第百四十話 喰らうもの、猛ぶ
犬房一志の神隠し能力『ウツシヨ』のごく一部を喰った魔犬は、一時的に自らの意思での力の顕現が可能となった。
魔犬に与えられた時間は五秒。それ以上は犬房一志の肉体が保たないと判断した魔犬は喰う量をセーブしていた。加えて、この数時間で犬房一志の身に蓄積されたダメージを考慮し、力の出力を大幅に制限。これほどの枷を負ってもなお、この二人を撃退することは可能だと魔犬の嗅覚が告げていた。
事実、魔犬は冥狼の懐へいとも簡単に侵入する。
ゼロコンマ一秒にも満たない、俊敏にしてしなやかな魔犬の動きだった。
冥狼の口角が上がる。自身の血流が加速し、沸騰するのを感じた。
ルテティエ史上、最も濃厚な五秒間が流れようとしていた。
魔犬・犬房一志に与えられた時間は、残り五秒。
魔犬の腕が冥狼の顎へ伸びる。冥狼にはその軌道が見えていたが、同時に反撃も防御も間に合わないことを悟るいなや回避に全神経を注いだ。結果、冥狼は魔犬の初撃を躱すことに成功する。が、二撃目は冥狼の瞬きよりも早く訪れる。犬房一志の足刀が脛に命中し、体勢を崩した冥狼に機銃の如き連撃が迫る。
残り四秒。
両腕を盾に防御体制を取る冥狼。反撃に転じる機を窺うが魔犬の猛攻がその隙を許さない。冥狼の劣勢を見た闇大帝は魔力を集中させる。その“起こり”を予期した魔犬は冥狼の身体を掴み、闇大帝に向かって放り投げた。
残り三秒。
「“暗流”(クルール)」
闇大帝は攻撃魔法をキャンセルし転移魔法に切り替えた。空間に開いた大穴に冥狼が飲まれる。瞬時に冥狼が闇大帝に攻撃を仕掛けると、大穴から魑魅魍魎の大群が押し寄せる。夜が明けた今、魔力を補給する術がない闇大帝の唯一の戦術。残された魔力と消耗した肉体では魔犬の相手はできない。本来、召喚術としても運用できる転移魔法からはあえて最下級の妖魔を呼び寄せた。半端に強い妖魔を召喚してもこの魔犬相手では一撃で屠られかねない。闇大帝は質より量の選択で魔犬の時間切れを狙った。魑魅魍魎たちでは魔犬の足止めにはなり得ず、一秒にも満たない時間で数百数千が消滅していった。しかし、それでもなお魑魅魍魎たちは湧き上がる。
残り二秒。
魔犬は静止した。このまま闇大帝に迫って行っても牙を届かせることは難しい。残された時間で一気に力を爆発させるべく、魔犬は力を集中させた。来る。巨大な力の“起こり”を感知した闇大帝は“暗流”を一旦閉じると、魔犬の後方へ展開した。再び開いた大穴から、冥狼が出現する。冥狼の渾身の一撃が炸裂する瞬間。
残り一秒。
魔犬の姿が消失する。冥狼と闇大帝に訪れる刹那の空白。突如、冥狼の背後に巨大な気配が現れる。魔犬はこの時を待っていた。冥狼と闇大帝が直線上に並ぶ今が両者を撃退する最大の好機。
「“二之玉”火天煉義」
魔犬は弓矢を射る要領で炎の矢を放った。矢は冥狼と闇大帝の両者に同時に命中すると、二人の身体を燃やしながら遥か上空へ飛んでいく。魑魅魍魎たちもまた周囲に立ち込める炎熱で燃え上がっていった。
魔犬の時間が終わる。
「終わったぞ」
犬房一志は自分の声で目覚めた。
「え……」
自分の両手を見て、指を動かしてみた。
主導権がこっちに戻ったみたいだ。
スピネがぽかんとした表情でこちらを見ている。俺はなぜか意味もなく笑った。