第百四十六話 がっぷり四つ
すやすやと眠るマーブルの横に座った。デンは俺の肩の上からマーブルの顔をのぞく。
「こいつは本当によく寝るな」
ぽつりと呟いたデンの口調はどこか不安そうだった。無理もない。俺も心配だ。運命の本に2ページ連続で絵を描くことはかなり精神力を削るようだ。ラズワルドの話ではマーブルはもうすぐ目覚めるらしいが。
思えば最初に絵を描いた後もマーブルは行動不能に陥っていた。本の力は強力無比なだけにこういうリスクもある。切り札の使いどころは慎重に見極めないといけない。それは俺自身にも同じことが言える。魔犬。神隠し。いずれも俺の意思で完璧に制御できる能力じゃない。特に神隠しの方は危険だ。いかなる危機からも逃れることができる能力も、一歩間違えれば二度とこの世界に戻って来られないかもしれない危険性と常に隣り合わせだ。
「おい、そろそろみたいだ。あのじじい、何を始めるつもりなんだ?」
辺りが賑やかになってきた。校内に残っていた生徒と教員がどうやら全員集まってきたらしい。
「さあて、主ら!」
ラズワルドのマイク要らずの大声が大気を穿つ。
「ここに集まってもらったのは他でもない!主らはすでに知っておろう、ルテティエ最強と名高いペインがやられた!敵は闇大帝!百年も前に封じられた伝説の妖魔じゃ!」
ラズワルドはそこで一拍置いたが、周知の事実であるせいか聴衆にざわつきは無かった。深刻そうな眼差しがラズワルドに集まる。
「奴が完全に力を取り戻すにはまだしばらく時間がかかるが!奴の下にはすでに強力な配下が集まっておる!連日の報道であった通り、土の賢者ジュパールの敗北は聞いておろう。報道にはなかったが、ジュパールを下したのは奴の手下じゃ!闇大帝ではない!」
そこで初めて聴衆に動揺が走る。最上階フロアで戦ったメンバー以外には知らされていなかったようだ。ジュパールをやったのは、冥狼という底知れない男だ。
「現校長代理であるゼイルー女史」
ラズワルドの大きな手がグラウンドの脇へ向けられる。その手の先には目立たないようにちょこんと座るゼイルー先生がいた。
「並びにルテティエの勇士たち。皆が死力を尽くし、闇の者たちを追い払った!その奇跡を成したのはペインがいたからこそじゃ。次は無い!今の主らでは近隣の妖魔たちを討ち取るのも困難じゃろう。連中は闇大帝の復活による影響をもろに受け明らかに魔力が増大しておる。一週間前とはレベルが違う」
「なるほど、それでか」
独り言のつもりだったが、デンが「何がだ?」と聞いてきた。
「この間スピネさんが全員の治療を終えたとか言っていたけど、やけに怪我人が多いから気になっていたんだ」
ここ最近、街の中には怪しげな気配は感じない。この魔法使いたちが怪我をするとしたら街の外しかないけど、この周辺に住み着く妖魔はそれほどレベルが高くないと授業で聞いていた。てっきり激しい修行でもしているのかと思ったけど、妖魔たちに手こずっていたのか。
ラズワルドを人差し指を立てると、指を見せつけるように大きくゆっくりと旋回しだした。
「治療や謀反、理由は様々だが学校を去った者もおる。この少ない戦力でこれから先やっていけるのかと不安に思う者も少なくないじゃろう。だが、心配は無用!!」
そこまで言うとラズワルドは大股を開き、片足を高く上げると勢いよく振り下ろした。
ずん!!
荒れたグラウンドに重低音の太鼓のような音が轟く。その衝撃は地盤をも割りかねないほど強いものに感じられたけど、イメージとは真逆の現象が起こった。地面から何本もの鞭のようなものが飛び出す。それらが枝木だと気付いたのは森の匂いが漂ってきたからだ。
ラズワルドの足元から、湯水が沸き出てくるかのような勢いで枝や草木が芽吹いてくる。そこからものの数秒で辺りはすっかり緑一色の大自然だ。
「儂の名はラズワルド!賢者をやっておる!」
名乗りと同時にラズワルドの足元の地面が隆起すると、あっという間に土俵が完成した。
「儂が主らを徹底的に鍛え上げる!期間は三カ月!儂はいかにして主らを強くするのか!?方針は決まっておる!」
ラズワルドは見開いた目をこちらに向けてきた。
「小僧。出番じゃ」
呼ばれた、と思った時、見えない手に胸倉を掴まれ、身体が勝手に土俵の方へ飛んでいった。
「――っとと!」
体勢を崩しかけたが何とか着地に成功する。
「もう、乱暴だなあ」
「さあて、皆の衆!」
ラズワルドが肩を組んできた。やっぱり凄い力だ。それほど俺を押さえつけようとしていないのに、この太い腕を振り払える気がしない。素の力がハンパじゃない。
「この小僧が何者か知っておるか?先の戦いで闇大帝たちを追い返した兵の一人じゃ!魔法は使えんが魔獣憑きでな、今やこの学校ではもっとも膂力のある者といえる。儂と小僧は、今からここで立ち合いを行う!しかと刮目せい!」
ラズワルドが腕をどかすと、少し後ずさりした。土俵の開始位置につくと、「はっけよい」の構えを取った。俺も見よう見まねで同じ姿勢を取ってみる。
「死ぬ気で来い、小僧。下手に手抜きをすればかえって重傷を負うことになる」
「分かりました。本気で行きます」
不思議と気分は高揚していた。身体の内から燃え上がっていく。
今の自分にどれだけのことができるのか、誰より俺自身が知りたがっていたのかもしれない。
「来い!!」
それが「のこった」に代わる合図だった。
地面を力強く蹴ったのは、お互いにほとんど同じタイミングだった。ただ、腕のリーチの差か、突き出した両手が先に相手に触れたのは俺の方だった。
瞬時に脳裏をよぎったのは、何千年もの樹齢を有する、視界に収まりきらないような大樹。
しかし圧倒されている暇はない。巨大な張り手が眼前に迫るのを、とっさに姿勢を低くして躱す。そのままラズワルドのまわし――じゃなくてベルトを掴んだ。
「ぬうん!!」
ラズワルドもまた俺のベルトを掴み、放り投げようとする。俺は全身に力を込めて必死に食いとどまった。
「……くっ!……く、く!」
一瞬も気を緩められない!ちょっとでも力を抜くと一瞬で吹っ飛ばされる!
「ぬう……やりよる!楽しいぞ、小僧!」
俺も楽しい。何だ、この濃密なひと時は。
喋っている余裕はなかったけど、せめて顎を軽く引いた。