第百四十四話 スペシャルゲスト
ペイン理事長暗殺未遂事件より八日目の早朝。クロキとボアーラは市外の陸橋に立っていた。幼児でも背負える重さの小袋一つ、ボアーラの旅荷はそれだけだった。荷物は少ないほどいい。きっと長い旅になるのだから。
誰に見送られることもなく旅立とうと決意したボアーラだったが、クロキは彼の行動を見越していた。クロキがどこか寂しそうな背中に声をかけると、ボアーラは驚いたように振り返ったが、その目は穏やかな光に満ちていた。
「まだ怪我が癒えていないというのにもう発つのですね」
「それもまた修行のうちです。心身ともに一から鍛え直さねば。それよりも、なぜ私が――」
クロキは手を出してボアーラの言葉を遮った。
「私を誰だと思っているんですか。あなたの考えることなどお見通しですよ」
「これは失敬、愚問でしたな」
「今日あなたが発たなければ、明日には私が発っていたところです」
いや、と今度はボアーラが手を出した。
「あなたは学校に残ってもらわなければ困ります」
「わかっています。精一杯ゼイルーさんたちをサポートしますよ。あなたを同じ思いを抱えながらね」
「つまり……自分が許せない」
「ええ、まったくその通りです」
両者はともに、ペインに次ぐ実力者、すなわちNo.2の座を争うに足る存在と認め合っていた。ペインが現れるまではルテティエの両雄と称された二人には、切磋琢磨し培った実力とプライドがあった。今回の事件で二人のプライドは粉々に砕かれた。
「格下と思っていた相手に操られた挙句、主君に牙を向いた。あり得ぬ重罪です。しかし……真の屈辱は……」
クロキは思わず顔を背けたが、ゆっくりとボアーラの目に視点を合わせて言った。
「ええ。我々の攻撃は、ペイン様には微塵も通用しなかった」
「ペイン様に怪我を負わせることができていたら自死という責任の取り方を選んでいたでしょう。しかし、その必要はありません。なぜなら彼にとって私たちは……私たちの培った力は何の意味も成さないのだから。これほどの屈辱はありません」
「ロードヴィには見抜かれていたのでしょうね。私たちの心の奥底に巣食っている圧倒的な強さへの羨望を」
「何を言っても言い訳にしかなりません。今回の一件で骨身に染みました。今の私に教育者たる資格はない」
「私も今更教鞭を取るつもりはありません」
二人は顔を見合わせた。
「このままでは何も守れやしない」
ボアーラは陸橋の先にある荒野を見つめた。
「私は必ず強くなって戻ります。そして生徒たちを強く育てます。どんなことが起きても、誇りを傷つけられないように……」
「ええ。私たちには立ち止まっている時間は無い。闇大帝という脅威が復活した今、一刻も早くレベルを上げなければ」
クロキは言い終えるや否や、上空を見上げた。ボアーラもほぼ同じタイミングで空を見た。
「おお……この巨大な魔力は」
「ええ。もうじき、スペシャルゲストが到着するわ」
それからおよそ一時間後。巨大な魔力を携えた一人の老人がルテティエの地に降り立った。
「ふうむ……むむ!この香り……間違いない!」
トン、と老人は軽く地面を蹴ると、瞬く間に数百メートルの距離を詰めて学校の敷地内へ入っていった。あまりにも速い移動は辻風を引き起こし、あわや街の建造物に甚大な被害が出るところだったが、老人の顔に似合わない繊細な魔力操作により、辻風は何物にも触れることなく消失した。
「やはり!ここにおるな!」
「び、びっくりした~……じいさん、めちゃくちゃ速いな!」
老人の接近にいち早く気付いたのは、犬房一志だった。
「やや、ちょうどよい。おい、小僧っ。スピネちゃまを呼んどくれ!」
鼻息の荒い老人の目に、犬房一志は既視感のようなものを感じた。
「スピネチャマ……もしかしてあなた、スピネさんの」
「いかにもっ。儂はラズワルド。スピネちゃまのおじいちゃんじゃ」