第百三十四話 p5『赤い夜明け』
運命の本に描いた絵は現実になる。
今のマーブルなら、火や水といった自然に存在するエネルギーを発生させることはさほど難しいことではない。ペインの下で画力を磨いたことで様々な幻想を体現することができるようになったが、強大な敵を直接的に倒すほどの創造力は生み出せない。ましてや新しい世界を創造するほどの膨大な力など望むべくもない。確かに素養はあるが今はまだ眠れる才覚なのだ。
今のマーブルの絵では闇大帝は退けられない。
「赤く汚れた指で描かれた絵などに価値はない」
マーブルの絵を見た瞬間、闇大帝はそう断じた。その胸中に広がるは失望か、安堵か。あるいはその両方か。彼自身定かではなかったが、気分を害したことは明白だった。
「本に書き込めたということは、なるほど、やはり有資格者には違いあるまい。しかし、残念なことに貴殿の創造力は残滓……搾りかすを集約したところで陳腐な現実しか顕現できぬ。つまりはただの絵物語、ゴミでしかないのだ。撒けば肥料になる糞でさえ使い道はあるが、その絵には何の使い道もない」
マーブルが血で描いたものは日の出。太陽光が闇大帝の弱点であることはスピネから教わっていた。
「スピネといったな」
闇大帝がペインから得たものは魔力や仮初めの肉体だけではなく、知識や経験も共有していた。そのため全生徒の情報はペイン同様闇大帝も把握していた。
「貴殿は賢者の家系……ラズワルドの子孫ではないか」
スピネは目を伏せて答えた。
「何でもお見通しですか。誰にも言ったことないんですけどね」
くっ、と闇大帝は小さく口角を上げた。
「その態度よ。賢者特有の太々しさと言おうか……。不完全とはいえ我を目前にしながら平常心を保っている。余程の鍛錬を経たと見える。精神力だけで言えばペインと同等だろうな」
「それは光栄なことです」
「無論、総合的な実力は比べるべくもないが。ラズワルドの奴は生きているのか?」
「はい。先日140歳を過ぎましたが、自分は今も現役だと言い張っています」
「ふ……年寄りの冷や水は寿命を早める。大人しく余生を過ごすといい」
「そう伝えておきます」
さて、と闇大帝は踵を返した。
「気が済んだのなら本は渡してもらおうか。マーブルよ」
マーブルは身じろぎ一つせず、開いたページを闇大帝へ向けている。
「血液で絵を描く芸術家はいるようだが……特に感慨は無かったな。芸術家と呼ばれる人種はそのほとんどがまがい物だ。心を穿つが如き本物の芸術を体現できる者が果たしてどのくらい存在しているのか」
闇大帝はマーブルの手から本を奪った。
「この本の正しい使い道はいずれ知ることになるだろう」
「空」
ぽつりとマーブルが呟いた。
「明けない夜はありません。どんなに暗い空もいつかは必ず晴れるものです」
天井には、ペインがクロキやボアーラと交戦していた際に魔法の衝撃で開いた大穴があった。
暗い空がみるみるうちに白ずみ、乳白色の雲が煌めいていく。
「無駄なことを……“黒漬”(クロッゲ)」
闇大帝の全身が黒い水晶体に包まれる。
「あのような汚い絵でも顕現できるとは恐れ入るが所詮はか弱き太陽だ。肉体を得た私にとって今や脅威ではないが、念のため防御幕は張らせてもらった。いかようにも対処は可能だが――何か言いたそうだな」
マーブルは軽く頷くと言った。
「この絵はこれで完成ではありません。続きがあります」
「何だと」
私は次の頁をめくった。私はマーブルの味方ではないが――このくらいなら手助けのうちにも入らないだろう。