第百三十八話 犬と狼2
メイロウは首の後ろに手を回すと、頭をゆらゆらと左右に傾げた。俺の言葉を頭の中でゆっくりと咀嚼しているように見えた。
それから手足をぶらぶら揺らした後、メイロウはかすかに笑った。戦いを挑まれた喜びか。それとも嘲りか。
「いいだろう」
そして奴は構える。やや左半身がこちらに向いたまま右手は腰の位置に据えている。まったく揺らぎのない姿勢は刀を差している武士を思わせた。見た目はまるで違っているけど、あの備えている右手からは刀と同等の威圧感がある。まともに喰らえばひとたまりもないことは明白だった。
わかっていたことだ。今の俺には武器がない。素手の勝負ならまったく勝ち目がない。
勝機があるとすれば魔犬の力しかない。体力が回復している今なら使えるはずだが……。
「どうした。挑んできたのはお前の方だぞ」
問いかけに応えている余裕はなかった。
俺は慎重に、注意深く魔犬の檻を少しずつ解放した。
この感覚は今までとは違う。少しでも雑に力を使うと、ダムが決壊してしまうかもしれない。一気に魔犬の力に吞み込まれ、二度と戻って来れなくなってしまうような、圧倒的な不安感。短時間で魔犬の力を使い過ぎたせいか、ここに来て魔犬の力が強大になっているのを感じた。
「はっ、暴走を恐れているのか。まるでなっちゃいねえな」
「……なんでわかる?」
そう言いながらも、俺の中では答えが浮かびつつあった。
「感じねぇのか?俺の中にもいるんだよ」
「……狼、とか?」
「ピンポン。何だ、わかってんじゃねえか。そうだ、俺には”天狼”が憑いている」
答え合わせは一瞬で済んだ。直感よりも濃厚な本能が、この男の中の潜むものの正体を告げた。
「だが安心しろ。こいつを出すつもりはねえ」
そう言ってメイロウは親指で自分の胸をつついた。
「てめえの獣も飼い慣らせてねえような雑魚に披露してやるほど安くねえんだ、うちの狼は。ああ、もちろんお前は暴走覚悟で魔犬の力を使えよ。でないと遊びにもならなそうだからな」
「……あーあ、まったく。嫌になるなあ」
なぜかわかってしまう。この男の言葉には過信も侮蔑もない。見え透いた挑発ですらない。表裏がまったくない、本心からの言葉だ。
スピネさんをはじめ、みんなは闇大帝にとどめを刺すべきだと思っているだろう。完全に復活したら手に負えなくなるという不安感は否が応にも共有させられた。確かに闇大帝はとんでもない怪物だ。目の前にいるこの男よりも強いだろう。
でも俺にはわかる。今ここで叩かなきゃいけないのはこの男の方だ。
魔犬の本能がそう言っている。
「だったら止めてみろよ」
覚悟を決めた。魔犬の力を全開にするしかない。
叫べ。心の奥底から。
解き放て。魔犬の魂を。
「ウゥオオオオオオ!!」
十秒。
魔犬の力を全開にして自我を保っていられる時間は、せいぜいそのくらいだろう。
制限時間を過ぎれば自我が戻っても身体はボロボロだ。下手すれば俺はもう人間としての意識を完全に失ってしまうかもしれない。
だが恐れるな。
今はただ与えられた時間を、持てる限りの力を、すべてあいつに!
「ふっ……さぁ来い!」
ここから先、犬房一志が魔犬モードを解除するまでの十秒間に起きた出来事は、私の方から説明しよう。
初手は魔犬。地面を蹴ると吸い込まれるように冥狼の胸元へ飛んでいく。そのままの勢いで繰り出されるは、魔犬の爪。冥狼の首を狙った一撃は、いともたやすくいなされる。冥狼は構えていた左の手刀で魔犬の攻撃の軌道を反らしていた。やや前傾となった魔犬の第二撃は後ろ回し蹴りだった。崩されたバランスをそのまま遠心力に変換するようにしなやかに攻撃を仕掛けるが、冥狼は身体を翻して回避する。
だらん、とぶらさげた左手がしなる蛇のように魔犬へと向かうが、魔犬の目はその軌道を捉えていた。両方の爪撃で冥狼の攻撃を受け切る。
ここまでの五秒間で、両者の間に交差した打撃は都合ニ十度。しかし、いずれも両者には被弾せず。
均衡を破ったのは六秒を刻んだ時。
冥狼の右正拳が空気の壁を打った。強い風が魔犬の全身を叩く。ダメージはないが、拳に込められた闘気が霧散し大気と混ざり合う瞬間、ゼロコンマ数秒にも満たない時の中で魔犬は動きを止めた。更なる大技を警戒したが故の硬直。その刹那を冥狼は捉える。
左手で魔犬の襟を掴み、逃げ場のない体に渾身の右を叩き込む。
魔犬はその場に膝から崩れ落ちた。やがて、犬房一志を包んでいた魔獣のオーラが消失した。
「ここまでか。思ったより粘ったな」
冥狼が踵を返そうとした時、その無防備な背に飛び掛かったのは犬房一志だった。
「――ん」
冥狼が振り返ろうとした時、犬房一志の拳がその頬に命中した。
そして、十一秒が経つ頃。
「ほう……意識を失ってなお俺に攻撃を仕掛けるか。面白い奴だ」
すうっと伸びてくる左手が、犬房一志の眼前で止まる。
「“衝”」
冥狼の左手から放つ闘気。犬房一志は遥か後方へ飛んでいった。