第二話 異次元の邂逅
目は開いているのに何も見えない。
夜よりも暗く、深海よりも深く、宇宙空間のように果てしない闇。
……まあ、深海も宇宙空間もこの目で見たことはないけれど。とにかくありえないほど暗い世界ってことだ。
その闇が明けてくると、さっきまでの光景はもうどこにもない。
紫色の鈍い光が左右に並んでいる。視界が完全に開けると、それらの光は提灯から放たれているのだと気付いた。提灯をぶら下げた屋台がずらりと並んでいる。
ほんの数秒前までの雪景色から一変、お祭りさながらの光景だ。何かを焼いている音に、客引きの威勢の良い掛け声。食欲をそそる匂いと煙が周囲に充満している。
二度目の神隠しが起こった。それは確かなことだ。でもここは……。
現実に存在するどこかの町かと一瞬疑った。けど違う。店員も客も、ことごとく人間の姿をしていない。スーツを着た連中はよく見るとネズミの顔だし、土器らしきものを抱えている土偶の集団がいるし、さも当然のように全身ガイコツが闊歩しているし、尾が四本ある化け猫と人面犬がじゃれ合っているし、表情のあるヤカンやボウリングの球に翼を生やしたような生物が宙に浮いているし……挙げればキリがないほどに非現実的な世界だ。
そしてこの夜空。乳白色の大きな川が浮かんでいる。夜空に、だ。
白い光の帯のようにも見えるが、ゆったりと波打っているのが目視で確認できる。その川の中には無数の星が輝きを放っている。
ずっと見上げていると、天地が逆転したかのような錯覚に陥りそうになる。
早くも頭がおかしくなりそうな光景だ。一介の高校生の語彙力じゃ言い表せないほど、優雅であると同時にものすごく異様だ。
日常でぞっとする光景といえば、たとえばオレンジ色に染まった大きな満月を見た時か。ああいった不気味さとは、ちょっと比較にならない。
川に浮かんでいる星々は、トッピングチョコのようなカラーバリエーションで、まちまちの大きさで煌めいている。メルヘンの世界をそのまま実写にしたかのようだ。
十年前の俺もこの夜空を見たのだろうか。そして何を思ったのだろうか。
いつまでも空を見上げていても仕方がない。俺はとぼとぼと歩き出した。
元の世界に戻るにはどうすればよいのか。
俺は十年前の記憶を必死に辿りながら歩いていた。
十年前、どうやって元の世界に帰ったのか。正直、記憶は定かではないというか、まるで思い出せない。頭の中に霧がかかっているかのようだ。
当時俺は7歳。自分一人でできることなんてほとんどなかっただろう。偶然出口を見つけたから帰れた、なんてテーマパークのような帰り方ではないことは確かだ。
ううん、と文字通り頭をひねった時だった。
『決して振り向いてはいけない』
唐突に、男の声が脳内で再生された。
そうだ……。俺に帰り方を教えてくれた人がいた。
この世界には何も化け物ばかりじゃない、ちゃんと話の通じる人間もいるんだ。
神隠しのことにやたら詳しい人と知り合ったんだ。その人の言う通りに行動していたら元の世界に帰れたんだ。
だったらその人、もしくは神隠しの知識がある人を探せばいい。
問題はそういう人をどうやって探すか、なんだけど……。
少なくともこの屋台村にはまともな人間はいなさそうだ。村の出口に向かった方がいいだろうか。
いや、移動するなら明るいうちがいいか。あの夜空のせいでやたら明るいけど夜には違いない。どこか安全なところで夜を明かしてから移動してみるか。
オーケーオーケー、俺は冷静沈着だ。わけもわからず泣き喚いた十年前とは違うぞ。
多少のことでは驚いてやらないぞ……って、何だ?
「……ぁぁぁぁああああ」
どこからか人の声が聞こえる。だんだん近付いてくる。
見上げると、先ほどの幻想的な空が――って。
「あああああああ~!」
人!? 女の子!?
「うおおおお!!」
空から人が降ってきた。星降るような夜空から人が。
そして俺に衝突した。俺は空から降ってきた人物の下敷きとなっていた。
頭がぐわんぐわんする。これが漫画だったら、小さなヒヨコが三羽ほどピヨピヨと鳴きながら頭の周りに土星の輪の軌道を描いていただろう。
なんてことが頭によぎるあたり、俺はまだ冷静だ。
「今のは死ぬかと思いました」
女の声だ。俺の背に乗ったまま喋っている。
「でも生きています、ラッキーです」
「あ、あの、すいません。とりあえず、どいてほしいんですけど」
はい、と短く返事をすると、女はすっと立ち上がった。
俺は腰をさすりながら立ち上がり、女の方を向くとぎょっとした。
まず目を引いたのは、その虹色の頭髪だ。
真っ先に思い浮かんだのは、ペロペロキャンディだ。外国人の子どもが舐めていそうな、カラフルに渦巻く風車型の飴。肩に届きそうな長さの髪は白を土台として、赤、緑、青など様々な色が混じり合ったリボンを頭頂部から毛先にかけて斜めに巻いたような髪の色。ファンキーなんて単語が霞むほどのインパクトだ。
少女はロボットの如く無表情に尋ねた。
「あなたは誰ですか?人のケツの下で何をしていたんですか?」
「……お尻って言おうね。ケツじゃなくて。それよりも怪我はないの?」
「怪我はないです。人のお尻の下で何を」
「ストップ、ストップ。ちょっと待って。とんでもない変態みたいじゃん俺。そうじゃないよ、きみが空から降ってきて、俺にぶつかったの。で、俺が下敷きになったの」
きみ、という言葉を使ったのは、年下に見えたからだ。百五十センチもなさそうな背丈だ。
虹髪少女は、じっとこちらの目をのぞき込むように質問する。
「ヘンタイとは何ですか?」
少女は目の色も派手だ。青い虹彩にオレンジがかった黄色が混じっている。眉毛は前髪で隠れていて、ちょうど瞼の上に乗るような形できれいに揃っている。
「おっと。ああ、うん、そういう感じか」
ろくに言葉を知らない人もここでは珍しくない。なんたって常識がまったく異なるんだ。
「変態というのはですね、勝手に人の身体に触ったり、その、いやらしいことをしようとする輩のことで、関わり合いにならない方がいい人種のことです」
これほど神秘性の高い女子に変態が何たるかを説くのは気が引けたが、こんな異常な世界で箱入り娘的な世間知らずは命取りだ。下手にお茶を濁すよりも説明しておいた方が良いだろう。
「ヤカラとは」
「ああ、えーと、そういう奴ってことかな」
「あなたはヘンタイですか?」
「え?え?違うぞー、どうしてそうなった?」
俺はいかに自分に非がないかを懸命に説明した。虹髪少女は知らない言葉が多く、次第に俺は小学生に話すような口調になってしまった。
「どうでしょう、これでわかったかな?」
「結局あなたは誰ですか?」
「ああ、ごめん、名乗り忘れた。俺は――」
自己紹介をしようとした時、笛の音が鳴った。
音がした方を向くと、頭の先から踵まで鎧を装着した兵士のような奴がいた。
「何だ?」
俺が声を発したのとほとんど同時に、ぐっと襟を掴まれた。掴んだのは、虹髪少女だ。
「え、あの」
嫌な予感がするよりも早く俺はそのまま少女に引きずられた。その様は、走る馬に縄で括りつけられた罪人そのものだ。実際、馬に引っ張られているんじゃないかと思うほどの速度だった。
「うおおおおぉぉっ!?」
こんな小さい身体のどこにこんな馬力がっ!?
なんてつっこむ間もなく、周囲が木々に囲まれた、林道のような場所に出た。
「ちょちょちょ、ちょっと、待って!とにかく待って!」
「待ちません。捕まったら殺されます」
「こっ、ころ――じゃ、じゃあ、わかった!じぶっ、自分で走る!走るから離して!ケツが、ケツが燃える!」
ぱっと襟を離され、俺は背中と後頭部を地面に打った。
「ケツではなくお尻では」
「ああ、そうだね!お尻が燃えそうでした!」
もう色んなところが痛い。心も痛い。
笛の音がまたしても聞こえる。なんかあちこちで鳴ってないか?
「あの屋台の裏の林道から村を抜けることができます。急ぎましょう」
びゅんっ、と効果音が出るような勢いで虹髪少女は駆けだした。慌てて後を追う。
ツッコミどころが多すぎて理解が追いつかない。十年前もそうだったはずだ。この世界は何でもありだ。考えるのは後で、まず行動だ。そう徹底しないと、ガチで死ぬことだってありうる。
俺は全力で走った。たぶん、十年振りの全力疾走だ。
十分ほど走っただろうか。木々に囲まれた緑道の先に、虹髪少女は立っていた。
「ぜぇ…ぜぇ…、お、お待たせしました……」
「行きましょう」
「え…ちょ、ま、まだ走るの…?す、少し、休ませて……」
「走りません。飛びます」
「あ、そう…はぁ、なら良かっ――え、飛び?」
襟を掴まれ、放り投げられた。
どこに?
この時、俺はようやく気付いた。先ほどまでいた屋台村が、切り立った崖の上にあったことに。
「と……飛び降りかよぉぉぉ!?」
ごおおおお、と激しい風の音。さっきまで見えていた木々がものすごい勢いで遠ざかっていく。
「はい。それです」
虹髪少女が俺の身体を掴む――
ということは、彼女まで飛び降りたのだ。
「え、なっ、しっ、心中!?会ったばかりで!?」
「あなたは誰ですか?」
「どんなタイミング!?名乗った瞬間あの世行きだよ!!」
じっ、と虹髪少女は俺の眼を見る。
あと何秒かで死ぬ。どうせ死ぬなら――。
「わかったよ!俺は犬房一志!イッチって呼んで!きみの名前は?」
ぽう、と奇妙な音と同時に、俺と虹髪少女の身体がシャボン玉のようなものに包まれた。二人のシャボン玉は離れていき、俺は背中から地面に激突した――かと思うと、ずぶずぶと地面にめり込んだ。めり込みが止まると、背中から地面が突き上げてくる。トランポリンのような地面だ。
反動で飛び上がると、シャボン玉が割れた。それはけっこうな高さで、着地地点が地面だとしたら大怪我しただろう。しかし、幸いなことに俺は池にダイブした。
ばしゃ、ばしゃ、と水をかき分ける音がする。その主は、俺の身体に覆い被さり、こう言った。
「私の名前はマーブルです」
水の滴る虹色の髪はまるでオーロラのようだった。