩きつけたような音。
それは、ばあさんが地面を蹴った音だと、後になって気付いた。
「――ぅぅううううわわあああああ~~~~!!!!」
大砲から発射された弾丸はこんな気持ちなのだろうか。
いや、たぶん、実際には弾丸ほどの速度じゃないとは思うけど。少なくとも、呼吸が容易にできないほどの速度ではある。それほどの速さで、ばあさんは走っているのだ。それも、高二男子と中学生くらいの女子の重さが加算された状態で。
びゅんびゅん、と音を立てて景色が後ろへ吹っ飛んでいく。ジェットコースターに乗った時よりもだいぶ強い風が顔面を叩きつけてくる。一体時速何キロだ?
「あはは、あははははは!!」
マーブルのはしゃぐ声が聞こえる。あんな風に笑うんだな。
俺はというと、悲鳴を上げずにはいられない。
「おわあああぁぁああぁぁああ~~!!」
「バハハ、二人とも舌を噛んでも知らないよ」
俺ってこんなに大声出るんだな。と、なぜか頭の片隅で感心した。
それもそうだ。日常生活ではこんなあられもない大声を出すことなんてない。こんな異常事態に遭遇することなどないからだ。
そして、その数時間後。
長い長い一日が終わろうとした時に、俺は更なる異常事態に遭遇することになる。