第百三十六話 予感
ルテティエの街から少し離れた砂漠地帯で一人の賢者が倒れた。
賢者の名はジュパール。妖魔討伐の依頼を完了した帰路で、闇大帝の魔力を感知した彼はルテティエの地へ向かっていた。
現代の七大賢者のうち闇大帝と実際に相対した者はただ一人。サンドラ、ジュパールといった他の六名の賢者たちは闇大帝との戦闘を経験していないが、闇大帝の能力の概要と併せて魔力の情報が共有されていた。
闇の王と呼ばれる伝説の妖魔に自分の力がどこまで通じるのか、好奇心や挑戦心が彼の判断を誤らせたのだろう。仮に、彼がイッチたちの下へ駆けつけたとしても、結末は大きく変わらなかっただろう。そしてとどめは砂漠地帯の発見だ。土の属性魔法を得意とする彼にとって、砂漠のフィールドは己の魔力を最大限発揮できる絶好の舞台であった。お前が戦うべきだと神に背中を押されているような感覚を味わっていたに違いない。
砂漠地帯から砂を補充し魔力に変換していると、一人の男が近付いてきた。
一目見てわかった。その五体には到底収まりきらないような、殺意。
ジュパールが臨戦態勢に入り、およそ七分後。ジュパールは、賢者の称号を得てから初めての敗北を味わうことになる。
「ありえない……」
賢者ジュパールにとってはまさに悪夢。男は一切の魔法を使用せずに辛くも賢者を退けた。
残された僅かな魔力でジュパールにできることは交信。念じたことを相手に伝える下級の魔法だが、その範囲と精度は一般魔法使いとは比較にならない。
(誰か……誰かいないのか?)
ジュパールは仰向けのまま懸命に念を飛ばす。
(今そちらへ敵が向かっている!危険な男だ!皆、逃げてくれ!)
漆黒を纏う男が今、イッチたちの下へと向かっていた。
「ふうっ……」
終わった。今度こそ。
そんな胸中に同意するかのように光のハンマーがすっと消えた。
「やれやれ」とデンが肩から降りる。「ようやく片付いたな」
「デン、身体は何ともないのか」
「ああ。あのスピネって奴の魔法のおかげで体力も魔力も満タンになった。とは言っても、魔力の方は早速今の攻撃でほとんど使い果たしたが」
「スピネさんの魔法だけじゃない。たぶんね」
足元に落ちていた本を拾い上げてデンに見せた。
「マーブルの描いた絵か?」
「前に羅閃と戦った時にマーブルの絵に助けてもらったんだけど、あの時と同じような不思議な感じがした。タイミング的にはあの魔法の雨に当たる直前だ。マーブルの描いた太陽が回復魔法の効果を底上げしたんだと思う」
たぶん、と俺はもう一度付け加えたけど、確信めいたものを感じていた。
あの光のハンマーにしたってそうだ。手に取って瞬間に結末が見えた。俺たちはたった一つの結末に向かって進んだ。何か、途方もなく巨大な力に突き動かされているかのように。
「おい、あの女が呼んでるぜ」
デンがあごで示した先にはスピネさんが座り込んでいた。そのお膝元にはマーブルが眠っている。俺とデンがその寝顔を見守っていると、スピネさんは上品にくすくすと笑った。
「大丈夫。極度の疲労で眠っているだけですから。こういう時は魔法をかけず、自然な休息に委ねた方が良いです。お二人も数日間は十分な休息をとってください。今は疲労を感じ取れていないようですが、戦闘と回復の繰り返しで相当な負担がかかっているはずです」
スピネさんはそう言うと、穏やかな笑顔を浮かべながらマーブルの頭を撫でた。
「髪、戻ったな」
頭の先から踵まで真っ黒に染まっていたマーブルはすっかり元通りだ。久しぶりに見た虹色の髪の毛は光る波のように揺蕩っていた。
「スピネせんぱい……わ、私にも回復魔法を……」
杖をついてこちらに歩み寄るジーニャの姿は老婆そのものだった。
「君、今とても失礼なことを考えちゃいないか」
じろりと下から覗き込む、刺すような視線を俺はスルーした。
「いや?あの、ベリルとかアイハラさんは?」
「俺はここだ。何とか生きている」
少し離れたところでベリルが立ち上がる。そのすぐ横でアイハラさんがあやとりを――いや、違う。周囲に張り巡らせていた糸を回収しているだけか。
「本当に闇大帝をやったの」
憔悴しきった表情でアイハラさんが呟いた。
「はい。その証拠に、ほら」
俺は回収した本を掲げた。
「いいえ。死んではいませんよ」
そう言ったのはスピネさんだ。
「完全に消滅する前に自分から影の中に入り込む姿が見えました。念願の肉体を得たばかりで、いきなりそれを失うような戦いはしないと踏んでいましたが、案の定逃げおおせたようですね」
「一体、あいつは何なんだ?」とデンが尋ねた。
「それは――」とスピネさんは何かに気付いたように言葉を切った。
「なぜ……」
不意に発したような疑問符。その答えは、振り返るとすぐに分かった。
「闇大帝」
奴はボロボロの状態だった。両腕がなくなっていて、明らかにもう戦える状態じゃないのに、かすかに愉悦の表情を浮かべているようにも見える。つくづく気味の悪い奴だ。
「流石は運命の本。魔法を発動する前に消されるのは初めての経験である。実に面白い体験をさせてもらった。褒美だ。ここは一時撤退してやろう」
ベリルとアイハラさんがほぼ同時に構える。
「そんな褒美を受け取るとでも?」
「糸はすでにあんたを捉えている。逃げられないよ」
くくっ、と闇大帝の口角が上がる。
「遅かったではないか。冥狼よ」
闇大帝の視線の先には、一人の男が宙に浮いていた。
男がこちらの視線に気付いたか、顔を向けた。その時。
心臓が、一際大きく跳ねた。獰猛な獣に吼えられたかのように身体が委縮した。
なぜか……直感した。
俺はあいつと戦うことになると。