第百三十七話 犬と狼
メイロウと呼ばれた男は緩やかに地面に降り立った。身長は俺より少し高いくらい、180㎝はありそうだ。少し遠めでも分かる、かなり鍛え上げた肉体の持ち主だ。
さっきのは空中で自由に動く魔法か?でも、あの男は単なる魔法使いなんかじゃない。
とんでもなく強い奴と会った時のような……そうだ。羅閃とやり合った時に襲ってきた、あいつ。天羅だ。あいつと少し雰囲気が近いかもしれない。
男は青みがかった髪をかき上げる。長い襟足は狼の尻尾を連想させた。
「その呼び方やめろよ、闇のおっさん」
一秒、しっかりと沈黙の時が流れた。
おそらくはこの場にいる全員が、いや、メイロウという男と闇大帝以外全員が同じことを思っただろう。
(闇のおっさん!?)
この壊滅的なセンスの渾名?に該当する人物は闇大帝以外にいない。
「ふ……かなり消耗しているな」
あ、いいんだ。そんな呼び方されても。
闇大帝をおっさん呼ばわり……あの男は一体何者なんだ。黒いタンクトップに青いジーパンと、傍目では現実世界の人間にしか見えない格好だ。それなのに、強者特有の得体の知れないオーラを放っているから不気味だ。
「さすがの主も、賢者とサシでやり合うのは相当手こずったろうて」
「賢者?」
最初に反応したのはベリルだが、男はベリルの呟きを意にも介さず、闇大帝に歩み寄った。
「ああ。変なヤツだが、ありゃあ強かった。ずいぶん前から近くには来ていたが……くくっ、時間も体力もかなり持っていかれた。伊達に賢者は名乗ってねえな」
男は上機嫌そうに肩を揺らした。
「ここに賢者が向かってきていたのか?」
「間違いないと思う。このフロアに向かう直前、賢者クラスの魔力を感じた」
ベリルの問いに答えたのはアイハラさんだった。
「感知したのは明らかに攻撃魔力だったけど……あの時点でそれを言ったところでどうにもならないから黙っていた。賢者が負ける想定なんてしないでしょ普通。しかも……」
アイハラさんは言葉を呑んだ。言いたいことは俺にもわかった。あの会話の雰囲気から察するに、賢者を打ち負かしたらしいこの男は闇大帝の仲間だ。その上、まだまだ力を残していそうだ。会話と裏腹に消耗している様子が見受けられない。
「どうします?いっそのこと、全員でやっちゃいます?ほら、スピネさんのおかけで私たち全快したところですし」
ジーニャがひそひそと話しかけてきた。
「戦力が足りん」とベリルは即答した。「太陽が出た影響でゼイルー先生が“表”に戻っている。あの安らかな寝顔を見ろ。あと数時間は目覚めんぞ」
「やるべきだろ」
デンが俺の肩に乗って会話に参加してきた。
「あいつらがこのまま大人しく引き下がると思うか?」
「あの男はともかく……闇大帝にだけはとどめを刺したいですね」
ずっと黙っていたスピネさんが物騒なことを口にした。
「今は絶好の機会です。肉体を得た今、ここで奴を取り逃がせば短期間で更に力を取り戻すでしょう。そうなれば多くの人々の命が奪われます」
そう言うとスピネさんが腕輪に手をかけた。
「メイロウという男の魔力が消耗しているのは本当のようです。ひそかに彼の魔力量をずっと探っていましたが、おそらくは残り四割にも満たないでしょう。一方、闇大帝はほとんど魔力を残していません。つまり、彼の動きさえ封じれば闇大帝を倒せる――いえ、少なくともあの肉体を破壊することは可能なはずです」
こちらの戦力は――ベリル、アイハラさん、スピネさん、ジーニャ、そしてデンと俺の六人。
マーブルとゼイルー先生は睡眠中。ジョットは瀕死のペインを安全な場所に運んでいったという。
……いけるか?六人全員でメイロウを取り押さえた後、闇大帝にとどめを刺す。
いくらあいつが強そうでも、ここにいる全員を――。
「おい」
その一声が全員の視線を奪った。
「なんだお前ら。やる気あるんじゃねえか……」
男の口角がくっと上がった。まるで新しいおもちゃを与えられた子どものような笑顔だった。
そして、たぶん一秒ほどの間隔もなく。大嵐のような攻撃が飛んできた。
「伏せろ!!」
気付いた時には自分でも驚くほどの声を張り上げていた。
「乱風・絶」
とっさに地面に張り付いたおかげか、被害は最小限に済んだ。とてつもなく強い風が瞬く間に背中を通り過ぎていく間、吹き飛ばされそうな衝撃に何とか耐えた。
「――はぁっ!」
いつの間にか息を止めていた。
荒い呼吸のまま立ち上がると、目の前にはあの男と闇大帝しかいない。
慌てて振り返ると、デンたちは全員遥か後方に吹っ飛ばされていた。かろうじて、スピネさんだけが少し離れた所にいる。
「大丈夫です……それなりにダメージはありますが、全員命に別条はありません」
「スピネさん。血が……」
ぼたぼた、と音が聞こえてきそうなほどの勢いでとめどなく鼻血が流れている。
「防御魔法が一瞬遅かったようです。犬房さんが声を上げてくれなければ、この程度では済まなかったでしょうね」
スピネさんは血を拭いながら、かすかに微笑みかけてくれた。
その気遣いが逆に俺を沸騰させた。
「おい、お前……メイロウ!」
「気安く呼ぶなよ。名前じゃねえけどな」
「何だっていい。俺が相手だ」
慣れないファイティングポーズを取ると、狼のような男の目が鋭く光った。
次回2月12日更新予定です