第百三十三話 いのちの絵
マーブルが本に何かを描いている様子を見たアティスは、馬鹿な、と吐き捨てた。
「描けるわけがない。僕と戦った時――いや、王に敗れた時にインクは使い切ったはず」
マーブルは魔法の筆を所有していない。ペンか何かを隠し持っていたとしても、創造力を消耗した今の状態では何の意味も成さない。本に何かを描いたところでただの落書きに過ぎない。
しかし――マーブルの目は明らかに別の光景を見ていた。
犬房一志は倒され、最も厄介であったゼイルーにもはや当初の勢いはなく、デン、ベリルと共に屠られるのは時間の問題だ。絶望的な戦況であるにも関わらず、あの目。
まだ勝てると思っているのか。覆せると思っているのか。
アティスからすれば現実を見ようとしていないかのようなマーブルの眼差しがひどく癇に障った。
「うざいね、その目。何も映らなくしてやるよ」
その殺気に呼応するかのようにオーガの拳が飛来してきたが、アティスは難なく回避する。
「しつこいよ。“夜刃”(ノチェ・ナヴァス)」
夜風を収束し切り裂くアティスの闇魔法がオーガの巨腕に命中する。
「いくらダメージを負っていても、たかが鬼に僕が――」
オーガは自身のダメージを意にも介さず、腕を振り下ろし続ける。
「グオオオオオッ!!」
アティスは鬼の咆哮と共に降り注ぐ拳の弾幕を受けきれず大きく大勢を崩した。
「ぐ……ッ!いい気になるなよ……!」
アティスの両手に闇の魔力が集中する。
「アイハラ先輩!」
危機を察知したジーニャが声を出すが、アイハライトはすでに準備していた。髪紐を解き、唱えた。
「“アラミドの糸”」
それに続くようにジーニャも溜めていた魔力を放つ。
「アンド、“クリスタルバリア”」
アイハライトの胸元まで届く長さの髪は糸に変換され、同時に自身の掌から伸びる糸と紡ぎ合っていく。凄まじい速度で構成される糸の防御壁がオーガの前面に現れる。その糸の表面を更にジーニャのバリアが覆う。
「“死槍魔弾”」
アティスの十指から射出されたのは、鋼の強度を遥かに上回る鬼の肉体をも貫く魔弾。
ジーニャのバリアは格上の魔法使いにも通用するが、闇の魔法に対しては耐性が低い。火や水といった一般的な魔法とは違い、使い手がほとんどいない闇の魔法は未解明の領域が多く、あらゆる魔法使いにとって研究が不足していた。ジーニャのバリアだけならアティスの魔弾が確実に貫いていたが、その下にはアイハライトが拵えた、あらゆる硬度の刺突を防御するアラミドの糸が敷かれていた。
「うっ……ぐぐっ!ふざけるな、こんな、こんな奴らに……僕が」
殺すつもりで放った槍の魔弾は、完全にせき止められていた。
貫けない。それどころか、少しずつ押されている。
ちくしょう。
ケルニーアさえ召喚できれば、こんなゴミどもなんか瞬殺できるのに。
マーブル。あいつのせいだ。
大半の魔力を消耗させられた。もう召喚は使えない。
これでとどめを刺さないと。こいつらを殺してマーブルを止めないと。
僕は。僕の生まれてきた意味は。
違う――僕は、役立たずなんかじゃない!!
「うぐぉおおおおお!!」
バチンッ!!
アティスの槍が弾かれた。
やった、とジーニャが叫ぼうとしたが、アイハライトは反対にヤバい、と呟いた。
「くっ――」
咄嗟に糸の防御壁を頭上へと伸ばそうとする。アイハライトが使用できる糸を総動員してギリギリ届くかどうかの長さだった。
ジーニャは数秒遅れて気付いた。魔弾は消えていない。弾かれたのではなく、自らバリアから離れた。そして自分たちの頭上、もっとも防御の薄いバリアの層を突き破ろうとしている。
「うあああ!」
ジーニャもまたバリアを張り巡らせようとする。
「死ね」
死の槍がジーニャたちに迫る。その刹那。
「“鳥船・梯子渡り”」
隙を窺っていたジョットが鳥の大群を呼び寄せた。ジョットによってわずかな魔力を込められた鳥たちは槍に寄り添うように群れを成すと、槍をあらぬ方向へ運ぶように飛んでいった。
「な……!」
渾身の一撃を無効化されたアティスに動揺が走る。その一瞬をオーガの正拳が捉える。
ジーニャたちがバリアを張っている間、オーガもまた鬼の妖力を拳に溜め続けていた。
鬼族必殺の一撃“焦獄砕”がアティスの全身を灼いた。
「あ……あっぶなかった~。ありがとうね、ジョット」
全身の力が抜けたようにジーニャはその場にへたり込んだ。
「礼など良い。恥ずべき話だが、今の私の力では満身創痍であるはずの奴に太刀打ちできんのだ。咄嗟のフォローだけで精一杯だ」
「それがなかったら私たちの命はなかった」アイハライトが糸の魔法を解除した。「あれは受けが間に合わないタイミングだった。本当に助かった」
ウガ、とオーガが頷く。
「オーガも礼を言っているみたい」
「しかしまだ戦いは終わっていない。犬房たちはまだ――」
ビシッ!
何かがひび割れるような音が響いた。
「今、何の音」
ジーニャが見上げると、ジョットが倒れ込んだ。その額には血が流れている。
「ジョット!!」
「否。ちょうど今しがた終わったばかりである」
全身が血に塗れた闇大帝がゆっくりと、何かを引きずりながら歩いてくる。近付くにつれ、引きずっているのは意識を失ったゼイルーだとわかった。
「生き残った者たちに伝えるがいい。この者……ゼイルーは本日をもって退職である。鍛えればモノになりそうなのでな、連れてゆくことにした。後はもう一人……そこで絵を描いている者。今はマーブルと言ったか。そ奴も貰う。その本ごとな」
「誰がそんなことを許すの」
アイハライトは手と髪を糸に変換する。
ジーニャは立ち上がり、オーガも戦闘態勢に入ろうとする。
「不思議で仕方がない。なぜ、貴様らは無駄に死のうとするのだ?」
闇大帝の魔力が膨れ上がっていく。夜闇の吸収により再び魔力を回復させていた。更にはイッチやゼイルーとの戦闘により肉体の使い方に慣れ始めた闇大帝の戦力は――。
「あれ」
ジーニャの視界が歪み、倒れた。その直後にオーガの姿が消える。ジーニャの召喚を維持する精神力が切れたためだ。
「魔力に当てられただけ卒倒したか。よくもその様で歯向かう意思を見せたものだ」
「……うっ」アイハライトは口を押えた。闇大帝が纏う負の気の大きさ、あまりの禍々しさに嘔吐感を覚えた。
闇大帝はアイハライトに目もくれずマーブルへ歩み寄る。
マーブルは一心不乱に描く。その指を真っ赤に染めて。
「待ってください」
スピネが闇大帝の前に立ちはだかる。
「それ以上彼女に近寄らないでください。マーブルさんは重体です。あなたの魔力の圧には耐えられないでしょう」
「スピネさん。私は大丈夫です。完成しましたから」
マーブルはすくっと立ち上がり、闇大帝を正面から見据えた。
スピネは何かを言いたそうとにしたが、すっと身を引いた。
「ほう。筆を持たずに何をしているのかと思えば……血で描いていたのか」
マーブルと犬房一志の血。そしてかすかに残されたインクの力。
今のマーブルが持ちうるすべての力を使って完成した絵。
「描けました。これがあなたを倒す絵です」
マーブルは闇大帝に向けて本を開いた。