第百三十九話 喰らうもの、迸る
見えている。聞こえている。
それなのに身体だけが動かない。芯まで折れてしまったかのように。
俺の攻撃は一度も当たらないまま、たった一発喰らっただけで立ち上がれなくなってしまった。まるで勝負になっていない。
俺は思い上がっていたのか――?
闇大帝を相手に多少は健闘できたと。ベリルたちと肩を並べるほど強いはずだと。
違う。あいつはそのベリルたちを一瞬で倒したんだ。俺は過信も油断もしていない。
あいつが強すぎるのか?
わからない。確実に言えることは一つ。俺はなんて弱いんだ。
イツシ……イツシ……
誰かが呼んでいる。誰の声だ。昔どこかで聞いたことのあるような……。
目を閉じろ……私の呼びかけに耳を澄ませ……
言われるがままに瞼を下ろす。するとすぐに、深い水の底に沈んでいくような感覚に陥った。その数秒後には、ひんやりとした金属の質感を頬に感じるようになった。ゆっくり目を開けてみると、そこには巨大な檻があった。
うつ伏せに寝ていた俺は慌てて飛び起きる。
周囲には誰もいない。神隠し――ではない。別の空間に飛ばされたのか?
イツシ……
暗闇の中から響く声が全身を震わせる。声の主はどうやら檻の奥に潜んでいようだ。
「誰だ」
暗闇に向かって呟く。返事はすぐに帰ってきた。
ここはお前の心中だ……私が何者か、お前は知っている……
「心の中……?じゃあ、お前は……魔犬なのか?」
そうだ……時間がない……取り引きだ……
「取り引き?」
肉体の主導権を私に預けろ……五秒もあればいい……奴らを撃退する……
「五秒って……嘘だろ。その倍の時間を使っても一度も攻撃が当たらなかったんだぞ。見てただろ」
それはお前が私の力を使わなかったからだ……
「使ったよ。全力でやってあの様だったんだ」
違う……あんなものは私の力の残滓に過ぎない……刀を鞘から抜かずに振り回しているようなものだ……
「……どういう意味だ?俺が加減をしていたとでも?」
お前は恐れている……私を……ウツシヨの力を……
「俺が……」
魔犬の指摘は正しい。確かに、神隠し・現世の力は使い方を誤れば周囲の人間を巻き込んだ上に命を落としかねない。しかも元の場所に戻って来れる保証もない。そんな危険極まりない能力は、発動条件を満たしつつあった。
だからお前はうまく扱えない……私の力を十分に引き出せない……
「わかった。取り引きって言ったな。その五秒間の対価は何だ」
ウツシヨの力だ……三日分でいい……
「戯れは済んだかね」
闇大帝は冥狼に声をかけた。
「ああ。もういい。さすがに空腹だ」
冥狼は地に伏した犬房一志を見ていたが、すぐに興味を失ったように欠伸をした。
「眠気まで出てきやがった」
「すぐに馳走を用意させよう。だが帰る前にすべきことが残っている」
「何だよ」
「あの少女の手にあるものを見よ」
「あ?ずいぶん派手な髪の――って、おい……まさか、あの本は……」
冥狼が驚愕する。その視線は私に注がれている。
マーブルはまだ目を覚ます気配がない。短時間で創造力を使い過ぎたせいだ。最低でも三日間は眠り続けるだろう。
「いかにも。あれが運命の本だ」
「マジかよ。じゃああれを奪えばいいんだな」
冥狼がこちらへ近付いてくる。
まずいな。今戦える者はもう一人しかいない。
「こちらのことは意にも介さず、ですか。失礼な方ですね」
スピネがマーブルの前に立ちはだかる。スピネは優秀な魔法使いではあるが戦闘には向かない。何らかの秘策を講じていたとしても、相手は手負いとはいえ戦闘の天才。スピネが敵う相手ではない。
「意に介す必要性を感じねえ。自分でも気付いているだろ?俺に構わず寝ている連中を助けてやれよ。全員生きてんだからよ」
「助けますよ。あなたたちを倒した後で」
「ふっ……一度だけ言ってやる。どけよ」
「どきません」
スピネが言い終えた瞬間、冥狼の蹴りが空を切った。
「――ああ?」
冥狼はスピネの胸元に蹴りを放ったはずだった。蹴りが命中する直前、スピネは冥狼の視界から消えた。それはスピネの能力などではなく、第三者の介入。
「お前か……」
気絶していたはずの犬房一志がスピネを抱えている。
「さっきとはずいぶん様子が違うな」
いや、それよりも――冥狼は息を呑んだ。
何だ、今の動きは。俺より速い?馬鹿な。一発で俺に倒されたはずの男が――面白い。
犬房一志。炎を宿しているかのような瞳に発達した犬牙。毛髪は不自然に変形し色の変わっている箇所がある。あれも魔獣憑きの特徴だ。
「今度は退屈せずに済みそうだな」
冥狼は先ほどの小競り合いとは別の構えを取った。
が、犬房一志はそれよりも速く冥狼の懐に潜った。